中島みゆき
「愛していると云ってくれ」(1978)


中島みゆきの天才性を今更語るのは野暮な気がして、二の足を踏んでしまいそうになるが、やっぱり少し語りたい。
この人の残した功績に対して、世間(特に権威あるとされている音楽誌)の評価があまりにも低過ぎると感じるから。

この人の凄いところは、デビューから現在に至るまで、殆ど変わらないテーマを歌い続けていること。
人を愛する美しさや醜さ、人間の業など。
これをマンネリだとかぬかすうつけ者には、そっと背後から忍び寄って、耳の裏側をライターで炙ってあげたい、ってぐらいマンネリ化していない。
よくもまぁ同じようなテーマで、これだけリスナーを飽きさせないシチュエーションを創作出来るものだと、その潤沢な才能に嫉妬する。

中島みゆきはデビューしてから約40年近くもの間、同じテーマで歌い続けている。
ここに何の意志も介在していないとはちょっと考えにくい。
ボクが考えるに、この人は使命感で歌っている気がする。

ボクがよくヤダなぁ~と感じるのは、アーティストがある一定のキャリアを積むと、歌の世界観が広がり過ぎることだ。
翼を広げて大空高くとか、大地の声を聞いてとか、そんなん共感出来るかよ(ちなみに「地上の星」とかは一聴すると、まさにそれっぽいが、詞をキッチリ読むと全然そんなことはない)。
歌ってる本人ですらちゃんと分かってないんちゃうかと思うぐらい、ふわふわした実体の無さ。
アレはだいぶタチ悪いオナニーやな。
もちょっと使命感を持って欲しい。

そういった意味で、中島みゆきは自分が歌うべきテーマから逃げていない。
それでいて、あれだけ高いクオリティーを維持し続けるのは、そらぁもう恐ろしいことですよ。
心から尊敬する。


"ひとの不幸を 祈るようにだけは なりたくないと願ってきたが 今夜 おまえの幸せぶりが 風に追われる 私の胸に痛すぎる" by 怜子

"恋の終わりは いつもいつも 立ち去る者だけが 美しい" by わかれうた

"あたしが出した 手紙の束を返してよ 誰かと 二人で 読むのは やめてよ"
"バカだね バカだね バカだね あたし 愛してほしいと 思ってたなんて" by 化粧

"あたしは とても おつむが軽い あんたは とても 心が軽い" by あほう鳥

"今度 また来るからと おまえの目を見ずに言うと そうか いつでも 来てくれよと そのとき おまえは 昔の顔だった" by おまえの家


女性の詞を読んだ時、大抵はへぇ~こんなことを考えてるのかぁ~と、男性であるボクは思うわけです。
すごく個人的なことかもしれませんが、中島みゆきの詞だけは、そういった感心よりも、共感に近い感情が湧いてくる。
ただ単にボクが女の腐ったような性格をしているだけなのか、それともこの人の詞には性別を超えた人間の本質が描かれているのか、もうなんか冷静に判断出来ない。
そのどちらもって気もするし。


とにもかくにも、ただ聴くだけでこんなにも痛みを伴い、疲弊する曲は世の中探してもそうは見付かりません。
真夜中に発泡酒をちびちび飲みながら、中島みゆき聴いて啜り泣く様は、死んでも誰かに見られたくはないが、意外と自分では気に入っている。
小沢健二
「犬は吠えるがキャラバンは進む」(1993)


数年前に引っ越してから、ボクの家はよく揺れる。
それなりに交通量のある道路に面した場所にある為、大型車が通ったりなんかすると、家自体にその振動が伝わり、カタカタと音を立てて揺れる。
聞いたところによると、耐震構造の一種らしく、敢えて振動に逆らわぬことで、家自体に本来掛かるはずの負荷を軽減するものなんだそうだ。
それにしても、ボクの部屋は3階にあり、以前住んでいた家ではそういったことがなかったから、引っ越してから今に至るまで居心地が悪くてしょうがない。


話は急に本作へ移る。
オザケン本人もライナーにて語っている通り、このアルバムは、13分以上にも及ぶ大作曲「天使たちのシーン」ただ1曲の為に存在すると言っても過言ではない。
ボクはときどき無性に、のんびりとこの曲で浸りたくなる時がある。
一切の喧騒を忘れて、部屋の中で、誰にも邪魔されず、ゆっくりと13分強何も考えず、体をオザケンの柔らかな歌声に委ねる。


"愛すべき生まれて育ってくサークル
気まぐれにその大きな手で触れるよ
長い夜をつらぬき回ってくサークル
君や僕をつないでる緩やかな止まらない法則(ルール)"


すべてを許してくれるような優しい歌声に、幸せやら寂しいやらで、心臓を貫かれるような思いがして堪らなかった。

一人また一人と、大切な人がボクの元を去っていく。
生まれて育ったサークルは、いとも容易く時間が引き千切る。
ボクはもう次のサークルが生まれることを待てないで、余計なものばかり手繰り寄せている。

今日ばかりは、カタカタ揺れる部屋とこの曲が、ボクの心のモヤモヤと妙にシンクロしている気がして、不快ではなかった。
尾崎豊
「回帰線」(1985)


もうキッツイ尾崎信者と思われようが、どうでもいい。
ボクは尾崎のことが好きで好きでしょうがない。
だってこんなに歌から魂が溶け出しているアーティストなんて他にいないもの。

スタジオ録音なのに、ライブ並みのテンションで尾崎は歌う。
聴いてたら、ステレオの溝から臓器とか出てくるんちゃうかと思うよ。

そんな尾崎の本作。
やっぱり語るべきは、ラストを飾る名曲「シェリー」だろう。
曲の終盤、尾崎は畳み掛けるようにこう歌う。


"シェリー 俺はうまく歌えているか
俺はうまく笑えているか
俺の笑顔は卑屈じゃないかい
俺は誤解されてはいないかい
俺はまだ馬鹿と呼ばれているか
俺はまだまだ恨まれているか
俺に愛される資格はあるか
俺は決してまちがっていないか
俺は真実へと歩いてるかい

シェリー いつになれば 俺は這い上がれるだろう
シェリー どこに行けば 俺はたどりつけるだろう
シェリー 俺は歌う 愛すべきものすべてに"


「俺の笑顔は卑屈じゃないかい」、何度聴いてもこのフレーズにやられる。
付け焼き刃の悲観視や屈辱感では、この詞は絶対に書けない。
感受性が強過ぎる、あまりにも繊細な人間の、虐げられ続けた孤独の歴史が、このワンフレーズにすべて集約されている。

しかし、尾崎の曲はただただ絶望的なわけではない。
深い絶望の後に、必ず少しの希望が顔を覗かせる。
少しだが、とんでもなく力強い希望が。

シェリーという愛する人へ、彼は自身の不安を幾つも問い掛け続ける。
そして、最後の最後で彼は問い掛けることをやめ、「俺は歌う 愛すべきものすべてに」と、力強く決意表明を叫ぶ。
この希望こそが、ボクが尾崎に骨抜きにされる一番の理由なのだ。


尾崎はどんな時でも全身全霊で歌ってくれたし、どんな曲でも魂を擦り減らして本気で表現してくれた。
だからもう尾崎を斜めから見て嘲笑したり、冷静に批評するような真似はやめてくれ。

オマエ等がどんな人生を歩んできたのかは知らない。
でもオマエ等は、尾崎ぐらい人を愛したことがあるか?
尾崎ぐらい人を憎んだことがあるか?
尾崎ぐらい己と向き合ったことがあるか?
尾崎ぐらい本気で何かを表現したことがあるか?
尾崎ぐらい命を削って生きたことがあるか?

ないに決まってる。
そんな奴そうそういるもんじゃない。
別に命を削って生きろとは言わない。
でもせめて尾崎の曲をシラケた態度で聴くのだけはやめろ。
尾崎に失礼だ。

これは何も尾崎に限ったことではなく、全ての表現に対して言えることだが、向こうが本気で作ったものは、こちらも本気で受け止めるのが最低限のマナーであり、義務だ。
その上で批評するのは構わない。
そんなことも解らないような輩は、表現に触れる資格などない。
てゆーか、もうええから死ねバカ。


尾崎を聴いていると、ボクみたいなゴキブリでも、少しは希望を持って生きてもいいのかなぁと思った…と書きかけて気付いた。
尾崎の存在こそが、ボクにとって希望そのものだってことに。