アングラロック。
んな乱暴な括りあるかい!って感じだが、便宜上そう呼ばせていただきたい。
ボクの言うアングラロックとは、何もメジャーでない本当のアンダーグラウンドを指しているわけではない。
メジャーからリリースされていようが何だろうが、反体制的であるロックのことを指す。
まぁ古くは頭脳警察やらスターリン、アナーキー、ブルーハーツだってボクにしてみりゃアングラロックだ。
そして今回はこのアングラロックに於ける需要の変遷を自分なりに考えてみたので聞いていただきたい。


アングラロックの最盛期は80年代だったとボクは考える。
先のスターリンやアナーキー、JAGATARAをはじめとして数多くのアーティストが作品を世に残した。
当時のこういった音楽の需要、要するにファン層というのは、ヤンキーや不良などのアウトローな若者が大半を占めていた。

そして時は流れ現在、こういった音楽を嗜好するのは、寧ろヤンキーとは真逆に位置する燻った童貞男子ではないだろうか?
これは実際に女とヤッたことがないという純粋な童貞だけでなく、精神的童貞(まぁ何でしょうか、世の中や周囲の人間に心底愛想が尽きたような燻った奴のことね。ボクも似たようなところあるけども)も含みます。


いつからどのようにして、そして何故こんなに逆転してしまったのか、まぁ一言で"時代"と言ってしまえば簡単ですが、恐らくボクが考えるに趣味が多様化した為ではないでしょうか。
昔は趣味のジャンルが少なかった。
だから何かに傾倒しようとしても選択肢が無かった。
しかし、今はスポーツもアホ程種類あるし、文化系のものだってお笑いやサブカルなど、それはそれは多種多様な趣味で溢れている。
ヤンキーなんかは本来、音楽に傾倒する人間ではないが、当時の趣味のジャンルの少なさ故に、そこに行き着いてしまった(アナーキーなんかは不良性の高いバンドだったからヤンキーらが夢中になることが不自然ではないが)。
だから今のように、文化系童貞男子がこのようなアングラロックに傾倒しているという現象の方がごく自然な、本来在るべき姿のような気がする。

この説が正しいのかは分からないですが、でもまぁ何にせよ事実として逆転現象が起こっているのは確かです。
まぁ個人的に思うのは、昔のヤンキーはセンス良かったんだなぁってことかな。
アンテナの張り巡らし方が今とは違うね。
な~んか今のヤンキーってセコいというか、腹決めてないというか、ね。
まぁそんなことについて語ってもキリがないので、この辺にしときますが。


でね、結局何が言いたいかっつーとね、需要が変わりはしたものの、アングラロックそのものが果たす役割自体は昔と今とで大した違いは無いんだってこと。
アングラロックというものは、昔も今も共通して世の中に馴染めない若者が、救いを求めて縋る宗教のようなものなんです。

ただそこへ行き着くまでのプロセスが昔と今とでは違うんだと思う。
昔は本当にそういうものを心から欲していた人間が多かったのに対して、今はアングラだから好きなんだという人間が多いような気がする。
で、やっぱ今のように形から入るような風潮に苦言を呈する古臭い考え方のオッサンもいるんですが、ボクはそれの何が悪いんだと言いたい。
だって結局は形から入ったとしても、肌に合わなけりゃ必然的に離れていくもんだから。
アングラだから聴く、でもそれがカッチリと心の窪みに填まった時、きっかけはどうあれ人はそこから脱け出すことは出来なくなり、そいつにとって必要不可欠な存在になるのだ。

御多分に洩れずボクもそんな現代の燻った童貞男子と同じようにアングラロックを欲している。
だからその立場から音楽を語りたい。
これを踏まえた上で次の名盤レビュー#6を読んでみて下さい。
エレファントカシマシ
「THE ELEPHANT KASHIMASHI」(1988)


エレカシのデビューアルバム。
ここには現在のエレカシのように優しく包み込むような歌などただの1曲も存在しない。
ここにあるのは、とめどなく溢れ出す怒りと狂気の言霊だけだ。
1曲また1曲と雪崩のように襲い掛かるその怒りと狂気の塊にボクは、ただただ腰を抜かし、そして少し呼応する。

"友達なんかいらないさ 金があればいい"と絶叫なんぞされた日にゃ、燻りまくっていた高校時代のボクにとってそれは天啓だと勘違いしても何らおかしなことではなかった。
しかし、このアルバムに収録された曲、延いては当時の彼等は、そんな妙な親近感や無意味な感傷の一切を許さず、他を寄せ付けない。
ただ自分達が思うことを本能のままに叫んでいるのであって、お前等のようなチンケな人間の薄っぺらな共感など豚も食わんわっ!とでも言わんばかりに他人を拒絶する。
誰も信用などしていない、かと言って自分自身のことだってもう投げ遣りに"みんなと同じ楽しい人生"などと吐き捨ててみせたりもする。


ボクがこのアルバムに共鳴し、擦り寄って行けば行く程、彼等はボクを蹴散らし、どんどん距離は離れていく。
究極のサディズムに満ちたこの作品を前にして、聴く者はただただその凄まじきパワーに圧倒され、頭を垂れて平伏すしかないただの無能なマゾヒストの豚に成り下がる以外に術など無い。
どこまでいっても交わり合うことのない強固な世界を創造したこのアルバムが名盤でないのなら、他にどんなものがあるのか教えて欲しい。
アンジー
「渦」(1992)


アンジーの代表作といえば、バンドブームの象徴的名曲「天井裏から愛をこめて」が収録されているメジャー1stである『溢れる人々』が一般的だが、ボクは事実上の解散前にリリースされたラストアルバム(まぁ後に再結成してアルバムも出したけどね)である本作を一番よく聴いた。


解散や活動休止を目前に控えたバンドというのは独特の空気感を醸し出す。
特に優れたバンドというのは、音楽と真剣に向き合っている分、他のクソバンドよりもそれは表層的に表れやすいし、そこから放たれるエネルギーも尋常ではない。
そしてそのただならぬ空気感は無論、作品には如実に記されることになる。
最後の抵抗や悪あがき、御乱心、放棄、諦め、飽和状態、新たな兆しなど、解散や活動休止前のラストアルバムには正常な精神状態からは産まれ得ない、ある種の狂った記録が刻み込まれることがままある。

ブルーハーツもユニコーンもTheピーズもゆらゆら帝国だってそうだった。
そしてこのアンジーも例外ではない。


このアルバムには全編通して、そこはかとない無常感や哀愁のようなものが漂っている。
アンジーの持ち味である皮肉たっぷりのおちゃらけも健在だが、このアルバムではどこか逼迫したシリアスさが顔を覗かせている。
バンドブームが終息し、バンド自体の過渡期も越えて、それでもなおおちゃらけることを選択した彼等の姿勢は、当人達の思惑とは裏腹に(勝手な解釈だが)聴き手側には物悲しく響いた。
しかし、その物悲しさ、空回りする感じこそが、本作の魅力となっているのだ。


文学的と評されることも多かったボーカルの三戸華之介の歌詞だが、本作では割りとストレートな表現も多く用いられている。
そしてその言葉は、人を皮肉で嘲り、おちゃらけによって煙に巻いた彼等だからこそ、聴く者の胸を打つのだ。

巷ではここ数年、背中を押してくれるような安っすい応援歌みたいなもんが持て囃される傾向にあるが、あんなもん…ケッ!って感じだ。
笑いでも歌でも要はフリオチなんです。
フリがデカけりゃオチが際立つ。
真の応援歌とは本作収録の「猛き風にのせて」のような曲のことを言うのだ。

メタファーに塗れた皮肉とおちゃらけで他人を欺き続けた彼等が、恥も外聞も捨てて、聴く者の心に届けようと一生懸命に吐き出す"闇の夜こそ光となれ"という言葉は、ボクがこのバンドの虜になる為にはあまりにも充分過ぎる理由だった。