いつの世も世界は戦争に明け暮れています。戦争とは人殺しの事です。
何故、そのように悲惨で残酷な戦争が絶えないのでしょうか。
「鏡」かがみから我を取れば神になるが如くに、このおれが俺がの「我」のせいなのでしょう。
虫偏に我と書いて蛾という昆虫です。
己を護る為に多くの粉で体中を覆って防御しています。
吾々人間もこの蛾のように己の我を護る為に鎧兜を被り他を寄せ付けようとしない自己中心欲を持っているのです。
この欲望こそが戦争の種であり原因ではないでしょうか。
常々申し上げているのですが人間誰でもに仏心が備わっています。
故に人間の命は尊いのです。
単に人が亡くなれば悲しいのではありません。
生きている時の仏心が無くなるのが悲しいのです。
そのような仏心を持っている者同士が、意見が違っていたとしても徹底した話し合いをすれば自ずと和が保たれるという事を今から一四五〇年も前に聖徳太子が「和をもって貴し」人間社会において最も大切なことは「和の魂」であると教えておられるのです。
太子は日本古来からの神道を導きとするか仏教を国のよりどころの教えにするかを決断なされて仏教を選ばれたのです。
神道は倫理であるとの英断を下されたのです。
そして平安時代に注目されるのが多くの仏教宗派においてどの教えが大衆を幸せに導くことが出来るかの大激論が平安時代に行われました。
それが法然上人を交えての大原問答という大事件的な出来事です。
その極めつけの出来事をあまり僧侶達や仏教学者は問題にしていないようです。
大原問答とは大原談義ともいわれ、浄土宗を開いた法然上人が、天台宗、真言宗、法相宗、華厳宗、禅宗などの学者たち380余人と対決した仏教の大論争です。
文治二年(一一八六)浄土宗の開祖法然が、比叡山の学僧顕真法印の求めにより、大原の勝林院で、奈良の諸大寺や延暦寺などの学僧を相手に浄土念仏の教理について論議、問答したのです。
大原問答の第一問は、まず天台座主になる顕真からでした。衆生を救う、というと何がすぐれているのですか?それに対して法然は「すべての人が救われます。
天台宗や真言宗、禅宗などの自力の仏教は、人を選ぶではありませんか。
それは智慧のある人でなければなりません。
欲や怒りや愚痴の者は助かりません。たくさんの厳しい戒律もあります。
それではほとんどの人は救われないではありませんか。しかし、他力の仏教は違います。
欲のやまぬ者も、怒りの起こる者も、愚者も、智者も、善人も悪人も、男も女も、すべての人が救われるのです」これには、顕真も言い返す言葉がなくなってしまったのです。
「禅宗でさとったといっても、それは究極のさとりではありません。
達磨大師は壁に向かって9年間、手足が腐り落ちるほど座禅をしましたが、最後は他力でなければさとりはえられないと知らされて、晩年は念仏三昧に入られているではありませんか」
真言宗と禅宗を学んだ明遍僧都に対して空海自身、秘密念仏を伝えて「空海の 心の中に 咲く花は 弥陀よりほかに 知る人ぞなき」と歌っています。
一旦悟ったといっても究極のさとりではないために、最後は高野山に入定して、後の世に仏が現れるのを待っているというではありませんか」これには返す言葉がなかったそうです。
極悪人が救われるというのは、好んで悪を造ってよいということではありません。
もちろん他力の仏教でも善の勧めがあります。
好んで悪を造る者は悪が知らされませんが、善に向かえば向かうほど、我が身の悪が知らされてくるのです。
そして、仏教を聞いて、悪しかできない真実の自分の姿がハッキリ知らされたとき、苦悩の根元が断ち切られ、絶対の幸福に救われる、ということです。
ここは間違い易いところですから、よくよくお聞き下さい」
大原問答の勝敗は、こうして法然上人は、一昼夜にわたり、日本中の仏教学者380余人のすべての難問にことごとく答えられ、たった一人で撃破してしまわれたのです。
論争に敗れた顕真は、法然上人を勢至菩薩の化身と拝し、その他の380余人の学者たちも全員法然上人のお弟子となったといわれます。
そして、法然上人の深い学問と高いお徳に感動した満堂の聴衆は声高らかに念仏を称え、その声は三日三晩、大原の山々に響いたといわれます。
こうして日本にも、すべての人が本当の幸せになれる真実の光が差し込み、現代日本に至るまで自力の仏教よりも他力の仏教の人が多くなったのです。
釈迦一代の教えは、最後は他力へ導くために、相手に応じて説かれた方便なのです。
この大論争が一昼夜に及んで、言い戦わされたのです。
徹底した話し合い、これが和の魂なのです。
法然上人は、幼いころは勢至丸と呼ばれ、漆間家の後継ぎとして育てられていました。
勢至丸が九歳となった保延7年(1141)、事件が起こります。
当時、父・時国は、中央領主の意を受け荘園を管理していた明石定明と対立関係にあり、その夜討ちを受けます。
この戦いで深手を負った時国は亡くなる直前、次のように勢至丸に遺言します。
「敵を恨んではならない。かたき討ちをすれば、その者の子がお前を恨んで同じことが繰り返される。
出家して父の菩提を弔え」勢至丸は、母親の血縁を頼って、現在の岡山県と鳥取県の県境付近にある菩提寺という寺に預けられ、叔父にあたる勧覚という僧侶のもとで仏教を学ぶこととなります。
イスラムやキリスト教のような目には目をというような教えでは戦争が絶えません。
恨みは繰り返してはならないのです。
和という字の由来は「禾」は軍隊の門の前にある標識、「口」は神への誓いの言葉である祝詞を入れる器を表し、二つ組み合わせて「軍隊の陣地内で戦を止め、神の前で平和を誓い合う」様子を表現しているそうです。
このように聖徳太子の「和の魂」である徹底した話し合いと恨みの遮断による以外に平和は訪れないように思えるのです。
和魂齎平和「和の魂が平和を齎(もたら)す」という言葉しか戦争のない世界が訪れないのです。
それを世界に知らしめるのが大和民族なのです。