父の戦争
~それでも子供たちを戦場に送りたいですか!?






パラオ島沖の海を漂流、
生死のはざまを越えて生還した従兄の物語

   (赤澤 喜美得「私の戦争史・新編」より) 


★はじめに

 昭和20年6月29日、岡山が空襲を受けてから今年は60年目、
むかし祖母が亡くなったのはその2日後のことで、7月1日が命日である。
先日私は、今年も祖母の命日にお墓参りをして墓前の草むしりをしながら、
60年の歳月をふり返り、お葬式のとき元気な男子は全部出征していて、
いつ空襲警報があるかもしれぬ中を……わびしかった思い出がうかんできた。
 
祖母は子供5人、孫は男女16人いた。何事かあると、
分家や親戚の従兄弟などがすぐ集まる。
棒切れや竹をふりかざして走りまわり、外の方は賑やかな戦場となる。
おばあさんも、
「この孫が大勢育っておるけん、
私が山へ上がる時には輿の担ぎ手には困らんで、
しっかりしたもんじゃなあ」
 と頼もしそうに笑っていた。
 

そのガキ大将らも成人して、徴兵検査に合格し、
兵役について次々に出征して行った。
お葬式の時は孫6人が出征していて、祖母の出所の甥2人も応召していた。
屋守の叔母は、
「三人も男の子が奉公しておりますけん、
どの子かが天皇陛下に上げます子になっても、しょうがありませんなぁ」
 と覚悟ができたように話していた。
 
お位牌は父が亡くなっているので、女の私が持ったが、
世相が緊迫しているので、何とも言えぬわびしい野辺の送りであった。
 

★その頃、従兄は死線を越えて
 
分家の十九一さん(私の従兄)は、現在88才(大正6年生まれ)、
少し体調がすぐれないので、見舞い方々、話を聞きに行った。
(平成17年3月23日のこと)

「おー、わしも大平洋を12時間も泳いで助かった命じゃ。
ジャングルの中で弾丸の間をくぐり抜けた命じゃが、
ようもったもんじゃ、もういつ死んでもええぞ」
 
側にいた奥さんの笑子さんが、
「また始まったで」 と笑っている。
日頃、話の端々から激戦地で戦ったくらいには思っていたが、
よくも生きて帰られたなぁ、只ならぬ生命であると、つくづく思い、
ぜひ後の人に書き残したいと思った。
 

★現役兵として入隊
 
昭和14年1月10日、加古川高射砲隊へ現役兵として入隊し、
4ヵ月間加古川で初年兵としての訓練を受ける。
続いて陸軍病院で衛生兵としての教育を受ける。
4月から12月まで。その後、内地で衛生兵として勤務をする。
昭和16年夏頃、大連から上陸して、旧満州のチャムスで約半年勤務する。
昭和17年4月、満期除隊になって、図門(朝鮮半島北部)を通って帰還した。
 

★1年8ヵ月して再び応召
 
昭和18年11月末、赤紙が来て再び軍隊に入る。
姫路中学校講堂へ集結して、外地へ向けて出発の準備をする。
12月、宇品出港。にきち丸(1400トンの徴用船)で、
南洋のパラオ島へ向かって出発した。
九州を過ぎたあたりより、米潜水艦が尾行して来た。
行方を隠すために西へ東へとジグザグに走行して、
直行なら1週間で着く予定だが、23日かかってパラオ島沖へ着いた。
別々に走行した船は、パラオ島沖で5隻の船団を組むため5日程停泊した。
 

★爆発した船から海へ投げ飛ばされる
 
昭和19年1月1日、船は赤道直下を通過した。
食糧の乏しい中を赤飯を炊いてお酒をつけて赤道まつりをして祝った。
上空にはいつも連合軍の飛行機が飛んでいたが、出発当初は爆撃はなかった。
十九一さんも、金光、連島の近郷出身の人がいたので、
戦友として特に親しくなり、
「おーい甲板は危ないぞ、船室へ下りろ」と迎えに来る。
下へ降りると、これもまた不安でまた上がる。
直撃を受けるぞ、と呼びに来る。スコールで烈しく雨が降り出した。
何百の敵機が雲の上をゴーゴーと舞っている。
2時間程したらスコールもおさまった。
すると200機程の爆撃機が一斉に船をめがけて襲撃をはじめた。

「下が危ないから上がれ!」
「上は直撃を食らうぞ、下りろ!」
夕方7時、応戦するすべもなく、にきち丸の弾薬庫に敵弾が命中し
大爆発を起こした。
十九一さんは気がついたら爆風で海中に投げ飛ばされていた。
船から離れるために必死で泳いだ。
浮かんでいる竹竿の束につかまり後を見たら、
船は4・5回大きく揺れて、見ている間に水没してしまった。
 
夕暮れの甲板には照明灯を振って大きく円を描きながら、
海中へ投げ出された兵隊等に別れを告げて、
船諸共沈んでいく船長の姿を見た。
 

19年1月10日午後7時、南緯5度7分の地点で
5隻の船団は一度に壊滅してしまったのである。
この時の被害約3万5千人、この海域では最も大きい損害であった。
(注:輸送船や被害者の数字は確かではない)
船室にいた戦友は助けようもなく、二度とまみえる事はなかった。
 
この船団はオーストラリアへ、9万の兵隊を送り込む作戦であった
けれど、輸送船の調達も充分でなく、爆撃の損害も大きくて、
この計画は失敗に終わったのである。
 

★大平洋を漂う
 
一方、海に投げ出された者は、助けをもとめるすべもなく
夕闇の海中に漂うよりほかはなかった。
暗黒の12時間、気がついたら片方の靴が脱げていた。
赤道直下とはいえ夜の海中は寒かった。
海中で小便をしたら、ほっかりと海水が温かく感じられた。
一度に放尿したら後が長いので、少しずつ出して、
その時だけでも暖かく感じて、自分が生きていることを確認しながら、
夜の明けるのを待った。
 
広い太平洋に朝が来た。速度の速い小型の駆潜艇が、
シャーと近づいて来て縄梯子を下ろしてくれたが、
どうしても自力では身体が水から離れない。
縄梯子を引き上げてもらって、やっと甲板に這い上がった。
助かった。運がよかった。
小型船なので海上に残されるかも分からない。それこそ必死であった。
 

★ニューブリテン島に上陸
 
十日間ほど島影をくぐり、ニューブリテン島に上陸した。
この島は3年程前から日本軍が占有している。
近くのガダルカナル島は九州の強豪な軍隊で固めていたが、
既に撤退していた。
すぐ近くのブーゲンビル島も米軍が1ヵ月程前に上陸して
激しい戦闘が行われている。
12月15日にはニューブリテン島へ約4千人の連合軍が
南岸から上陸して攻撃している。
この周辺の島や海域は次第に連合軍の支配が広くなって、
非常に危険な状態になってきていた。
 
ニューブリテン島の中心ラバウルは、原住民が約5万人、
土民の首長が島を支配していて、2カ所に副首長がいて
世襲制であるが、一見不気味であった。
 

★やっと上陸ができ、同郷の戦友に出会う
 
島へ上陸したら早速、お前等は顔色がよい、
元気がよいので応援に出てくれ、と命令された。
20人程の小隊を組んで山中へ入り、負傷兵の収容に当たる。
本隊へ戻ると、また出て行けと繰り出される。
前から島にいた兵隊も疲れ切っていた。
いよいよこの島の西端に近く中隊本部があるタラセヤという所へ
行くことになった。

この島の真ん中に巾8キロメートルにわたり底なしの沼がある。
米軍はかつてこの沼にはまり大勢の兵隊が命を落とした所だ。
海岸を通れば敵軍に狙い撃ちされる。
南岸は4千人の連合軍が攻撃態勢にある。
4千メートルの高い山を越えて、戦闘部隊が先にジャングルを切り開き、
衛生兵が傷病兵を看護しながら徒歩で15日かかって到着した。
 
タラセヤには弾薬倉庫があり、岡山師団の1ケ中隊が駐屯していた。
1ケ中隊に衛生兵20人と2人の軍医がついて、ここへ野戦病院を作った。
ヤシの葉を敷物にヤシの枝を組み合わせて、10人程収容できる屋根を覆い、
これで1棟出来上がり。野戦病院も簡単である。
 

戦死した兵士達は、全身を火葬にすることができないので、
小指を一本切り落として、ヤシの油で焼いて火葬とした。
遺髪と共に小指の骨を故国に帰すのである。
山中に入っては負傷兵を探して、病院へ運び治療する毎日であった。
 
ある日、他の部隊と連絡をしていると、
「岡山県玉島出身の中山さんがいるで。あんたも玉島か……」
「ああ、その人は隣家の亀一さんだ」
ということで連絡がついたので、早速休暇を取って面会に行った。
約50キロメートルの道のりは危険な所であった。
こういう所で近隣の人と出会うとは、もう懐かしく、
うれしさで一杯であった。

3回程お互いに往来して面会したが、中山さんもニューギニア沖で
爆撃を受け大平洋を一晩中泳いで助けられた同じ経験を持ち、
お互い相通じる気持ちで抱き合って互いの無事をよろこんだ。
中山亀一さんは、最後の時は腕を切断する大負傷を負っていた。
お互い別れる時がいつ最後となるかも知れぬ厳しい状況であった。
 

★戦況は厳しい
 
ニューブリテン島も、兵隊は次々に倒れ、食糧は乏しくなり、
援軍はなかなか来ない。激しい戦闘のない時は山へ入って木の実を探す。
ヤシの実が一番食べやすく、木に登って実を落として、
未熟なものは草むらに埋めて、熟した頃を見計らって食べる。
大体年中木の実がある所なので、どうにか命をつないだ。
 
この頃の島の指揮官・今村大将に
「軍司令官同格の待遇をするから、米軍援助の食糧を受けるように」
と米軍側から交渉があったが、大将は心苦しいと拒否した。
こうして日本軍人の誇りを貫いたエピソードが残っている。
 

★最後の決戦に挑む
 
司令部本部より「全員ラバウルに集結せよ。最後の総攻撃を決行する。
団体行動は取らなくてよい。
一人になってもラバウルに集まれ」と命令が出た。
中隊本部も引き揚げた。
野戦病院でも負傷者を同行することはむずかしい。
傷病兵の枕元へ2個の手榴弾と、残った食料を分けて置いた。
自決するか、投降するか、いずれを選んでも再び会うことのできない
最後の別れを交わした。無念の別れであった。
 

★ラバウルへの道は嶮しい
 
生きのびてラバウルをめざすには、4千メートルの山岳地と、
裾の8キロメートルの沼地がある。
大きく横たわる河はワニの棲息地である。
この自然条件の中を敵弾を避けながら脱出するのである。
中隊は5つの小さい集団を作って行動したが、
難関をくぐり抜ける度ごとに戦友が倒れていく。

沼近くの通り易い所には先に通過した部隊の犠牲者が
連なって倒れている所もある。
河も泳いで渡らねば方法がない。
一緒に泳いでいた戦友が仲間から少し遅れた。
それをめがけてワニが飛びついた。
目前でワニの餌食となっても、自分が逃げるのが精一杯で
誠に無惨なことであった。
 
南方特有のはげしい雨期にかかった。
棒を切ってヤシの葉をのせ、一人用の小屋を作り、
その下で雨をしのぐ。夜な夜な潜行すること60日、
やっと日本軍の勢力のある村に着くと、多少気持ちが落ちついた。
 この村にはよい水があり、しばらく心身を癒していると、
「危ないぞ、早く逃げろ……」
と連絡がとび、急にバラバラになって村落を逃げ出した。
 

★終戦の声を聞く

命からがらラバウルの日本軍本部に辿りついた。
本部自体が弱体化して、統一行動も充分ではなかった。
60日間、生と死のはざまを往復して参集した兵隊にとっては
いささか淋しかった。
 終戦の報道があった。
6万人の生命は先ず傷病兵から引き揚げられ、
十九一さんは昭和21年4月24日、故国の土を踏んだ。
十九一さんが一気に語り終えた60年前の鮮明な記憶は、血涙の記録である。
 
木の葉のように大海に吹き飛ばされた小さい命。
痛恨極まる数々の思い出を胸に抱き続けた生涯。
──88歳の翁の証言を、決して風化させてはならないと思った。




ベトナム美女レイプ




管理人

動画の構成は、あまり趣味が良いとはいえませんが、
しかし、全て史実に基づいたものです。
「集団的自衛権行使」によって、
韓国軍のところが、自衛隊に取って変わる日 が、
そう遠くない将来にやって来るでしょう。

あまり危機感を感じていない日本の多くの
親や子供たちは、いずれ、信じられない悪夢を
現実のものとして体験することになるに違いありません。

その時に、後悔しても・・・
時すでに遅し。

もう、あまり時間が残されていません。
今、我々に何が出来るのかを真剣に考える時です。




もみじ

齋藤 拳太郎 @kentaro_s1980 12月19日
https://twitter.com/kentaro_s1980/status/545940514487300098

安倍晋三自民党政権が続けば、

『日本は公共事業として武器輸出をする国』

になるだけでなく、

『公共事業として戦争を仕掛ける国』

になる。

東京新聞:国が企業向け促進策検討 武器輸出に資金援助
http://www.tokyo-np.co.jp/article/economics/news/CK2014121702000121.html




n_n  ‏@henoko_tushin
https://twitter.com/henoko_tushin/status/545356511048769536

集団的自衛権で辞職 元自衛官インタビュー | 沖縄タイムス
http://www.okinawatimes.co.jp/article.php?id=76498
 

安倍政権になってから、訓練内容が大幅に変わりました。

人を標的とする訓練が始まりました。

これまでは、相手を捕獲することが基本でしたが、
もう今までと違います。




「日本と中国をどのようにして戦争に突入させるか」 
    ~2005年10月25日キャピトル東急

http://ameblo.jp/64152966/entry-11432403299.html


2005年10月25日、26日、
ブッシュの支持基盤であるネオコン派の政治家、知識人が集まるワシントン
の政策研究所、AEI・アメリカン・エンタープライズ・インスティテュートが
主催して日本の国会議事堂裏のホテル、キャピトル東急で
「政策研究集会」が開かれた。


テーマは
「日本と中国をどのようにして戦争に突入させるか、そのプラン作り」
である。


参加者は
AEI所長クリストファー・デムス、次期総理・安〇晋〇、鶴〇公〇(外務省総合
外交政策局審議官)、山〇昇(防衛庁防衛研究所副所長 陸将補)、
民主党前党首・前〇誠〇、その他自民、民主の複数の議員。



テーマは「有事、戦争にどう対処するか」では無く、

「中国と日本をどのようにして戦争に持って行くか」

である。

以上は裏付けが取れた正確な情報である。