2020.11臨時号 NO.142 い VS まい(2)  
 平成4年秋に副鼻腔の手術をしてから10年後平成14年(2002年)の年末に今度は胆のう摘出手術を受けた。胆のう内の胆石が胆管に蓋をしかけており黄疸になり命の危険があった。
 たまたまランチに牡蠣フライを食べた夜に発熱し翌日血尿(原因は不明)が出た。街の内科でエコーで診てもらったところ直に紹介先の病院に行けと言われた。ノロウイルスによる食中毒と同じで牡蠣に罪はないが、それ以来好物だった牡蠣フライを余り食べなくなった。
  緊急入院して、6人部屋の患者に挨拶したら、何の癌かと聞かれた。私以外皆癌患者だった。ある人は再手術を希望していたが、医師が反対していた。癌が全身に回っておれば、手術しても免疫力が下がり土竜叩きゲームのようになるだけらしい。部屋は沈鬱だった。
  3週間?か絶食し点滴で栄養補給した。脂質が食道を通れば胆のうが収縮して胆汁を出そうとする。胆のう炎がより悪化する。胆のうの炎症を抑えて肝臓との癒着を改善させてからでないと手術ができなかった。一旦退院した後、再入院し、ようやく手術となる。
  手術前日に担当医から唐突に「医師と看護師の安全確保の為エイズ検査をさせて」と言われた。その頃数年に亘る体の不調が何故かと訝しく思っていたので、一瞬ぎくりとなった。
  といっても、拒否もし辛く同意した。それにより図らずもエイズでないことが立証されることになった。胆のうを摘出したら頗る元気になる。胆のうが体不調の犯人であった。
 全身麻酔での腹腔鏡下胆嚢手術による胆のうの摘出は、皮下脂肪が予想外に多く時間がかかった。手術を終え集中治療室に運ばれる際、麻酔が切れかっており、「お父さん!? お父さん!?」と何とも愛し気な妻の声が聞こえてきた。後日妻にそれを言うと、妻は医師から呼びかけてと指図されただけとつれない返事。妻は「エ~ッ!?と思ったが、仕方がないので」と情愛溢れた呼びかけではないと断固否定し続けている。
 開腹手術より回復が早い。翌日(だったと思うが)には食事もできた。ただ、注意を受けていたのだが、まだ腸が、麻酔が完全に抜け切れず、動いていない。それでは胃の幽門が開かないので、胃が張ってしまい悶絶した。病院の廊下をそこら中歩き回り腸の回復を促したのを覚えている。
 胆のうは、肝臓からの胆汁を一旦貯蔵して濃縮する。貯蔵庫がなければ胆管を通して濃縮されていない胆汁が十二指腸に垂れ流しになる。脂質の多い食べ物の消化力が弱くなる。退院して10日後に天ぷらを食べたら一ぺんにお腹がピーピーになってしまった。18年経った今は、お腹も壊さないし、3箇所に穴あけた傷もどこにあったかまったく分からない。

  平成4年、平成14年と全身麻酔による手術を受けた。次の10年後平成24年(2012年)はまた手術することにならなければよいがと思っていたら、前立腺がんの疑いが判明した。

 そのあたりの経緯は2019年7月 臨時号NO.117(「 TOHO VS TOMO (1)(2)」)に書いたが、生検で癌が見つかった時は、もう手術はこりごり(幾度もの全身麻酔及び手術は体によいハズもない)で前立腺がん治療に適する放射線治療を選択することを心に決めていた。
  その生検自体は脊椎麻酔(下半身麻酔)で行われる。ネット上では脊椎麻酔は凄く痛いとの書き込みが多数載っていた。覚悟して臨んだが、腰を丸めてと言われた後少しチクりとするだけなので、看護婦さんに「麻酔はこれからですか?」と聞いた。すると、もう終わったと言う。昔と違って針が細く大きく改善されているとのことだった。
 そして、2012年2月の長男の結婚式の翌日から前立腺がんとの闘いを開始し、同9月から38回の放射線治療に入った。それから8年経ち、次の10年(2022年)にあと2年と迫ってきた。またぞろ全身麻酔のお世話になるような大病が判明しないことを祈るばかりだ。
 2020年の今年は、まだ麻酔のお世話になっていないが、来月点眼麻酔で白内障の手術を受ける。目はもともとよかったのだが、頭の悪い私は他人より勉強時間が長くド近眼になった。それもあり緑内障の目薬を毎日朝夕(面倒だが)点眼している。加齢による白内障の手術は簡単な手術とはいえ、麻酔なしでは目の手術などできたものではない。
 
  織田信長は「人間五十年下天のうちをくらべば・・・」と詠んだが、私は麻酔(及び手術)がなければ、50年も生きられなかったと思う。まさに麻酔様様だ。
 今のように麻酔が確立されていない18世紀末頃は、外科手術は最後の手段だった。手術を受けるぐらいなら死んだ方がましと思った人もいたのでは。
『世にも奇妙な人体実験の歴史』(文春文庫)によれば、その当時、外科手術医には次のルールがあったとする。
(1)悲鳴が他の患者の耳まで届かないような場所に手術室を設ける。
(2)外科医の疲労に最大限の配慮を払う。
(3)患者をしっかり縛りつける。
(4)患者に外科医のステッキを噛ませる。
(5)急いで仕事を済ませる。
 我々は麻酔の恩恵に浴している蔭には、危険を顧みず使命感に燃えた医師・科学者、華岡青洲の妻のような協力者、エーテル、クロロホルム等の実験で亡くなった患者たち、その者達の貴い犠牲があることに想いを馳せる必要がある。

 ただ、前述のように、麻酔はまだよく分かっておらず、上記の書によると、米国では、手術中に意識が戻ってしまう例が一日に少なくとも100例あると言われているらしい。
 私の体験でも全身麻酔は体に良いとは思わない。放射線治療等医療技術が発達した現在ではひと昔のように(全身麻酔の)外科手術は最後の手段とすべきではないかと思っている(比較的手術が簡単で、臓器が動く胃がんなどは今のまま外科手術でよいと思うが)。
  その流れを作るのは、日本の最高権威である東大医学部だと思うのだが、上皇(天皇時の前立腺がん)、上皇后(乳がん)両陛下に全身麻酔による外科手術を施している。
  東大医学部の外科が最大の抵抗勢力と見えるのは、私の頭が悪いだけなのであろうか。



 

2020.11 臨時号NO.142 い VS まい(1)
 10/4競馬の祭典仏凱旋門賞が行われた。本題に入る前に少し触れたい。
  新型コロナの影響で日本からは欧州に滞在のディアドラだけが出走した。注目の女王エネイブルは、昨年同様不良馬場に泣かされ、“前馬未到”の3勝目を挙げることはできなかった。
  昨年本ブログ2019年11月号NO.122(「ハリウッド VS ポリウッド(1)」)で凱旋門賞への日本馬の挑戦について当日より前に述べた。その時はファンの期待に水を差してはと遠慮がちに書いたが、今回は本音で少し毒を吐く。
  昨年凱旋門賞発走後フィエールマンの調教師は「打ちのめされた」と言っていた。キセキの調教師は「馬場が合わなかった」と。ロンシャンは特殊な馬場と言っても条件は皆同じ。7着だったキセキは武豊騎手が跨った、仏で7戦して未勝利戦しか勝ったことのない3歳牡馬ソフトライトの後塵を拝した。馬場以前の問題では。馬場が敗因と言って許されるのは史上初の3連覇を逃したエネイブルの調教師と騎手だけ。雨でよりタフになった重馬場でややハイぺースで流れエネイブルと同じ前目にいたフィエールマンは4コーナーでずるずると後退し最下位に沈んだ。エネイブルはゴール前50メートルまで先頭に立っていた。
 日本と欧州の競馬は別物。欧州の凱旋門賞馬級の一流馬が日本の高額国際レースJCに来なくなった(今年は薬物検査等で凱旋門賞の出走が叶わなかった馬たちが11/29のJCに向け予備登録してきたが)のは、一流のメジャーリーガーが日本野球を格下と思っているのとは訳が違う。勝てないと分かっていることが大きい。
 日本人はノーベル賞と凱旋門賞への思い入れが強すぎるのでは。ノーベル賞はともかく、馬主、調教師、騎手が凱旋門賞の勝利が日本競馬界の悲願と言うが、文系の高校生が東大医学部に入って天才と呼ばれたいと思うのと同じではないか。馬自身そんなこと考えないなら、親(馬主等)が東大病に罹り、子息(競走馬)が辛い思いをさせられていると言えば言い過ぎか。
 凱旋門賞で日本馬が勝つ条件は、①出走馬がディープインパクト、オルフェーヴル等三冠馬クラスで重馬場を苦にしない。②地元欧州に抜けた有力馬がいない。③エネイブルが負けたように地元馬の優位性が発揮できない重馬場・不良馬場(過去日本馬最高位2着の時はいずれも重か、不良)、と思う。なお、10/25にコントレイルが菊花賞に勝ち無敗の三冠馬になれば来年凱旋門賞へとの声が一層高まるが、前目につける脚質は適するが馬場適性があるとは思わない。
  ディープインパクトの馬主としてまた並外れた相馬眼を持つ伯楽として著名な金子真人氏は、2016年所有馬のダービー馬マカヒキが凱旋門賞にチャレンジし惨敗した時、当初金子氏は凱旋門賞挑戦に前向きではなかった。調教師等周りが強く推したのではないかと私は見ている。今後日本ダービーを勝つぐらいでは凱旋門賞に金子氏は挑戦させないと思う。
 馬場だけではなく血統、育成・調教等欧州スタイルに全面的改変する。そうするつもりがないのなら、悲願とする目標を替えるべき時が来ているのではと私は思っている。

  さて、人は生まれながらにして不公平である。頭といい、顔といい。せめて体・健康くらいは人並みにと思うが、残念にもこれも私の場合「出来損ない」ときている。それで何かと不都合が生じ、その都度麻酔のお世話になる。
 作家林芙美子は「花の命は短くて苦しきことのみ多かりき」と詠った。花の咲かない草が70歳まで生きれば短いとは言えないが、私も、苦しきことのみ多かりきと言いたい。
 生まれて間もない頃は、麻酔のお世話にならなかったが、危ない目には遭った。4つ上の兄に二度殺されかけた(ちょっとオーバーだが)。0歳の時兄と一緒に寝ていたが、兄が起きた時布団が私の顔を覆い、呼吸困難に陥った。
 2歳か3歳の頃、兄と駄菓子屋に行った時、店主が花火に火をつけてくれたのだが、吃驚した兄が花火を陳列しているところに投げ入れてしまった。花火が爆発して私は顔に大やけどを負った。家に戻り豆腐で顔を冷やし、応急措置の後病院に行き透明人間のごとく包帯で顔をぐるぐる巻きされたらしい。その事を私は覚えていないが、小学生の頃まで炎がゆらゆら燃えるフラッシュ・バックは何度か見ていた。表面が焦げただけでケロイドにはならなかった。それでも歳を重ねた時皮膚がんになってはと、学生時代は、元々青白く真っ黒に日焼けした方がカッコイイのだが、夏に顔を焼くのを避けていた。今となっては、顔立ちはともかく、しわもシミも少なく肌もきれいな方なので、却ってよかったのかもしれない。
 
 小学校に上がる前あたりから麻酔のお世話になっていく。まず局所麻酔だ。小学校に入学する前に、口蓋垂(のどちんこ)の近くにできるアデノイド(咽頭扁桃の肥大症)をのどに麻酔をかけ切除してもらった。切除しないと知能の発達が阻害されると当時言われていた(少し手遅れだったか)。
 出来損ないの私は、歯並びも悪く、歯質もよくない。虫歯に悩まされた。日に一度は歯磨きしていたと思うが、歯ブラシが当たらない所があり、虫歯になりやすい。直に歯医者に行けばよいのだが、痛くなるまで行かない。虫歯はほっとけば悪くなる一方なのだが。
  30歳の時の晴れ舞台結婚式当日も虫歯で上の前歯が欠けており、披露宴での写真で口を開けている写真がない。今や下の前歯数本を除いてすべて差し歯になった。差し歯になる都度麻酔のお世話になったことになる。今は虫喰う歯が少なく歯周病を心配している。
 歯はよくないが鼻はもっと悪い。慢性副鼻腔炎(蓄膿症)で、大学生になっても鼻水垂らしてはと、昭和44年大学受験に合格するも大学紛争で6か月ほど閉鎖されたその間に地元神戸で評判の開業医の所で手術をした。今のように鼻の穴から内視鏡で手術する方法はなく当時口の中を切り上唇をめくりあげて手術していた。局部麻酔なのでノミを局部に当てている医師が看護婦に木槌でたたくよう指示(ええんかいな!?)していたのが聞こえていた。
 手術の翌日お岩さんのように顔が腫れあがり、外来の幼児が私の顔を見て泣いてしまった。1週毎に左右の副鼻腔を削り、3週間目に鼻の中の軸を矯正すへく削りその後血止めのガーゼを詰める。そのガーゼを入れ替える時麻酔はかけないので、手術より痛く嫌だった。
  体の他の所はどこも悪くない元気な若者が3週間も病室に籠ると気も変になる。若い看護婦さん達に口でちょっかい出したが、男として見なされもせず逆におちょくられていた(もう70歳台になっているハズだが皆さんお達者であろうか?)。
 相部屋の病室では妻の操縦法(下ネタ)を得意気に話すおっさんやイケメンのお兄さん達に色々大人の話を教えてもらった。命に関わる病気でないので病室は和気藹藹であった。
 それから20年以上歯医者以外麻酔のお世話にならなかったが、平成4年(1992年)の秋手術を受けることになった。その経緯は本号2012年9月NO.15(「ハブ と カブ」)で触れたが、バブル崩壊後の平成4年の秋株価長期低迷による仕事上のストレスから上述の副鼻腔手術にも拘わらず右側の副鼻腔炎が再度悪化し右頬が鼻の高さまで膨らんでしまった。
 今回は全身麻酔(局部麻酔で十分だと私自身は思っていたが)なのだが、同意を求められた。麻酔にも同意書がいるのかと思ったが、医学界において未だなぜ麻酔が効くのかよく分かっていないらしい。死亡事故のような極めてまずいケースは少ないとはいえ、我々が思っている以上に難しい作業とのことだ。
  手術は母校の、山中伸弥ノーベル賞医学者も卒業した神戸大学付属病院で若い先生が担当になった。学部は違うが私は先輩でもあるので、喜んでとは言わないが、若手医師の練習台となった。

 手術が終わり全身麻酔が切れかけたとき、指導の先生が「麻酔がどんなものか。患者がどういう状態にあるのか、全身麻酔を経験しておくべき・・・」と言っているのが聞こえてきた。そして担当医師から「聞こえたら返事してください。手を上げてください」と声をかけられた。
 医師の声はすごく鮮明に聞こえているのだが、どうしても声を発することができない。手を動かすこともできず身もだえていた。医師達にはそう見えなかっただろうが。
  それで私は悟った。「たとえ植物人間の状態にあると見えても、患者の前でめったなことを言うものではない。逆に励まし続ければ奇跡が起こっても不思議ではない」と。

2020.11 NO.141  いけん VS いけん(2)

 注目の河野太郎大臣は、下馬評で官房長官の呼び声が高かったが、(総理になることしか頭にない為か)不用意な衆院解散発言にて自ら鎮静化させてしまったか。
  共同通信、産経新聞が総務相に内定かと報じ、TV画面のテロップにも流れたが、不自然に変更になった。それに対してメディアはダンマリを決め込んでいたが、9/16 J-castニュースがネット上に『河野太郎「行革相」人事のウラ側 「総務相」には党内反発?菅首相の思惑は...』を載せた。「行革相は、受け持ち省庁のない無任所大臣であることから、「役不足だろう」「実質左遷みたいな形かこれ?」「総理大臣レースから外す思惑があるのではないか」などと推測する声も相次いだ。河野氏は、イージス・アショアの配備断念で十分な根回しを行わずに反発を受けたなどとも報じられていることから、党執行部からクレームがついたのではとの憶測も出た」と報じている。
 新首相に組閣でクレームをつけられる者がいるとしたら、二階幹事長しか考えられない(菅氏擁立の主流派における二階氏と麻生氏の確執と見る向きもある)。「誰のお蔭で・・・」と言わなくても、二階派武田良太行革相を格上の総務相に入れ替えることなど容易なことだろう。
 構想が狂った?菅首相は「俺はつくるほう。壊すのは河野」と河野氏を必要以上に持ち上げる。新型コロナ禍で失業者、それに伴う自殺者が急増し経済の再建が焦眉の急である時に行政改革をぶち上げる。それを国民は歓迎するのか。米国で山火事の類焼が止まらない時に消防局のトップが「組織改革に傾注します」と宣言すれば非難囂々だろうが。
  縦割り行政の問題も平時、経済が安定しているとき着手すべきもの。過去から成し得なかった問題を田中角栄首相のように官僚を心腹させるならまだしも恫喝による官僚を押さえるなら上手くはいくまい。ただ旧民主党「事業仕分け」のごとく「一生懸命やっている感」は演出できるから、国民を煙に巻いて解散総選挙に打って出る魂胆なのか。
 河野大臣に対しては、9/10のBSフジにて防衛大臣経験者3名が集まった中で、中谷元防衛相が河野大臣のイージス・アショア配備停止を英断と発言したことに対して、森本敏元防衛相(現拓殖大学総長)が珍しく反論した。代替案も出さずに無責任と言わんばかりに河野大臣を批判し気色ばんでいた。
 さらに河野前防衛大臣は引継ぎをドタキャンした。独断専行で配備停止をしたのであれば、菅首相に引き続き防衛大臣を担わせてほしいと言ってもおかしくないところだ。そう言えるほどの親しい関係でないのなら、難題を引き継ぐ新大臣に一刻も早く会い、思いの丈を打ち明け、後事を託すところだろうに。朝日も問題官僚として河野氏を注視しているのか。防衛大臣の交代式の模様をwithnewsで報じている。午前中河野前大臣の挨拶、午後新大臣の訓示の後引継ぎをすべきところまたキャンセルとなり翌日ようやく引継ぎとなったが、形だけとなったらしい。後は分厚い資料を読んでということか。その報道が本当なら、安倍前首相の弟君の岸信夫新大臣は人格者なのだろう。私なら「ふざけるな!」とどやしつけるのだが。
 政治家にとって国防より大事なこととは何なのだ。河野大臣にとって国防も総理なるためのパフォーマンスでしかないということか。
 そんな行革相を菅首相は衆参両院本会議場の閣僚席の席次において、NO.2とされる演壇右側に座らせることにした。本当の序列は官邸応接室の席次(NO.2席は麻生副総理、NO.3席は外交、経済の要・新“影の総理”?茂木大臣)であるが、直近の安倍内閣では、国会の閣僚席の席次のNO.2は野田聖子総務相→高市早苗総務相であった。その流れでいけば武田総務相がNO.2の席となるが、意趣返しで河野行革相になったと見るのは穿ち過ぎか。ともあれ、スキージャンプではないが、下げて持ち上げてのバウンドは河野行革相暴走の助走となることはないのか。メディアも突破力があると囃し油を注ぐ中でそうなれば、菅首相と二階幹事長は「私たちはどうかしている」と言うのであろうか。
 
  時事ドットコムは、総裁選前の9/13のフジテレビ番組で、菅官房長官が「私ども(政治家は)選挙で選ばれている。何をやるという方向を決定したのに、反対するのであれば異動してもらう」と述べたとし、政府が政策を決めた後も反対する官僚は異動させる方針を示したと報じた。菅氏は語彙が乏しいというか言葉足らずなので、「何をやるという方向」が「方針」を意味するのか、「政策」をも含むことなのかよく分からない。時事ドットコムを初め他のメディアも政策も含むと解釈したようだ。
  たしかに、総務省自治税務局長の要職にあった平嶋彰英氏は菅氏肝いりであるが問題のある「ふるさと納税」の拡充に反対して菅官房長官に省外の自治大学校に飛ばされた。
  平嶋氏は週刊文春や週刊朝日を通じて「菅氏は役人を押さえつけることがリーダーシップと思っている」と実名告発している(戦前大蔵省を凌ぐ巨大官庁でGHQにより解体された内務省の本流を引き継ぐ自治省出身の元官僚であり、その自負心と信念から時の総理といえども、今のヒラメ官僚と違い、臆することはない)。菅首相は「政策」においても反対する官僚を異動させるとメディアに思われても仕方があるまい。
 官邸主導に問題がある訳ではない。その場合の「官邸」は、民間企業で言えば、企画部あるいは総合企画部にあたる。企業の方針を示し現業各部に施策を求めて長・短の経営計画を策定する。首相は、「政策」ではなく、「方針」、日本丸が進むべき方向や目標を示し、官僚がそのための「政策」を立案する。国家試験にて各年でいわば一番頭の良い者を集めキャリア官僚として処遇する。官僚は「国民の公僕」(国家公務員法第96条に「国民全体の奉仕者」と明記)であり、「官邸の下僕」ではないのだ。
 官僚は、省益により政策を歪めてはならない。それと同時に、たとえ首相からの指示された政策であっても、国益に照らし、国民全体の利益にならない、公共の利益に反すると判断すれば、首相に忠言しなければならない。それを俺の言うことが聞けないのかと内閣人事局を使って潰すようなことは主権者たる国民への背信行為と言っても過言ではない。
 「官僚の忖度」の元凶と見られている内閣人事局は、イエスマンを登用し、上が嫌がることでもきちっと進言できる有能な者を排除するためにあるのではない。
  大企業で人事部のないところはないだろう。それは、「適材適所」「人材育成」それ以上に「人事の公正・公平」を図るため。そのためには、例えば、東大卒や京大卒が多い企業なら、大きい学閥による依怙贔屓や恣意的人事を排すべく、人を異動させる人事課長ポストは人数の少ない小学閥の中から人選し公平さを確保しようとするものだ。人事部は上から嫌われているが有能な人材をいかに守り活かしていくかも大事な仕事なのだ。
 仕える官僚の目には、官邸の主・菅首相は、「政府」という日本一の大企業のトップではなく、出来の悪い息子を溺愛する零細中小企業のワンマンオーナーとして映っていることだろう。
 
  菅政権がショートリリーフならまだしも、ようやく森元首相から続いた清和会の政権支配が終焉したのに、河野行革相→小泉環境相へと経済に弱く「中身のない」政権が続くなら悪夢でしかない。現内閣を「安倍政権残務整理内閣」として1年で終わらせるべきだ(1年でも首相として名を歴史に刻める)。自民党の岸田派や竹下派等は結束すべきであろう。
  安倍前首相、麻生副総理は親菅首相というわけではない。強烈な反石破元幹事長だけなのだ。菅首相陣営にとって1年後の総裁選に先般の総裁選3位で後がない石破氏ではあるが立候補してくれる方が都合がよい。二階幹事長は、1年後も菅首相を担ぐのであれば、「首相になるのを諦める必要はない。1年後に立候補できるよう頑張れ!」と石破氏を励ますこともなしとしないか。それでも、石破氏は、1年後総裁選の壇上に立つのであろうか。

2020.11 NO.141  いけん VS いけん(1)

 菅政権が船出した。世はお祭り騒ぎ。70歳爺の引かれ者の小唄ではないが、昔は「泣く子と地頭には勝てない」と言ったが、今は「大衆とメディアは度し難い」と嘆息する。安倍前首相も8年の苦労は何だったのかとの思いだろう。直近あれほど批判された前政権を引き継ぎ、影の総理が表の総理になっただけなのに。それが大衆の本質と言えばそれまでだが。

 反ABEの視点から菅氏についてもこれまで注視してきた。それをふり返ってみる。

2017年9月号NO.75(「スガVSスカ」)では、モリ・カケ問題での最中「李下に冠を正すおしどり夫妻の尻ぬぐいに、弁慶の仁王立ちさながら全身で野党、メディアからの質問の矢を受け続けた。その忠誠心の強さは敬服に値するが、その対応が悪いと党内で非難を浴びた。私なら、やってられるか!と辞表をたたきつけるところだが、さすが苦労人である菅氏は辛抱した。ただ、報われるとは思えない。国民は「菅官房長官は気の毒だ、被害者だ」とは見ていない。安倍首相が(ヒトラーに擬え)アベラ―なら菅官房長官はアムラー(ヒトラーに仕えた親衛隊全国指導者・全ドイツ警察長官のヒムラー)との印象を受けただろう。首相への道は遠くなってしまったと言えるだろう。」と書いた。

 その時は、スキャンダルをもみ消し、批判分子を排除する、言わば汚れ役の総務部長がトップになることはないとやや同情的に見ていた。

 2年後の2019年7月号NO.116(「おもろいVSおもろな」)では、「いかんせん石破氏、岸田氏への待望論も湧いてこない。新元号発表時に注目を浴び、「令和おじさん」と人気が上がった、無派閥の菅官房長官にショートリリーフならと思うのかもしれない。森友学園問題が燻り続けている安倍首相も、官僚の手のひら返しも菅氏が首相になるなら安心だろう。しかし、菅氏が首相ならABE政治の継続を意味し、より独裁的になるかも。それならSHINZO病が治っても、新・SHINZO病に罹るだけ。おもろないと思うより、憂鬱だ。」と述べた。

 ほんとうに新・SHINZO病に罹る日が来るとは想像していなかった。今思うに、米ペンス副大統領に会いに女房役の官房長官が単独で訪米したときに、岸田議員と石破議員はもっと危機感を持つべきであった。国民の目には、「二人とも何もしていない。首相になる気が本当にあるのか」と映っていたことだろう(領袖本人の責任だけではなく、所属議員も同罪だろう)。私は新元号「令和」を発表したときの菅氏の上気した顔を見て首相になる気だなと思った。

 なお、新元号「平成」の発表の時には、小渕恵三官房長官が厳粛に発表し、竹下登首相は天皇に関する事柄として談話を遠慮した。政治利用しなかった。この経世会コンビの方が政治家としての見識が上だと思う。

 この116号を掲載した3か月後の10月、戸坂弘毅(ペンネーム? 大手メディア関係者とも)氏はもっと踏み込み、『次期首相に最も近い男・菅官房長官、哀しいまでの「中身」のなさ』と題して、「自らを『国家観がない』と評して恥じない男に、わが国は命運を託すことになるのだろうか。政策や志ではなく、権謀術数と情報操作で霞が関や永田町を操る──その集大成として、首相の座に手をかけようとしている『安倍政権のゲッベルス』の本質を、われわれ国民は改めてじっくりと見極める必要があるだろう。」と文を締めている。

 戸坂氏はなぜ菅氏をナチスの宣伝相であった雄弁家ゲッベルスに擬えたのか。権謀術数と情報操作並びに言論弾圧か。ゲッベルス自身は、自裁したヒトラーの遺言で首相になったが、終生ヒトラーを裏切らなかった。唯一背いたのは遺言で落ち延びろと指示されていたのに家族諸共ヒトラーの後を追ったことだ。

 2020年4月臨時号NO,131(「へんせんVSしんせん(2)」)では、新型コロナが蔓延する中菅官房長官と彼の野心を警戒する安倍首相との関係について、「命運尽きかけたと言える安倍政権における安倍首相と菅官房長官の関係はファンタジー小説『十二国記』シリーズ(累計1,200万部を誇る国民的人気小説)での王と麒麟の関係に似ていると思えてきた。麒麟が王を選ぶ。麒麟は天命に反しない限り王に服従する。麒麟は王になれない。王は不死となるが、王の政治が乱れると麒麟が病の床につく。麒麟が逝くと王も終わる。」と綴った。

 王が倒れれば麒麟は新しい王を探す。宏池会OB古賀誠氏が望んだように「岸田首相、菅官房長官」であれば、キングメーカーとして安倍前首相も異存はなかっただろう。

 

 あろうことか、麒麟が、新王候補を潰し、王になった。麒麟はまず自民党新総裁になったとき、「国民のために働く内閣」と謳った。私は50年ほど前のある就活の面接で君の売りは何かと聞かれ「一生懸命働くことです」とアホな答えをしたことを思い出した。面接官に「それは当たり前だろう!」と一蹴された。菅首相自身も当事者の一人であった前政権の「友達の為に働く内閣」からチェンジするということなら意味をなすが。

 そして首相になり、組閣がなされた。さすがにリスクを取れないのか噂に上がっていた三原じゅん子議員の大臣就任(厚労副大臣に)はなかった。代わりに私が女性首相候補一番手と評する上川陽子議員が入閣すると喜んだのはつかの間、法務大臣と分かり顔を曇らせた。

 安倍政権(菅官房長官)の守護神黒川弘務元検事のライバル・現検事総長の林眞琴刑事局長(2018年当時)との意見対立により上川大臣は林氏の事務次官昇格を拒み名古屋高検に左遷させたと見られている。その因縁の対立が再燃することになるのか。

 「桜を見る会」疑惑再燃に繋がるジャパンライフの警視庁による摘発は、菅首相の門出にぶつけたのか。疑惑には安倍前首相だけでなく菅首相も無関係とは言えないハズだ。

 韓国文在寅政権と鋭く対立する尹錫悦検察総長の手足をもぎ取った法務部秋美愛長官(前任者と同様疑惑浮上で“タマネギ女”と揶揄される)の役割を担うことにならなければ、よいのだが。

2020.10 NO.140  んき VS んき

 安倍首相が病気を理由に辞任した。同じ健康上の理由で2度退陣することは避けたかったろうが、佐藤栄作元首相の連続在職日数を超えるのが精一杯というほど体調は良くなかったのだろう。散々批判してきた私だが、「長い間お疲れさまでした」と申し上げたい。
 大叔父にあたる佐藤元首相と安倍首相は、よく似ている。強力なライバルがいなく長期政権になったこと、朝日嫌いであることに加え、「総裁もう一期」が余計であったことが挙げられる。
 佐藤元首相は、3選で終わっていれば、キングメーカーとして君臨することができた。しかし、周りからの要請もあり批判を受けながら4選(任期2年)したが、意中の福田赳夫の宿敵田中角栄の力を蓄えるのを許しただけだった。安倍首相もなり損ねたと言える。これから述べることは、安倍首相への批判ではなく、将棋で言う勝負がついた対局後の感想戦と同じだと思ってもらいたい。
 安倍首相は何としてもレガシーを残したい。2019年11月には桂太郎首相の在任記録を抜く。東京五輪も2020年にある。それを花道にと思って3選に前向きになっても不思議ではない。それ以上に、側近議員や官邸官僚が権力を持ち続けたいとの野心が総裁任期規定を変えてでも総裁3選を実現させたのかもしれない。
  だが、首相在任記録の更新だけで、他には何も首相にとって良いことはなく、ストレスを溜める一方だった。2018年9月からの3期目のスタート直後、北方領土問題が大きく進展するかと思われたが、首相の前のめり発言に対してロシア国民が反発し交渉がとん挫した。2019年5月には「桜を見る会」疑惑が浮上。3選していなければ表面化しなかったかもしれない。同年10月には河井案里議員の公選法違反が問題となり翌年河井議員夫妻が逮捕された。首相も交付罪に問われるかとの憶測が飛んだ。
 2020年は新型コロナが大流行しトドメを刺された。東京五輪も延期となった。その中での検察庁法改正提議も批判を浴びた。
  易姓革命の観点から見れば、徳を失った共産党一党独裁王朝を倒すため天が新型コロナを中国に授けたハズなのだが、当の習近平国家主席は健在で、自由主義陣営の安倍首相が倒れ、トランプ大統領も窮地に立たされている。皮肉なものだ。

 新しい権力者・次の首相に対しては、誰であれ当然問題があれば批判する。が、それ以外にも、防衛大臣の河野太郎氏を批判のターゲットとして私は注視していくことにした。
 政界に詳しいが評判が?の田崎史郎氏は、かなり年上の古老政治評論家と思っていた。実際は私と誕生日が2か月しか違わない。我ら故志村けんと同じ1950年生まれ。その彼に対して安倍首相に関すること以外は私は彼の意見に耳を傾けている。
 彼はTVで河野大臣のことを「首相の前では直立不動だが、私が会いに行った時目も合わそうとしなかった」と言って、その人間性に疑問を呈していた。下への優しい眼差しは政治家の原点。だが、河野大臣は、外相時韓国の大使を呼びつけて高圧的な言動をとった。この前の記者会見でも、東京新聞?の記者が「敵基地攻撃について隣国の了解が必要では」との問いに「自国を守ることに中国や韓国の了解を取り付ける必要があるのか」と切れ気味に記者に言い捨てていた。
 河野大臣が、昭和天皇の前では直立不動になり、下には精神論で罵倒し、独断専行した東條英機首相とダブって見えるのは、短絡的な私だけであろうか。成果ではなく隣国に対する威圧的な言動等でネトウヨらが河野大臣を持ち上げ、それに大衆が迎合するのを懸念する。
 河野大臣は、安倍首相にだけ報告し、自民党に事前相談もせず、陸上イージス・アショア配備を停止すると発表した。そしてその代わりに敵基地攻撃を検討すると(こんな重大なことを厳重注意で済ませる自民党もすこし妙ではあるが)。
 なぜ今敵基地攻撃なのか。その答えが載っているかと、月刊『文藝春秋』9月号の『陸上イージス配備停止で「ポスト安倍」3位に急浮上 河野太郎防衛大臣「中国の暴挙を放置するな」を読んだ。冒頭配備停止を独断専行するに至った経緯、言い訳が書かれていた。次に敵基地攻撃に関することが書かれているかと期待したが、一切触れられていない。がっかりした。そして呆れた。後半では「早く総理を追い抜きたい」と、ツィッターの安倍首相のフォロアー数が約210万で、河野大臣が約165万と書く。発想が芸能人並みか。最後には「先ほど申し上げたように、私は初当選の頃から総理を目指してきました。この国はどうあるべきか。どのような立場でも常々考えてきたつもりです。そしてこれからも国民のために考えていきたいと思います。」と文を締めくくっている。
 目的が「総理になること」、手段が「国、国民のために・・・」と言っているようなものだ。目的と手段が、アベコウノではなく、アベコベではないか。
 上述の「中国や韓国の了解を取り付ける必要があるのか」との発言で「よくぞ中国、韓国にタンカを切ってくれた」と好意的に解釈した保守の方々も国防に穴を開けたまま?の防衛大臣の唐突な(リベラルが言うごとき)女系天皇容認?発言には困惑を覚えた人も少なくないだろう。総裁選を意識し大衆に迎合したか。目的が「総理になること」であれば、何でもありということか。
  トップはなりたい者がなるのではない。周りから推されてなるもの。
  民間でも、賢者のトップから「次の取締役会で後継者に君を指名しようと思う」と言われれば、トップの御眼鏡に適ったその役員は「私に社長の後継が務まるとは思いません。そんなことは考えたこともありません」と答えるハズ。そうではなく、「ありがとうございます。私は新入社員の頃から社長になりたいと思い続け、一生懸命会社に尽くしてきました」と答えるなら、取締役会当日に後継者に指名されることはないだろう。
  なりたい、なりたいと言う者をトップにしてはいけないのは、念願のトップになれば、トップの権利を追及し、トップの座を維持することだけに執着しがちになるから。
  河野大臣は新米外相ながら外相専用機を要求した(実現せず)。既にその片鱗を見せている。
 
 それにしても、陸上イージス配備停止→敵基地攻撃の検討のコペルニクス的な転換は腑に落ちない。戦のゲームである将棋においても、守りを固めてから攻めに着手する。守りを捨てて攻めに転じるときは負けを覚悟して一か八かの攻めしかないとき。死に場所を求めるがごとく。今の日本はそこまでの状況にない。
 発表直後、BSフジの情報番組で自衛隊の制服組幹部OB3名が「聞いていない。守りに問題があるなら守りの見直しを検討するのが筋だ」と驚きとともに憤慨気味に話していた。
  元海将の香田洋二氏は「今回の断念を招いた原因の本質は、イージス・アショア自体が抱える問題ではありません。レーダーに「SPY-7」を選定したことに問題があったのです。そのことをきちんと明らかにして、国民に説明する必要があります。ずさんなレーダー選択に起因する全ての問題と矛盾をブースターのコントロール問題に押し付けて、イージス・アショア配備計画を棺桶に入れ葬り去ったとの印象です。国民を守るべき防衛省がこのようなことをしていてはいけません。」と批判する。
  説得力のある見解と言え、それが真相とするなら、守りの見直しを避けるのも合点がいく。
 敵基地攻撃を検討していけば、必ず憲法第9条の改正問題につながる。それも期待しているかもしれないが、技術面、コスト面で守りよりも数倍問題が生じると言われている。とても敵基地攻撃を本気で考えているとは思われない。
 なお、憲法改正問題については、憲法第9条の精神は維持すべきではあるが、現状の問題点に即して変更を加えるべきは早期に改正すべきとは思う。各地に米軍基地がある日本への北朝鮮からのミサイル攻撃は現実的ではない。一国二制度が形骸化した今中国の台湾統一は武力統一しかなく習近平国家主席在任中に武力統一が行使され米中が台湾で有事になった場合現行の第9条のままでは自衛隊が在台邦人を救出しに行くことができない。その方が優先課題だ。
 また、遅れをとっているサイバー攻撃対策についても、先に攻撃を受けてしまうと反撃すらできない。平和国家を標榜する日本に似つかわしい手段と言えるサイバー攻撃対策の拡充とともに、サイバー攻撃に限っては先制攻撃が可能となるよう第9条2項を改正する必要がある。
  新自民党総裁は9/14の総裁選で決まる。立候補した石破茂元幹事長が新総裁・総理になれば今回の「敵基地攻撃への転換」は見直しされるのは確実だろう。ただ、両院議員総会での選出では、誰が考えても石破氏は不利(来年の天下分け目の関ケ原で家康を期すのか)。大方の見方通り菅義偉官房長官が総裁・総理になるとして(来年は秀吉の後の三成なのか、それとも信長の後の秀吉なのか)、誰が「国防の要」防衛省の尻拭いをするのか。石破氏は適任だが受けないか。そもそも要請されないか。
 今回出馬を見送った河野大臣は噂通り官房長官に抜擢され、総理への階段をさらに登るのか。「つなぎの首相の後の首相には河野大臣しかいない」というネット民の声は少なくない。それが正しいのか。それともゲーテの「活動的な馬鹿ほど恐ろしいものはない」と言う通りなのか。

2020.9 臨時号 NO.139  ッホ VS ッホ
  日本人が好きな西洋画家は長らく(今年没後130年にあたる)ゴッホがトップの座に君臨していたが、今やフェルメールの方に人気が高いのではないか。
  一昨年秋上野の森美術館でフェルメール展が開催された。映画のように日だけではなく時間帯まで予約するようになっていた。当日朝一番の9時半~10時半で15分前に到着したが、もう100人以上が並んで開門を待っていた。同時期に開催されたムンク展にも行ったが、行列ほどではなかった(4枚ある『叫び』の内初来日のテンペラ・油彩の1910年版が目玉だが、ムンクが自画像を多数描いていることに驚いた)。
  フェルメール展でフェルメール作品10点が展示されたが、目玉の『牛乳を注ぐ女』より『赤い帽子の娘』の方が私の目を引いた。当時高価だったラピスラズリを原料としたフェルメール・ブルーが防腐剤や経年劣化で色褪せていた。大きな帽子のあざやかな赤色が強く印象に残った。その『赤い帽子の娘』は、23.2×18.1cmととくに小さく、キャンパスではなく支持体に板が使用されていることから、真筆に疑念を抱く美術家もいるのだが。
  『フェルメール最後の真実』(文春文庫)によれば、謎多き画家ヨハネス・フェルメールは1632年オランダ西部の商業都市デルフトに生まれ、1641年父親が宿屋『メーヘレン亭』を購入しそこに移り住む。1652年父親が亡くなりフェルメールは20歳で宿屋業と画商を受け継いだ。なお、宿屋のメーヘレンという名は、天才贋作画家ハン・ファン・メーヘレンと奇しくも同じ名前。メーヘレンがナチスのゲーリングにフェルメール作品を売ったとして戦後売国奴と糾弾されたが、贋作だと分かると一転オランダの英雄として崇められた。
  画家としてのフェルメールは43歳という若さで死んだこともあり、寡作でしかもチューリップ・バブルからオランダの黄金期が衰退していく頃であり、作品が世界に散逸して行ったことにより写楽と同様謎の多いことも人気の高さに繋がっているのかもしれない。

  一般的に科学者と画家と一見関係がなさそうだが、カメラがない時代は科学者は画家に頼らざるを得ない。1677年精子を発見したオランダのレーウェンフックは、初めて顕微鏡を使って微生物を観察した「微生物学の父」と呼ばれる。オランダ科学アカデミーは彼の功績を讃え、10年一度微生物の分野で最も顕著な発見をした科学者を顕彰するレーウェンフック・メダル制度を創設した。ちなみに、1895年には近代細菌学の開祖と呼ばれるパスツールや1950年にはストレプトマイシンを発見したワクスマンなどが受賞している。
  レーウェンフックは顕微鏡に映るものを精密にスケッチすることを画家に依頼せざるを得なかった。上手に描けないので画家に依頼したことが記録に残されている。
  その依頼された画家の一人があのフェルメールではないかとロマンあふれる仮説を大のフェルメールファンでもある青山学院大学福岡伸一教授は自著「フェルメール光の王国」(木楽舎)で遠慮がちに述べている。科学者の立場からではなく作家として。
  レーウェンフック(1632年~1723年)とフェルメール(1632年~1675年)は、同郷デルフトに同じ年に生まれ誕生日はわずかに1週間違い(10/24と10/31)。レーウェンフックの依頼によりフェルメールがスケッチした直接的な証拠はない。が、1675年フェルメールの死後レーウェンフックが遺産管財人になっており、極めて親しい間柄であったことからすれば、ありえない話と否定できない。

 『細菌と人類』(中公文庫)によれば、古代ローマ人の学者マルクス・テレティウス・ウアロが感染症の原因を「非常に小さな、目に見えない生物が人間の口や鼻から侵入して病気を引き起こす」と示唆していたという。紀元前の大昔から仮説があったが、それを立証する手段がなかった。レーウェンフックの顕微鏡は画期的ではあったが、その顕微鏡を他の科学者に譲ることはなかったので、細菌の解明には100年以上の年月を必要とした。
 ようやく顕微鏡を活用し細菌の解明が進んできた19世紀、人類の存続に脅威となっていたペスト、1830年からヨーロッパに現れたコレラ、フランス人の4、5人に1が罹患していたという梅毒(カツラが流行した要因の一つ)等の病原菌を解明・制圧することがまさに最優先課題であった。したがって、1901年に創設されたノーベル賞の生理学・医学賞部門の最初は人間に害を及ぼす細菌の解明に寄与した科学者が相次いで受賞(第1回ジフテリア菌のフォン・ベーリング、第2回マラリア菌のロナルド・ロス、第5回結核菌のロベルト・コッホ)している。
 なお、第1回生理学・医学賞の有力候補に「日本の細菌学の父」と崇められている北里柴三郎が挙げられていた。だが、受賞したのはジフテリア血清療法の共同研究者の上述フォン・ベーリングのみであった。人種差別の明白な証拠はないとされているが、高山正之氏は週刊新潮連載コラム『変見自在』2019.5.23号で「真の日本人」と題して、数々の功績を残す日本人北里を忌々しく思う白人による人種差別の見方を展開している。2024年からの新札千円札に北里が載るが、新札を見る度に日本の偉大な医学者に敬意を表しよう。

 伝染病をもたらす細菌の解明・制圧がほぼ終わった現在、新型コロナウイルス、エボラウイルス等ウイルスの解明・制圧に研究の目が向けられている。
 細菌の方は、最近、ヒトに害を与える細菌ではなく、体内にいる常在細菌等ヒトに有益な細菌の研究に軸足が置かれているようだ。
 阪大の研究チームは、腸内細菌を使って大腸がんを早期診断する手法を開発したとする。大腸がんの発症初期にだけ大腸で増殖する細菌を特定できたという。検便による便潜血検査では大腸がんの有無は分からない。併用することで大腸がんの早期発見が期待される。
 『細菌が人をつくる』(朝日出版社)によると、ヒトの体内の細胞が10兆個に対して、微生物は100兆個体内に存在する。DNAで見れば、ヒト遺伝子は約2万個もっているが、細菌遺伝子は200~2,000万個保持しており、その意味ではヒトは99%細菌と言えるとする。
 こうした体内にある常在細菌と肥満、関節症、自閉症等の病気との関係が研究により示唆されているという。そうなると、腸内細菌を変えるとどうなるかという試みも始まる。
 悪い細菌だけではなく良い腸内細菌も殺してしまう抗生物質を以ってしても余り効果がない病気の一つにクロストリジウム・ディフィシル腸炎という病気がある。本病気に罹ると日に数十回トイレに行く羽目になる。その治療に健康な人から腸内細菌を患者に移す「糞便移植」が実験的に行われ効果があるという。
 マウス実験によれば、糞便移植でマウスの肥満が治るという。細君ならぬ太君にそんな話をしたら「気持ちの悪い話をしないで!」と嫌がられたが。
 糞便移植で健康になった人と移植に協力した人とは、刎頸の友ならぬ“糞契の友”と称される日も近いのではないか。
 

2020.9 NO.138  いのうかい VS いのうかい

 テレビっ子を自認してきたが、国民の義務として三蜜は避けるものの感染拡大に対する楽観論的学説に近い私は、連日の新型コロナ報道に倦厭し、朝の情報番組は観なくなった。テレ朝の玉川徹氏が奇論等を発すればネット上にあがるのでそれを読めば済む。
 パソコンでYAHOO!を観てると、芸能人の発言が目につく。毎日観ていると、疑問が浮かんできた。なぜ芸能人は同業の芸能人の不祥事に批判の声をあげるのか。銀行員が顧客から他の銀行マンの不祥事を聞かれたら、「同業の者としてお詫びします」と言っても「あそこは銀行自体がおかしいんですよ」とかは言わない。近所の住民が、内心少し変と思っていた事があっても、マイク向けられたら、「いい人でしたよ。ちゃんと挨拶もしてくれるし。まさかあんなことを・・・」と言うのが普通だろう。
 お笑いイケメンタレントの渡部建さんの私生活上の不祥事について、普段親しくもない芸能人が批判コメントをなぜネット上に載せるのか(お笑いのカズレーサーさんは7/18に急死した三浦春馬さんの訃報に対して「生前に接点がなかった。推測でお人柄や内面を、あまりしゃべるべきじゃないと思う」と亡くなった人への気遣いをみせているが)。芸能界は生存競争が厳しい世界で足の引っ張り合いなのか。他の芸能人の不祥事は自身がアピールできる絶好の機会なのか。
 大御所なら誰もが悪いと思うことなど沈黙しておけばよいのに。メディアから“関西の女帝”と呼ばれる上沼恵美子さんは、転ばぬ先の杖ならともかく、転んだ渡部さんをわざわざ自身で批判し、さらに7/10自身がMCの関西テレビ『快傑えみちゃんねる』にて、触れたくない、言及したくないと思うココリコの遠藤章造さんや南海キャンディーズのしずちゃんに、テレビ復帰は「無理ちゃいますか」と言わせるように仕向けたという(同番組別騒動に起因してか7/24突然25年の長寿番組の幕を下ろした)。
 私の「女帝」のイメージは、自身の利害得失で、気分次第で、独断専行の末国を傾城させるというもの。上沼さんには「ご意見番」として、だれもが気づいていない、あるいは間違っていると思われることを指摘し、警鐘を鳴らす役割を担って欲しい。
 今芸能界に真のご意見番がいないのでは。いるなら、指原莉乃さんが藤本敏史(フジモン)さんと木下優樹菜さん元夫妻のことに対して「誰か本当に憧れてたのかな」と発言したことに対して、「何を小娘が先輩達に対して失礼なこと言うてんねん!?」と怒りのコメントがあってもおかしくない。優樹菜さんへのバッシングが強い中ではパワハラとしか理解されないとしても。
  日曜フジテレビ『ワイドナショー』、最近観ていなかったが、7/12チャンネルを合わせると指原さんが出ており、それならばと観ていた。ところがやや唐突に上記発言をして驚かされた。その夕方東スポWEBが『指原莉乃のフジモン&木下優樹菜元夫妻斬り「誰か本当に憧れてたのかな」に称賛の声』と若きバラエティーの女王を持ち上げた。それを読んで私は視聴者は皆「低能かい!?」と悪態をついた。だが、投稿コメントを見ると、賞賛の声だけではなく、批判コメントもあり、安心した。
  「指原さんはいつも弱ってる人や叩きやすい人にしか強い事言わない(言えない)のにご意見番気取りなのが世渡り上手感が滲み出ていて好きになれません」「単に事後の完成した世論の空気を読んで自分に火の粉が飛んでこないように慎重に保守的にコメントしてるだけ。鋭くもなんともない。」等のコメントに対して、指原さんは、言葉足らずだとはぐらかすのではなく、真摯に向き合うべきだろう。
 優樹菜さんが池に落ち助けようと飛び込んだ元夫フジモンも一緒に溺れかかっているときに、浮き輪を投げずにひどい言葉を投げつけたのと同じではないか。「芸能界は怖い。持ち上げられて、自分が見えなくなる恐ろしさ・・・」と言ってるその口で。好意的に見れば、思い上がりではなく、心の中に不安を抱えて混乱しているということなのかもしれない。
  いかにせよ、弱っている者を叩き自らを浮上させることをすれば我が身に跳ね返ってくる。
 かつて辻元清美議員は鈴木宗男議員に対して「疑惑の総合商社!」と滅多切りした。すると、自らの秘書給与詐取疑惑が発覚し、議員辞職に追い込まれた。「国会論戦では熱くなったり、言い過ぎたりということも経験し、それが自分にはねかえってくることもみんな理解している」と辻元議員も反省しているという。これ程ではないが、私自身も思い至らされたことが過去にあった。
 私は、社会への影響力はなく自己満足にすぎないが、皆が安倍首相を持ち上げているときに、「それは間違いだ」と安倍首相を批判し続けた。今はほとんどの人が気づいた。もう私のこの役目(誰からも求められてはいないが)は終わったと思っている。傲慢な権力者の姿はなく弱り切った安倍首相自身を「具体例を挙げて」批判することはもうないだろう。今の私の関心事は、真の保守政権が誕生し、小泉政権、安倍政権の政治路線から脱却して、日本のあるべき姿に戻してくれるかということだ。
 ワイドナショーの2日後の7/14指原さんの大分等への2,000万円寄付が報道された。それ自体賞賛すべきであり、しかも「指原、動きます」と自身の口から言わなかったのはさらに好感を覚える。失言を打ち消す効果は大いにあった。だが、浮き沈みの激しい芸能界で成功している故に昂じる不安が時として本人の自覚する性根の悪さを暴れさせる?のは解消された訳ではないだろう。「性根は腐っている」と公言できる指原さんに親近感を持つ私は、それだけに古諺「人を呪えば穴二つ」を肝に銘じてほしいと思う。それでないといつか後輩から「さっしーなんかに憧れたことなど一度もない!」と言われる日が来るかもしれない。

 芸能人が、ピンチの同業者を叩くのではなく、政権・権力者批判することは悪いことではない。本ブログの前号にて検察庁法改正案への抗議を契機にようやく政治発言をし出した芸能人を私は“タレサヨ”と呼んで歓迎した。タレサヨはタレント左翼の略だが、一部日本共産党に近い人もいようが基本左翼思想とは関係がない。権力者の横暴にNO!と声をあげるだけ。それでもタレサヨに対して何らかの攻撃があるとみていた。攻撃手段には、世良公則さんに脅迫状を送る直球の場合もあれば、いやらしい変化球で来る場合もある。
 その変化球が7/8デイリー新潮から投げられた。『「#検察庁法改正案に抗議」した芸能人たちは香港問題にどうコメントしたか』と題して。私自身は、安倍政権が保守でないと批判しているだけで、保守だと思っている。よって毎週週刊新潮を愛読している。誌面ではこれまでWEB版の今回の記事みたいに胸くそ悪い思いをしたことはなかったのだが。
 デイリー新潮の記者は、きゃりーぱみゅぱみゅ(を筆頭に)、小泉今日子、浅野忠信、宮本亜門、城田優、麻木久仁子、井浦新、秋元才加等々と名前を列挙し、政治的発言は問題がないとしつつも、香港問題に発言しているか否かで振り分け、次のように文を結んでいる。
  『もちろん検察に関心があるからといって、香港にも関心を持つ必要があるわけではない。「あの問題について触れた以上、この問題についても触れよ」というのは押しつけもいいところであって、それこそ言論の自由の原則に反する。しかし、香港には日本の芸能人を愛してくれる人も多くいるという。きゃりーぱみゅぱみゅは、かつて香港公演もしたほどだから縁も深いだろう。彼らを励ましてあげると喜ばれるかもしれないのだが……』
 これは明らかに、きゃりーぱみゅぱみゅさんを狙い打ちにしている。同じく香港問題にコメントしていない浅野忠信さん、宮本亜門さんなどは、芸能界で確固たる居場所を確立している。揺さぶっても動じない。歌手本人も若く、若者に大きな影響力を持つきゃりーぱみゅぱみゅさんに「香港問題に言及しないなら日本の政治にも口出しするな」と言わんばかりにプレッシャーをかけているとしか思えない。
 きゃりーぱみゅぱみゅさんは、「釘を刺しておきましたよ」とネトウヨ向けに書かれた記事だと思えばよい。気にせず、背伸びもせず、自然体で自身がオカシイ?と思うことがあるときに発信すればよい。「出る杭は打たれる」は世の常。より活躍して米歌手テイラー・スイフトさんのようになってもらいたい。スイフトさんには誰も文句を言わない。平気で暴言を吐くあのトランプ大統領でさえ「前より25%好きじゃなくなった」としか言えない。

 テレビ出禁状態の宮迫博之さんが“嫁迫”さんの功もありYOU TUBE登録者が100万人を超え、若手人気芸人らが「もっと自由におもろいことを」とYOU TUBEに進出する。テレビマンは指をくわえているだけなのか。
 芸能人からテレビマンに矛先を転じ批判し出す私はクレーマーかと少し自己嫌悪に。本日古希を迎えたというのに。次号(8/20掲載)は誰も批判しない内容を掲載したい。

 

2020.8臨時号 NO.137 しきん VS しき

 大山鳴動した検事総長人事は検察構想の東京高検林眞琴検事長の就任で落着した。
  一寸先は闇という政治の世界は怖い。検察庁法改正案が先送りになった直後黒川弘務検事長の醜聞が唐突に表沙汰になり、黒川氏は辞任にした。小説より奇なり。火付盗賊改方の鬼平が罪人同然まで落ちることはあり得ないのに。自業自得と言わぬは武士の情け。
 政権末期はこんなものか。安倍首相は打つ手打つ手が裏目に出る。寝た子を起こしてしまった。なぜ新型コロナで大変な折に不要不急な検察庁法改正案を通そうとしたのか。
 内閣を脅し意のままにした戦前の軍部のごとく、時として正義感からとはいえ暴走する恐れがなしとしない強い権力を有する検察は、「行政」の指揮下に置かれる。それでも検察の独立性を維持するために、検事総長の人事案は検察の意向に委ねられていた。
  万が一、検察が暴走しても個別案件対しては法務大臣が検事総長に指揮権を発動させることができる。これで、政権と検察とは、一定の距離感、緊張感を持った、いわば健全な関係が維持されてきた。それに指を突っ込めばハレーションを起こすのは自明なのに。
  黒川氏の定年延長を正当化する為なら、その必要がなくなった。そうは言えないから、抱き合わせの公務員の定年延長案に問題があるとして、廃案に葬った。
  安倍首相自身は何を恐れていたのか。退陣後も追及されたくない懸案があるとすれば、それは「桜を見る会」の公職選挙法違反疑惑なのだろうか。夫と共に買収で逮捕された河井案里参議院議員への1.5億円もの選挙資金問題は、意図は安倍首相をコケにした溝手前議員への意趣返しにしろ、買収資金として指示するハズもなく、安倍総裁自身を交付罪に問うのは無理筋。菅原前経産相の不起訴処分からして官邸との全面対決はなさそうであるし。
  当てが外れたのは安倍首相だけではなく官僚もそうだろう。公務員の定年延長案が検察庁法改正案と抱き合わせで強引に通してもらえば、国民の目は検察庁法改正案に向き批判されずに済むと期待していたのではないか。だが、今は公務員定年延長案の内容に問題があることを国民に知られてしまった。
  私は35年前銀行の組合専従をしていた時に、低成長、高齢化の中で55歳定年を60歳に延長する私案を検討していた。延長により総人件費が大幅に膨らむのであれば銀行側は話に乗ってこない。右肩上がりの賃金カーブは50歳までとし、それ以降賃金カーブを下げていき、51歳~55歳の人件費の削減分で56歳~60歳の人件費増加の大部分をカバーする案を考えていた。民間企業ならどこでも似たような発想で定年延長されてきたのではないか。
 しかるに、今般の公務員の定年延長案は60歳までは現行通りで給与も減らさず61歳以降は段階的に65歳まで延長させるが、その給与は官僚人生最高額?の60歳時の7割。官僚一人当たり最大3.5年分 (5年×0.7) の人件費増は、国民以外誰が負担するのか。
  営業自粛で中小企業が瀕死の状態になっているときに、財政難でしかも新型コロナ対策の支出が増える一方、令和不況で税収が激減するときに、浮世離れしたような定年延長案をどさくさ紛れに出してくる。自治労等労働組合を支持母体とする野党は見て見ぬふりをするのか。我々国民にとってはこちらの方がより身近な大問題なのだ。
 国民にとっても予想外だったのは、タブーとされてきた日本の芸能人が多数政権批判をし出したこと。当然芸能人も主権在民の一員であり、政治的発言をしていけない理由はない。それを止めるのは憲法違反。かつて映画界には所属の映画監督や俳優の活動自由を制限する強力な五社協定があったが、憲法違反ままでは消えていく運命にあった。
 政権批判という一視点から観れば、「数」「匿名」のネトウヨ(ネット右翼)に対するカウンターパワーとして「影響力」「著名」の“タレサヨ”(左翼思想と直接関係がないタレント左翼)が存在することになり、ネット社会がより健全化すると思うが、どうか。
  タレサヨが根付くかどうかは芸能人がバッシングに耐えうる覚悟と自らの発言に責任を持つことができるかによる。影響力があるだけに、ファンは感化される。「間違っていた」と気づいた時は明確に訂正してもらいたい。
 政権もタレサヨパワーを意識し出した。権力者を規制する憲法に対しては憲法解釈を変え、自民党議員を小選挙区制における選挙公認権で押さえつけ、官僚を国民の公僕から官邸の下僕に落とし、日銀の独立性を無くし、検察の独立性も奪わんとする。なんでもありの権力者に新しい怖いものが出てきたことはよいことだ。

 今や、大家である国民は、安倍首相を信用して敷金・礼金なしで長年内閣を貸してきたが、拉致問題を踏み台にしただけで、特定秘密保護法、改正組織的犯罪処罰法(共謀罪法)で国民を監視・束縛しても我々庶民の為には何一つ成されなかったという思いではないか。
 安倍政権の政治を私はABE主義と批判した。American soldier(米国人兵士)>海外邦人、Better friend(より親しい友) >一般市民、Elect (特権階級) >低所得者・年金生活者。
  Aは安保法制。Bは、モリ・カケ問題、「桜を見る会」、河井案里参院議員への選挙資金1.5億円、持続化給付金の委託問題。さらに黒川検事長の定年延長案も。Eは、アベノミクス、ふるさと納税、新型コロナ対策。
 再三非難して来た私自身は詰めろがかかり弱り切った安倍首相への批判を手仕舞いしていく。今批判すべき対象は我々自身だ。こんな首相に憲政史上最長という勲章を与えてしまった。安保法制の強行採決、モリ・カケ問題等退陣を求める機会は少なくなかったのに。
 なぜ、そんなことになるのか。日本人は“政治的民度”が低いからなのか。20年に亘る銀行員時代政治に深い関心を示さなかった私にそんなこと言える資格はないが。
 京大故会田雄次教授は『アーロン収容所』(中公新書) のP140にて、「戦前も捕虜中も現在(敗戦から17年後)もちょっとも変わりがなさそうだ。私たち日本人は、ただ権力者への迎合と物真似と衆愚的行動と器用さだけで生きてゆく運命を持っているのか。」と述べた。
 会田教授がそう自嘲してから58年経つ。スピードは緩慢ながら民主主義は発達し、ようやくここにきて批判的に考えられる国民が増え、政権批判を発信するタレセヨも出現した。
 しかし、2018年からの教科化された「道徳」は、その流れに棹差すのではなく堰き止めるのかもしれない。その日本の道徳教育に対して、日本、フィンランド両国の教育に通暁する岩竹美加子女史は『フィンランドの教育はなぜ世界一なのか』(新潮新書)で次のように批判している。2018年から新しくなった高校の「学習指導要領」での道徳は郷土愛、愛国は小中学校と同じだが、「現代社会」が廃止され、「基本的人権の保障」と「国民主権」が削除されていると言う。指導要領には「履修させる」「理解させる」など使役動詞が多く、教育は権利であり、自主的に学習するものというよりも国が下々の者に与えるものなのだろうかと疑問を投げかける(世界が称賛する道徳心の高い日本児童に、為にする「道徳教育は」不要。必要なのは、大人の言うことの是非を自身で考えられる力をつけさせること。大人、とくに気高さと潔さがないトップ層に対しては、武士道精神を叩き込ませることだ)。
 選挙権が18歳に引き下げられたことに関しても、「しかし、自分の権利を充分教えられることなく、批判的思考や政治参加の訓練も受けないままでは、政治が身近な問題と直接繋がる事としては感じられないであろう。18歳に選挙権を与えるだけでは不十分なのではないか」と言う。今の若者が安倍首相を支持しているのは、それも関係しているのか。
  P78では「・・全体主義な国では国民は国家のイデオロギーに従順であるように育てられる。そうした国では、批判的な国民は社会的危険、国家制度を揺るがす存在と見なされるので、自分で考える能力を発達させる価値は認められない」と述べる。いかにも全体主義であった戦前への回帰を時の政権は目指しているのではないかと言わんばかりだ。
 そういえば、「一億総活躍」は戦前の国家総動員法を思い起こす。国民の幸福との視点に立つなら、忌まわしい「一億総決起」「一億総玉砕」を連想するフレーズは使わないだろう。
  そうだとすれば、京大藤井聡教授らに「この空虚な器」と称された安倍首相に一体誰が吹き込んだのだろうか。次の政権を担う自民党の政治家達も同じなのであろうか。


 

2020.8 NO.136 ナコVS ナコ

 女性の時代と言われて久しいが、スポーツの世界はそう呼んでもおかしくないか。

 競馬界では、天才武豊騎手が1987年にデビューした以降、競走馬では、オグリキャップ、ナリタブライアン、ディープインパクト、オルフェーヴルなどスーパーホースが何頭も誕生した。しかし騎手では武騎手に続くスター騎手が出現していない。そんな中で、日本人女性騎手として史上初でJRA重賞を勝利した、ナナコこと藤田菜七子騎手の人気が沸騰している。近い将来大きG1を勝ち日本の“ミシェル・ペイン”(女性騎手では勝てないとされた豪競馬の聖杯メルボルンカップを2015年に制した)と呼ばれることが期待される。

競馬界はかわいいだけでは通用しない。馬主が騎手に支払う報酬は賞金の5%と決まっている。いきおい勝てる上手い騎手に依頼が集まることになる。だが、藤田騎手は実力も備わっている。昨年はJRAだけでベテラン横山典弘騎手と並んで堂々のリーディング26位。43勝をあげ獲得賞金は608百万円。賞金面からの年間収入だけで30百万円を超える。22歳の若さで(今年2月初め落馬骨折したが3月中に早くも復帰。4/25に女性騎手として史上初のJRA100勝を達成した)

 “美人過ぎる”と形容詞がつく仏のミカエル・ミシェル騎手が数年後の中央競馬(JRA)での騎乗を望んでいる。足掛かりとして、201872勝の仏女性騎手年間最多勝利をひっさげ、新春から短期免許で地方競馬に参戦した。1/273/312か月で30勝し、地方競馬短期免許での外国人歴代最多勝記録を樹立した。「腕」も確かなところを見せJRA参戦も単なる夢物語ではなくなった。将来ナナコとの対決が実現すれば競馬界はより盛り上がる。

そのナナコに憧れて、昨年騎手試験で27年振りに競争率15倍の難関を突破して女性が3名合格 順調にいけば2023年には女性騎手が7名になるとか。

競走馬も歓迎だ。女性騎手はあたりが柔らかく、斤量2㎏減のハンデもある。

 

日本ゴルフ界も女子ツアーが熱い。昨年は黄金世代が台頭の中その一人渋野日向子選手が42年振り海外メジャー全英女子オープンを制しシブコフィーバーが湧き起こった。

百花繚乱とはいえ、渋野選手は今や日本女子ゴルフ界の宝。なのに来年渋野選手が米ツアーに転戦と言われていた。だが、東京五輪が1年延期となったのに続き、今年の米ツアーQスクールも中止となった。来年も日本でプレーする公算が高くなった。渋野選手本人にとっては残念だろうが(それでも海外メジャーに優勝すれば米ツアー参戦が可能となるが)、渡米を心配するシブコファンにとっては朗報と言えるだろう。

鈴木愛選手らの参戦に加え渋野選手が初挑戦する女子最高峰の全米女子オープンも12月に延期となった。過去の同オープンにおいて、1998年の朴セリ選手優勝を皮切りに、2005年~19年の15年間で、韓国女子選手8(9)が優勝しており(米国選手は4名のみ)、その内6人が初出場で勝利している。内訳は、05年バーディーキム、08年朴仁妃(13年も)11年ユソヨン選手、15年チョンインジ選手、17年パクソンヒョン選手、19年イジョンウン6選手となる。それは、何を意味するのか。米ツアーで揉まれ強くなり勝ったのではない。新人は無欲で怖い物知らず、勢いがあることを差し引いても、元々韓国選手の実力が突出している。または米国選手らがレベルダウンしていることを意味していないか。

言い換えれば、韓国には完全実力主義の国家代表選抜システムがあり、その熾烈な競争に勝ち抜き国家代表になった者が言わば刺客のように米ツアーに送られ、その刺客に米選手らは歯が立たないのでは(代表とも言えぬ日本選手が憧れや夢で行くのとは訳が違う)

昨年度5年連続で韓国選手が米ツアーの新人賞に輝いたが、そのイジョンウン6選手も「韓国ツアーで3年間やってきたことが、とても役に立ったと思う。」と言っている。

日本代表として米ツアーに今挑戦する資格があるのは開幕戦も優勝争いの鈴木選手だけと思う。万全ではなく気持ちだけで米ツアーに行き揉まれれば、移動の大変さや言葉・人種の壁(親日台湾人と米国人とは違う。大リーガー田中将大投手でさえ新型コロナで人種差別か?身の危険を感じ日本に避難した)と相まって、身も心も“勤続疲労”を起こすだけに終わるかもしれない。“花嫁の介添人”では自他ともに許されない立場であれば、なおさらに。

米賞金女王で全英女子オープン2度制覇の申ジエ選手が日本に転戦し、好成績なのにエビアン選手権チャンピオンのキムヒョージユ選手も日本への転戦希望を表明している事実にもっと目を向けるべきではないか。全英女子オープン勝利の渋野選手なら、あわてて行く必要はない。国内20勝、賞金女王をひっさげ30歳で米ツアーに参戦し米賞金女王となるレジェンド岡本綾子さんも「海外に行くとゴルフがうまくなるっていうのは勘違い」と言っている。黄金世代の勝みなみ選手、原英莉花選手ら、プラチナ世代の安田祐香選手、古江彩佳選手らと切磋琢磨し、日本ツアーをよりlevel upさせる中で成長していけばよい。なぜそう言わないのか。協会や日本のマスコミは。

渋野選手の究極の目標が5大海外メジャー制覇であれば、残り4つの海外メジャーを日本にいても制覇可能と思うファンは多いのでは。日本で走り海外G1だけ挑戦して勝つJRA年度代表馬名牝アーモンドアイやリスグラシュー(競走馬も牝馬の時代か)のように。

 

来年の五輪においても、政財界の男達を冷ややかに見ている私は男子アスリートにもやや懐疑的な視線を向け、女子選手の方に期待をかける。上述のゴルフでは、安定力の畑岡奈紗選手に加え、実力NO.1の鈴木愛選手か爆発力の渋野日向子選手(両名とも1年延期で世界ランク15位以内の維持は簡単ではなくなったが)に金メダルへ大きな期待を寄せる。

他は、シブコの恋人上野由紀子投手率いるソフトボールチーム。日本に恩義を感じ日本国籍を選択したテニスの大坂なおみ選手。柔道の阿部詩選手。同最重量級素根輝選手。空手・形の清水希容選手。レスリングの川井梨紗子選手。自転車の梶原悠未選手。トランポリンの森ひかる選手。バトミントンのダブルスペア等に「金」をとくに期待する。

 

 スポーツ界と較べて政財界は女性の時代には程遠い。大塚家具の父娘の経営方針をめぐる親子喧嘩騒動で大塚久美子社長の経営手腕に注目が集まったが、結局のところ、無借金優良企業を身売りさせてしまった。とくにピンチに陥ったときの女性経営者の限界を露呈したに終わる感がある。パリコレの冨永愛さん、女性指揮者の西本智実さん、三ツ橋敬子さん、バイオリニストの木嶋真優さんとか世界で活躍している日本女性は多い。

日銀清水季子名古屋支店長が初の理事に就任した。ニッポン放送の檜原麻希氏が在京キー局初の女性社長になった。他の気鋭の女性経営者はいないのかとネットで検索し、気になるタイトルを目にしたが、そのサブタイトルに美人経営者、ママさん経営者と書かれていたので、クリックするのを止めてしまった。

 その点、作家の世界は、男女平等、同権だ。新人作家の登竜門芥川賞、直木賞の直近15年間の受賞者(2005年上期~2019年下期)において、それぞれ男17名、女17名、男21名、女14名となっている。もっと女性の受賞が多いと思っていたが、それでもほぼ拮抗していると言えるか。女流作家には容姿は問われない(今時容姿も端麗だが)。完全な実力の世界だ。

政界は経済界と同じか。もう少し酷いとも言えるか。かつて小渕優子議員、稲田朋美議員らを女性首相候補と持ち上げた。本気でそうなると思っていないから軽々に口にする。上川陽子元法務大臣はその可能性があるから、口にされないし重用もされないのか。

男性議員は女性議員が大同団結などできないと高を括っている。国際的に見て女性議員比率が低いとは言え、衆参両院で100名前後女性議員がいる。男性議員の代弁や男性議員にいいように使われるのではなく、真に日本の女性の地位向上を目指す志があるのなら(三原じゅん子議員、杉田水脈議員等は固辞するかもしれないので)とりあえず20人程度でよいから女性党を立ち上げてはどうか。週刊新潮2020.5.714特大号『変見自在』で辛口の高山正之氏も褒めた?上川陽子議員を代表、野田聖子議員を幹事長として。

2020.7 NO.135 ひんかく VS ひんかく

 50年以上前全共闘1千人が集まる東大900番教室に単身乗り込んだ際三島由紀夫が口にした「男は敷居を跨げば七人の敵あり」という諺を、その頃私もよく耳にしていた。

今あまり聞かれない。その理由は二つあろうか。一つは、今は家でも敵ばかり。妻にイビられ、息子に無視され、娘には嫌われる。もう一つは、男は戦わなくなった。政治家は、独裁者に媚びる。媚びない者は戦わず、見て見ぬふりする。そんな男議員に政界を引退した亀井静香氏が歯ぎしりする(さすがに内閣支持率が急落の今は戦う気配を見せ始めたが)

今戦う気概を持ち合わせているのは女性の方だ。木で鼻をくくる菅官房長官に噛みつく東京新聞望月衣塑子記者。日本テコンドー協会における四面楚歌の理事会で命懸けの戦いを挑んだ女性理事二人。時の政権のNO1NO2を敵に回しても公文書改ざんで無念にも自裁した夫の遺志を継ぐ妻もいる。女は敷居を跨げば七人の敵あり」に諺を変えるべきだ。

男女同権とはいえ、フィギュアの“男性元大学監督”が“女性コーチ”をパワハラで訴えた。テレビ局の男は、離婚調停中に他のテレビ局の男と不倫?した妻を正論でもって擁護した女学者を提訴。さらに相手の男のテレビ局をも。理屈をこねても八つ当たりと思われ男を下げるだけ。妻にも結婚したことをさらに後悔させる。「あんな女に未練はないが なぜか涙が流れてならぬ 男ごころは男でなけりゃ 解るものかとあきらめた」と漢・村田英雄の歌を唄って忍べばよいのに。私は女々しいが故に男の矜持、意地を常に意識している。

 

 2005年の秋一級建築士による耐震偽装事件が発覚し世に激震が走った。翌年4月川北義則氏の『男の品格』(PHP)が発刊され、半年で13刷なのでベストセラーとなった。しかし、「喉元過ぎれば熱さを忘れる」ではないが、あれから15年。各分野での人の上に立つ“気高く、そして潔く”を忘れた品位欠く反面教師たちに「男の品格」を思い起こさせられる。

 「総理の品格」では、安倍首相を震源とするモリ・カケ問題により、紀元前の中国斉の国の賢い女性が当時の王に言ったとされる「瓜田に履を納れず、李下に冠を正さず」が2千年の時を経て現代に蘇った。一方側近にまつわる「官吏男女、二間続きにして席同じゅうせず」は、そのまんまであるし、五経の一つ『礼記』のパクリで、故事にはならないか。

また国会の代表質問で側近の参議院議員から「謙虚で丁寧な対応」との異例の注文がつくが、安倍首相は直らない。「品格」は「育ち」とは直結しないことを思い知らされた。

 「横綱の品格」では、大横綱でありながら腕にきつくサポーターを巻きカチあげる、国技のしきたりを再三逸脱する白鵬関に横綱の品格とは何かを考えさせられた。帰化に反対の父親の逝去に伴い念願の日本国籍取得。親方を経て将来理事長の座を狙うのか。

「社長の品格」では、関西を代表する関西電力の会長、社長の品格の無さに空の上から武士が嘆いていよう。原発マネーの還流発覚後の会見において2度に亘って延命を図ったのは見苦しいの一言。日産の西川前社長も、強欲?ゴーン会長の“AGREE側近”となり日本のサラリーマン社長では法外と言える5億円もの報酬を受け取っていながら、社内で処理すべき問題を天下に晒しては、自身は刺し違えになる。それ以上に会社を大きく棄損することになると思わないならどうかしている。それ程苦し紛れの保身だったということか。

「協会長の品格」では、MBLの大谷翔平選手、テニスの大坂なおみ選手、ゴルフの渋野日向子選手のごとく若いアスリートは競技の実力だけではなく人格も素晴らしい。一方選手を指導、統括する立場の協会のトップや又は上層部が、日本ボクシング協会、日本レスリング協会、日本テコンドー協会、日本体操協会らが揃いも揃って、独裁的で潔さもない。

極めつけは「教師の品格」だ。私は東京に居を構えているが、神戸出身者としての郷土愛を持っている。いじめをなくすべき立場の教師が子供じみた弱い者いじめをしているのが神戸の小学校だと知って、愕然とした。さらに、いじめの主導者が女性教師で後輩男性教師らがそれに加担していると分かり、「それでも男か!?」と怒鳴りつけてやりたい衝動に駆られた(「世間」からの冷たい視線を浴びる加害教師家族は気の毒だが)

正しい事をするのに女も男もない。しかし、教師の立場以前に大人の人間としてあるまじき行為に対して女王蜂に群れるオス蜂のこどく振る舞う。まさに「反面教師」の名に値する。諸悪の根源と思しき前校長の態度も潔くないと見える。

 我々も教師に限らず誰彼となく軽々しく「先生!」「先生!」と持ち上げる。それがいけないのかもしれない。同書(P166)で、著者は官僚、医師、弁護士、教師などをエリート 職業と呼び、「エリートになれば畏怖尊敬され、いい目にもあえる。なぜかといえば、それに見合う立派な働きをしてくれると思うからだ。以前は、エリートにその自覚があった。自覚したうえで威張っていた。だから庶民は彼らを認めたのだ。」「今は威張っていい目にあいたがるだけで、肝心の責務を十分に果たさない。それどころか特権を悪用して悪い事をする。・・・」と著者は15年前に批判した。今でもそのまま当てはまるだろう。

 

 男はいつ品格を意識するのだろうか。私の場合は前立腺がんが発覚し転移を心配し、死を意識した時。残された時間をいかに生きるべきか、家族とどう向き合うのかを考えた。夫として父として家族に良い思い出を残さねばとも思った。しかし、放射線治療から8年が経ち再発もないとなると、雑念が湧き、煩悩が擡げてくる。だらしなくなっていく。

 皆が「死」を意識するのは戦争の時だろう。男は「私」を捨て「国」の為に命賭けで戦う。女は自分たちの為に盾にも矛にもなる男に対して敬意を払う。

 チャーチルの「日本に経済繁栄を与えて二度と歯向かせさせないようにする」思惑は見事にはまり、武士道の国日本は平和ボケになった。しかしその騎士道の国英国も平和ボケ。

 いくら短絡的な私でも、男の品格を取り戻す為に戦争をすべきだとの愚言は吐かない。

 学ぶべきは、戦争屋の武士が戦争のない徳川の天下泰平の世に移って「武士の品格」をどう守ったかである。武士は為政者に変わっても、いつも死と隣り合わせで、厳しく自身を律し、気品高く、潔く、凛としていた。武家社会の武士道精神に関する書は戦争屋のバイブルかもしれないが、人の上に立つ者の心構えとしては現代でも通用する。

男の品格には武士道精神が必要と言って、それで世の中に浸透するハズもない。豆腐ににがりが、チーズにレモン汁が、必要なのと同じ様に、一滴垂らせば全体が変化する触媒が必要。その役を担うことができるのは、前から言っているように検察だと思っている。

その検察は今どうなのか。公権力の私物化疑惑ではなく、一民間企業の権力の私物化を捜査し大山鳴動した事件は裁判の未開廷と日産の業績・株価大幅悪化で終焉を迎える。

逃亡したゴーン氏はレバノンからICBMのごとく日産・検察に反撃する。政府関与?の国策捜査の不当性、「人質司法」の非人道性を世界に晒し、海外メディアは一定の理解を示した。ゴーン氏への捜査、弘中弁護士事務所への強制捜査等における「検察の強さ」をよりはき違えたような特捜部の捜査手法も合わさり「検察の品格」が今問われている。

 

時の政権は勝手に法解釈を変え検察官の人事に介入した。検察会議で受け入れ姿勢の上層部に対し静岡の検事正(現千葉地検)が異を唱えた。政権は正当化するために検察庁法改正を強行する。姑息さに政治的発言をタブーとした芸能人も多数抗議の声をあげ、元検事総長ら検察OBも異例の反対表明をする中、安倍首相は今国会での改正を断念した。

すると、渦中の黒川弘務検事長に醜聞が噴き出し、急転直下黒川氏は辞任した。後任は名古屋高検林眞琴検事長で結局現稲田伸夫検事総長の意向に沿う形に戻った。官邸と検察との手打ちなのか。それとも本丸(「桜を見る会」疑惑)に攻め入ることはあるのか(現検事総長下捜査中の河井案里議員に係る15千万円もの資金提供疑惑は直接的には自民党幹事長の問題。安倍首相の指示だとしても、不公平それだけでは罪に問える訳ではない)

韓国検察に対して、権力が強大すぎるところは「他山の石」とし、政権との対立をも辞さない姿勢は「爪の垢を煎じて飲む」べきと言う必要はないか。野武士の新検事総長なら。

「検察の独立性」のピンチの後は「検察の品格」を取り戻すチャンスだと思うのだが。