感動日記 四一九七 宗教統一 令和六年五月二日 | 雨にも負けず菩薩道

雨にも負けず菩薩道

菩薩の心で人生を生きる。

己にとって幸せとは何かを明らかにする事を宗教統一と言います。

宗教統一とは、是ぞという信心の道を明確にしなければ幸せはやってきません。

さて人間にとって幸せには種類があると思いますか。

わたしは人類に取っての幸せには種類など無いと思っています。

幸せとは感謝の心が生まれ無ければ幸せにはなれません。

そしてその恩返しをしようとする勇気が無ければ幸せは訪れてはくれません。

そして己とは罪悪深重煩悩熾盛の凡夫である事の自覚とあいまって佛様が己の身に佛光となってあらわれて下さるのです。そしてその幸せの姿が法悦となって涙があふれ出るほどの喜びがあふれ出てくるのです。

これを人間の真実の幸せというのです。

吾々は自らを完成した人間だとは誰一人として思って生きている人はいません。

いるとしたならば高慢チキな政治家や威張りたがり屋の経営者です。

その人達は自らを振り返り見ようとしない獣のような生きものです。

人間とは己とは何者かを問うて初めて人間になるのです。それが仏教の教えでもあります。

貴方は今、どうして生きているのですか、という問いかけが己と人類に対する究極的な問いかけであり、この問いかけの中に人類の生きるべき道が秘められているようです。

カラスが夕方になると古巣へ帰ろうと巣に向かって飛んでいきます。

本能ではあろうけれども自然の光景であり美しい姿です。

だとしたならば吾々人間も自然に生きればいいのです。

しかし人間は己の煩悩と欲望で生きようと自然に逆らって生きようとするから苦が生まれるのです。

日本には多くの新興宗教と呼ばれている宗教があります。

しかし知人にもその新興宗教の信者もいますが、さすがこの人は素晴らしく立派な人だと思えるような人は一人もいません。

何かが欠けているからなのでしょいう。

昔、臨済宗の僧侶でもある秋月龍珉先生の「誤解だらけの仏教」という本を読んだ事がありました。

先生は僧侶でありながら師匠の葬式位しか行かれたことがないそうです。

       

その先生が小学生の頃に相馬御風の「良寛さま」という本を読んだのが宗教というものに心をうたれ、それが禅との出会いだそうです。

その先生が最後には曹洞宗の僧侶である良寛さんの弥陀について語っておられます。

良寛さんの詩に

愚かなる身こそなかなか嬉しけれ弥陀の誓ひにあふと思えば

我ながら嬉しくもあるか弥陀佛のいますみ国に行くと思えば

草の庵に寝ても覚めても申すこと南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏

これらの詩は禅僧とは思えない詩です。

因みに道元禅師も「ただわが身をも、放ち忘れて佛の家に投げ入れて佛の方より行われて、これに従いもてゆくとき、力をも入れず心をも費やさずして生死を離れ佛となる。

たれの人か心に滞るべき。」と詩っておられます。

禅は念仏をもって完成するのではないだろうか。

   

一休さんも鈴木大仙も三木清も西田幾太郎も内村鑑三も夏目漱石も倉田百三もハイデガーも行き着く所は弥陀の国なのです。