昔、田舎でお正月になると飼っていたウサギを殺して、お雑煮の御馳走に戴きました。
鶏も殺し戴きました。
子供の頃に、クジラの皮と思われるギトギトの表面が黒い脂肪だらけの肉を味噌汁で戴いていました。
今もその時の感触と味を恋しく思い出します。
暫く前からクジラの捕鯨が問題になっています。
日本政府は、捕鯨は日本の伝統文化に基づくもので、日本の漁師は何百年にもわたってクジラを捕獲してきたし、何を食べていいか悪いかを外国人に指図されるいわれはないと述べています。
イルカの捕獲も問題になっています。
世界では犬や猫を食べる国もあるようです。
宗教によっては牛や豚を食べてはいけない宗派もあるようです。
そもそも生きものとは何なのでしょうか。
果たして人間は、生きものは命のないもののみを食べて生きていく事ができるのでしょうか。
多分それは出来ないのでしょう。
野菜も命があるのです。
野菜には痛みを感じる能力がないから問題がないとは人間の勝手な思いではないでしょうか。
生きものには宿命として食欲という本能が備わっているのです。
戦争時には人肉も食べたというような話も聞いた事がありました。
そもそも命には差があるのでしょうか。
どんなに美しく優しい女性であったとしても肉をむさぼる鬼女なのです。
その慰みから人間が勝手に可愛いからとしてペットを飼っているようにも思われます。
どんなに修行を積まれた僧侶であっても、どんなに観音様のように優しい女性であったとしても、全ての人は他の命を奪う殺生罪の犯罪者なのです。
牢屋行きで地獄行きが定まっているのです。
そのような殺生犯に救われる道があるのでしょうか。
わたしにはまだその答えを明確にする事ができません。
その報い、義務を行なう事で赦しを得るしかないのではないだろうか。
それが布施行ではないでしょうか。
笑顔と優しい言葉、他に対しての労わりの行動が大切になるのです。
菩薩道で生きるしかないのです。
親鸞聖人は、「いずれの行も及び難き身なれば、とても地獄は 一定すみかぞかし」どのような行をおこなったとしても地獄行きは必至であるというのです。
人間が傲慢になる事など微塵もないのです。
このように行き場のない人間に一筋の光がさして下さったのです。
その光こそが南無不可思議光という阿弥陀仏の御光なのではないだろうか。