わたしがこの世に生まれていなかったならば誰にも会う事はできません。
鳥の声も聞こえません。
山を見ることもできません。
しかし人は今生きている事が当たり前だと思って生きています。
不思議な世界を生きている事に気づかないのです。
最近ですが心臓の病気で二度、入院しました。
一回目は七月にタコツボ型狭心症で六回も心臓が止まり二週間位入院しました。
もう一回は心房細動のカテーテルによる手術でした。
この手術は二泊三日で退院というものでした。
三時間に及ぶ全身麻酔での手術でやはり意識はありませんでした。
数回に及ぶ無意識状態の時、いわば死んでいる時には地獄も極楽も何もありませんでした。
死んでしまっては別世界である地獄世界、極楽浄土もありませんでした。
やはり人間は生きている時しか地獄も極楽もないのでしょう。
その生きている時にこそ法句経の「人に生まるるは難く、いま生命あるは有難く、世に仏あるは難く、仏の教えを聞くは有難し。」という言葉の真意をわかって下さいというのが佛さまの願いではないでしょうか。
今、このように自分の命がある事に驚嘆し、更に仏法の話を聞ける事はあるはずのない不思議な出来事である、ということに人生の全てがあるようです。
人生は苦の娑婆と申します。
さてこの苦とはいつやってきているのでしょうか。
過ぎ去った苦労は既に過去の苦労です。
これからやってくるかもしれない苦労は未知の苦労であり鳥越苦労です。
それと同じように幸せにしても昔は幸せであったと思い出したにしても既に過ぎ去ってしまった幸せです。
苦にしても幸せにしても今が苦であるか幸せであるかが問題なのでしょう。
今が幸せであると思えない人は一生幸せには巡り合えないように思えるのです。
過去は既に過ぎ去り未来はまだ来ぬ幻です。
この今の中に幸せがつまっているようです。
究極的にはあなたの命はどうしてあるのですか、の問いの中に人生の全てが秘められているのでしょう。
今、生きている事、命があることこそが幸せの絶頂にいるのです。
今生弥栄をわかるために人は生きているのでしょう。
権利を訴える人には永遠に幸せはおとずれてはくれません。
己の命のもったいなさに涙が流れ、そして佛さまに遭えることこそが人生の醍醐味といえるのでしょう。
それを人生の法悦というのでしょう。