ジュース・ボックスの釣銭の所をのぞき込むのが癖のような人がいます。
人間とは金銭欲から金を見かければ懐に入れたくなる気持ちは誰でもがもっているのです。
人間とは己が醜い人間だと思っていたとしても、その惨たらしさから容易には抜け出せないのです。
寺の本堂前に浄財と書いた賽銭箱が置かれています。
ふと何で浄土の浄という字は氵に争と書くのだろうかと思いました。
きよめると読みます。会意兼形声文字です(氵(水)+争(爭))。「流れる水」の象形と「ある物を上と下の手で引き合う象形と力強い腕の象形が変形した文字」(「力を入れて引き合う」の意味)から、力を入れて水を「清める」を意味する「浄」という漢字が成り立ったのです。[浄」は「淨」の略字です。
人間とは自分との戦いであり、苦の娑婆であり、それを水に流して清らかにしよう、という様な意味合いなのでしょうか。
最近は歳の性か読書も、しなくなり感動することも少なくなり、そして体を動かすことも億劫になってきました。
平穏無事が浄土なのでしょうがその自覚がなくなってしまうのです。
やはり刺激、自らとの葛藤がなければ浄土はあらわれないのです。
その刺激を求めるという字が「争」という字ではないだろうか。浄土に往くには自らを振り返りみる事を継続しなさい、という事で「争」という字が入っているように思えるのです。
己とは何者かを追い求める所に浄土があるように思えるのです。
故に妙好人は常に己の醜さを追い求めているからこそ浄土の花が咲くのではないだろうか。