我が家に良寛さんと、良寛さんを師匠と仰いだ相馬御風の掛け軸があります。
禅僧である良寛さんは何故、お念仏の世界に生きられたのでしょうか。
「草の庵にねてもさめても申す事 南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏」
「良寛に辞世あるかと人問はば 南無阿弥陀仏というと答へよ」
「われながらうれしくもあるか弥陀仏の いますみ国に行くと思えば」
「他力とは野中に立てし竹なれや よりさはらぬを他力とぞいう」
「不可思議の弥陀の誓ひのなかりせば何をこの世の思い出にせむ」
「み仏のみ法の道に仮だにも 契る心はうれしからまし」
「極楽にわが父母はおはすらん けふ膝もとへ行くと思へば」
「おろかなる 身こそなかなか うれしけれ 弥陀の誓いに あうと思えば」
「不可思議の 弥陀の誓いの なかりせば 何をこの世の 思い出にせん」
この様な歌を詠まれた良寛さんは妙好人でもあられたのです。
凡夫が座禅を行いその真髄を極められると思われるであろうか。
座禅に挑戦したとしても八正道を極めようとしたとしても出来ないのが人間ではないでしょうか。
性犯罪が多く報道されたり、アメリカでは子供を誘拐しての性犯罪島があったとも言われています。
そして我々自身も若い時には性欲を抑えきれずに、はけ口を求めていたはずです。
如何ともしがたい醜い存在なのです。
「諸悪莫作、衆善奉行、自浄其意、是諸仏教」(諸々の悪をなさず、諸々の善いことを行い、自ら心を浄める、是れ諸仏の教えなり)という言葉が七仏通戒偈にあります。
この言葉には唐の白楽天と道林禅師の逸話があり、道元禅師も「正法眼蔵」の中で以下のように取り上げています。
--白居易が道林禅師に参禅した。
ある時、「仏法の大意とはいかなるものか」と問うた、道林は「諸悪莫作 衆善奉行」と答えた。
白居易は「そんなことなら、三歳の童子でも言えること」というと、道林禅師は「たとえ三歳の童子が言えたとしても、八十歳の老翁でも行い難し」と答え、白居易は礼拝して去った。
-- 以上のようなお話しです。