感動日記 四二二六 道元禅師に学ぶ 令和六年五月三十一日 | 雨にも負けず菩薩道

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菩薩の心で人生を生きる。

宗教哲学において学ばなければならない最も大切な著述に道元禅師の正法眼蔵があります。

その正法眼蔵の重要な部分を選びまとめたものが修証義です。

 

まずはその総序の冒頭の言葉は

「生を明らめ死を明きらむるは仏家一大事の因縁なり、生死(しょうじ)の中に仏あれば生死なし、但(ただ)生死すなわち涅槃と心得て、生死として厭(いと)うべきもなく、涅槃として欣(ねご)うべきもなし、是(この)時初めて生死を離るる分(ぶん)あり、唯一大事因縁と究尽(ぐうじん)すべし。」

 

(我々が生きているということは、どういうことか、死とはどういうことか、その真実をはっきり見極めるのが仏教者として最も根本的問題であります。

生まれてから死ぬまで、我々は迷い、苦しみのまっただ中に生きているようですが、その生まれてから死ぬまでの生きている現実の中にこそ仏(覚ったひと)はいるのですから、迷い苦しむ生活としての生死はないのです。

ただこの生まれてきてから死ぬまでの現実そのものが、不生不滅の涅槃(さとり)の境地と心得たらいいのであって、そうなると、いやがり、きらうべき生死という迷いの生活もなく、ねがいを求めるべき涅槃(さとり)の境地というものもありません。

こうなった時、はじめて生まれてから死ぬまで迷い苦しむただこれこそが一番大事な根本問題であるということに徹底しなさい。)

そして正法眼蔵の生死の章には他力のような言葉があります。

「心をもて計ることなかれ、言葉をもて言うことなかれ。ただ我が身をも心をも放ち忘れて、仏の家に投げ入れて、仏の方より行われて、これに随(したが)いもてゆくとき、力をも入れず、心をも費やさずして、生死を離れ、仏となる」

 

(あれこれ考えるな、言葉に頼るな。我々が生きているこの世界は、苦に満ちている。

我々の思惑の及ばない苦が確かに存在し、必ず誰の身の上にも降りかかる。

けれど、人はこの世界に執着し、自分に執着し、愛するものに執着し、過去や未来に執着している。

楽しいときには「いつまでもこのままで」と望み、苦しいときには「はやく去ってほしい」といやがる。

その、心の働きこそが「苦」の本質なのだという自覚もなく。

道元禅師はそこで「仏の家に投げ入れろ」と説いた。

 

自分の体の事も心の事も考えることを止め、心配事があっても楽しいことがあっても、厭だとか、良いとか思わずに、すべて仏の家に投げ入れて仏にすべてお任せする。

そうすれば、すべての事について仏の方から働きがあり、それに従って生活するとき、力をも入れず心を煩わすことなく、生死を離れることができる。)

 

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