宮澤賢治の「雨にも負けず」の詩に、そのような人間になりたいの一つに「ホメラレモセズ」という言葉があります。
その裏には本当は褒められたいが、それを当てにするようでは自分の理想とする人間にはなれない、との思いが込められているのでしょう。
しかし煩悩熾盛の凡夫には到底なれないとのいら立ちの言葉のようにも感じられます。
最近の己を考えた時、煩悩即菩提とは理屈では分かっていても煩悩が多く強いので菩提の気配が感じられていませんでした。
親鸞聖人の和讃に「罪障功徳の体となる 氷と水の如くにて 氷多きに水多し さわり多きに徳多し」(悲しみあるがゆえによ
ろこびあり 煩悩あるがゆえに菩提あり)浄土真宗本願寺派布教使、山本攝叡先生の話がネットにありました。
「罪障」というのは、文字通り、この私の罪と障(さわ)りです。
功徳とあるのは、如来さまのはたらき、その功徳をいいます。
この功徳は、浄土に往生してからの功徳ではないことに、気をつけなければなりません。
今、この私の上ではたらいてある功徳をいいます。
「体」というのは、「物事がはたらく際、もとになる存在や組織」と定義されています。
そうするとこの一首の意味は、「この私の罪や障りこそ、如来さまのはたらきのよりどころであり、大本(おおもと)です。ちょうどそれは氷と水のような関係で、氷が大きいとそれが溶けてできる水も、量が多くなります。
私の障りが大きければ大きいほど、如来さまの功徳も、それをつつみこむように、より大きくはたらいてくださるのです」というような意味になります。
この和讃のたとえが絶妙で、氷と水の本質は変わりません。
もし本質が異なれば、氷は絶対に水になることはできません。
ここに仏教の原理が説かれています。
江戸時代の大谷派の学僧、香月院深勵師が、安居(あんご=僧が、夏、一ヶ所にこもって修行すること)で京にこられたことがありました。
久しぶりにお会いできると、お泊まりの所へお同行が訪ねて行かれます。
「和上さま、お久しぶりでございます。
この度は、ご苦労様でございます」「おお、久しぶりじゃ。よう来てくれた。
ところで、手土産は何かな」思いがけない言葉。和上も歳を召(め)されたのかと、「取り急いで参りました。
手土産はまた明日にでも」「なに。手土産もないのか」「明日、持参いたします。
何がよろしゅうございましょう」...そうじゃな。お前さんの罪と障りを持ってきてくれるか」阿吽の呼吸で、お同行には和上の心がわかりました。
「仰せではありますが、罪と障りは、とうの昔に如来さまにお預けしてあります」 「おおーっ。如来さまに先を越されたか。
それでは、お前さんの煩悩を、重箱に詰めてきてくれんか」「和上さま。仰せでもそれは無理でございます。
煩悩こそ、私のよろこびの種でございますから」こに念仏者の人生、すべてが言い尽くされています。
煩悩だらけの己ではありますが、ひと皮むけて漸く菩提の芽が出て来たように思われます。有難う御座います。
南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏