金子みすず、の「さびしいとき」という詩があります。
私がさびしいときに、よその人は知らないの。
私がさびしいときに、お友だちは笑ふの。
私がさびしいときに、お母さんはやさしいの。
私がさびしいときに、 佛さまはさびしいの。
この詩の最後には「私がさびしいときに、お母さんはやさしいの。 私がさびしいときに、 佛さまはさびしいの。」と詠われています。
確かにお母さんは優しいけれど、佛さまが私を見守っていて下さって、一緒にって、さみしいと思っておられる、何と勿体ない、かたじけない事なのだろうか、というような思いなのでしょう。
このような心は、感性は勿論ですが、その真相は信心の極みからなのでしょう。
我々人間は佛さまの大慈悲に生かされ、この大慈悲心の信心を得る為に生まれてきているのです。