大河、第14回。 | 小太郎です。

小太郎です。

とりあえず、思ったことを書きます。

大河ドラマ「光る君へ」の第14回を鑑賞。

 

ついに、藤原兼家が死去。

権力が、長男の道隆に移った訳ですが、次男の道兼は、相当に不満のよう。

父、兼家の死後、道兼が、喪に服さなかったのは、史料に残っているそうですね。

当時としては、異例のことだったのでしょう。

それほど、不満が強かったということなのでしょうね。

 

さて、清少納言が、再び、登場。

夫も、子も捨てて、キャリアを目指すキャラクター。

清少納言の父が、赴任先で亡くなったという話が出てきましたので、ネットで調べてみると、何と、父、清原元輔は、79歳で、肥後守に任命され、任地に赴いたそうですね。

現代でも、信じられない年齢。

そして、赴任、5年目で、現地で死去したということなので、亡くなった時には、84歳ということになる。

なぜ、これほど高齢で受領となり、現地に赴いたのか。

それは、清原家が、経済的に苦しかったからではないかということですが、なかなか、貴族も大変です。

今回の清少納言のセリフは、まひろの父、為時が、越前に向かう時の伏線になるのでしょう。

 

個人的に気になったのは、道隆が、娘である定子を一条天皇の「中宮」にすると言う話。

この話に、周囲は「前例がない」と反対するのですが、道隆は「何事も、最初は、例が無かったはずだ」と反論し、強行した。

確かに、それは、その通りで、個人的にも、疑問に思っていたところ。

貴族の日記が、多く残っているのは、この「先例」を重視する政治に、関係があったようですね。

つまり、日々、行われた政治を記録し、「先例」として生かすという目的が、日記を書く理由の一つでもあったのでしょう。

 

ちなみに、鎌倉幕府を倒した後醍醐天皇は、「朕が政治は、後の世の先例とならん」と言ったとか。

つまり「自分の政治が、後の時代の先例になるのだ」という宣言。

いかに、後醍醐天皇が、異例の天皇だったかが、よく分かる。

 

さて、道長の妻の一人、明子が、兼家を呪詛するシーンもありましたね。

ドラマの中では、明子は、父の復讐として、兼家に怨みを募らせていたということになっていますが、どうも、史実としては、これは、無いだろうということのよう。

なぜ、詮子が、道長に明子との結婚を勧めたのか。

ドラマの中では、経緯が曖昧でしたが、実は、明子は、詮子の庇護下にあったようですね。

父、源高明が亡くなった後、詮子が、明子を引き取っていたそうです。

詮子と明子は、従兄弟の関係にあったそう。

道長と明子は、とても近しい関係にあったようです。

明子は、史実としては、藤原家に恨みを持っていた訳ではい。

むしろ、藤原家の庇護下で、生活をしていたようです。

 

ついでに、もう一つ。

 

平安時代の「トイレ事情」についてのネットの記事を見ました

 

平安次代、貴族の屋敷には「厠」があったようですが、この「厠」を使って用を足すのは、男性だけだったそうですね。

女性の貴族は、部屋の中に、いわゆる「おまる」を置いてあり、用を足す時には、それを使用していたということ。

そして、その「おまる」を片付けるための使用人も居たよう。

 

一般庶民は、家の中に「厠」や「おまる」がある訳ではなく、基本的に、外、路上で、用を足していたそうです。

つまり、平安京の道端は、そこに住む一般市民のトイレだったということ。

かなり、汚かったでしょうね。

疫病が、度々、流行ったのも、それが一因になっているのかも。

 

次回は、予告を見ると、道隆の専横が、ますます、進むようですね。

しかし、道隆の専横が、長くは続かないことを、歴史として知っている。

さて、どうなって行くことか。