感動日記 3,272 懺悔滅罪と環相回向 令和2年4/1(水) | 雨にも負けず菩薩道

雨にも負けず菩薩道

菩薩の心で人生を生きる。

テレビの7チャンネルで 昼めし旅という番組があります。

この番組は各家庭の、ご飯を見せて戴く番組です。

見ていると100パーセント位の家庭では箸置きを使っていません。わたしは箸と箸置きは日本文化の象徴ではないかと思っているので、嘆かわしく思うのです。

実印の押印はどのように押せば正確なのかの印がついていません。

その実印を押すのには、その間に実印を押してもいいかどうかの間をとり考える間だとも言われています。

箸置きについても、「いただきます」との言葉を述べ合掌してから右手で箸をつかみ左手に移し更に右手に移してから使い始めます。

見ていても、その作法は美しいものです。

 

その間とは何を意味しているのでしょうか。

わたしが思うには、今言った「いただきます」を心底から思いなさい、という念を押す間ではないでしょうか。

感謝という言葉は相手に対して謝るという事であり、その相手とは我々に命を奪われる他の命に対してなのではないでしょうか。故にその作法が美しく感じられるのではないでしょうか。

 

更に思うには、御免なさいと懺悔して済むはずがないのです。

その答えを求めるのが真の宗教ではないでしょうか。

謝っても謝ってもその罪は消えるものではありません。

釈迦涅槃像にはお釈迦さまの入滅を悲しみ多くの動物や鳥などが周りに集まっています。

お釈迦さまも人間ですから生きている内には彼等の仲間の命を戴いた事でしょう。

にも拘らず、お釈迦さまの死を悼み集まってきているのです。

何故なのでしょうか。

それはお釈迦さまの餌食になってしまった彼等の尊い命に対して、我々以上に懺悔の心をお持ちだったのでしょう。

その懺悔の心をひるがえして生きとし生きるものに対して大慈悲心を起こされたのです。

我々凡夫が生きる道は殺生を繰り返さなければ生きてはいけないという罪を背負いながら環相回向(げんそうえこう)として菩薩の道を進む事こそが懺悔となるのではないでしょうか。

 

法然上人は念仏による滅罪を説かれましたが、懺悔による滅罪を強調することはありませんでした。

因みに環相回向とは、人が穢土から離れて浄土に往生し、しかし余りにも穢土の姿が苦しみに満ちた世界なので、今一度、浄土から穢土に戻り多くの人びとを引き連れて浄土に往生できるように導かなければ私は仏にはなり得ない、という阿弥陀仏の本願の働きの中に生きる事なのでしょう。

 

南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏