こんにちは、絶學無憂(ぜつがく・むゆう)です。

 

スピリチュアルの世界と、オウム真理教は似たような言葉を振り回しているので、区別がつかない、というわけで、「オウム真理教とどこがが違うんですか」という疑問に答えるシリーズ、

 

1. グルへの絶対帰依?

2. 出家?

 

ということで私の見解をお伝えしてきました。

 

村上春樹の「約束された場所で」を読んでいて、(上級幹部ではない)一般の信者たちが、ネガティブなことに動じない、と書いてある箇所があって、こりゃあ(外部の一般人から見たら)本当に区別がつかないな、と思いました。そこの原文を引用しましょう。

 

たとえば明日までに鉄骨が現場に届いていないとだめということがあったとしますね。でもそれが届いていない。でも担当の人間が「あ、そうだ、忘れていました」と言ったらそれで済んじゃうんです。それはちょっとくらいは叱られますが、でも叱られても当人はぜんぜん動じません。みんな日常的に、厳しい現象に対して動じないという状態に達しているんです。例えばなにか悪いことが起こっても、「あ、カルマが落ちた。よかったね」って言って、みんなで喜んだりします。失敗しても叱られても、なんでも「これで私の汚れが落ちたんだ」になってしまう(笑)。非常にタフです。何があってもなかなか苦しみません。ですから教団の人たちはつい現世の人たちを見下してしまうんですね。ああ、みんなあれこれと苦しんでるよな、でも自分たちは平気だ―みたいな。

 

狩野浩之

「約束された場所で」村上春樹

 

 

結果だけ見ると、「ネガティブ」な場面であまり動じない、と言ってるわけですから、私が普段書いていることとほとんど同じです。

 

ですが、どうもその仕組みは違うように思います。

 

 

気になるのはこの箇所です。

 

「あ、カルマが落ちた。よかったね

これで私の汚れが落ちたんだ

 

という考え方は、増谷始という信者の人も別の章で触れていますから、教団内で相当一般的な、あるいは支配的な考え方だったのでしょう。

 

僕もある時期までは自分のステージが上がらないのは努力が足りないからだというふうに考えていました。でもそれと同時に「東大出の人はずいぶん尊師に可愛がられるよな」という感想はみんな持っていたんじゃないかな。よくまわりの友だちなんかともそういうことを話しましたよ。ああいうの変だよねって。しかしそうは言っても最後には、「そういうことを考えるのは結局自分の汚れなんだ」とか「カルマなんだ」とかいうように納得して、そこで話が終わっちゃう。だから何か疑問が頭に浮かんでも、悪いことは全部自分の汚れ。逆に良いことがあると、「これはグルのおかげだ」ということになっていたと思います。

 

増谷始

「約束された場所で」村上春樹

 

さらに、この2つの引用では、「教団の人たちはつい現世の人たちを見下してしまう」というように「上下の極性」が出ていますし、「自分のステージが上がらない」「東大出の人はずいぶん尊師に可愛がられるよな」というのも教団内部での上下の分離を反映していますね。これは、1. グルへの絶対帰依? の記事で取り上げたのと同じ兆候が露呈しています。

 

上下の分離意識というのはエゴの大好物なので、まず注意してかかるべきでしょう。

 

 

教団内部では、「悪いこと」が起きたならば、それは自分の汚れの反映であり、(前世からの)カルマが落ちた、ということだ、だから「悪いこと」をむしろ歓迎しよう、という見方が普及しており、おそらくこれのために「悪いこと」に対する価値観が逆転していて、「タフ」で動じない、という状態が実現されていたのでしょう。

 

これについてどう思うか。

 

一般人の視点からみたら区別がぜんぜんわからんと言われそうですが、私はそういう風には見てませんね。

 

こちらでもよく書いているように、『何か「悪いこと」が起きたときに、それが「ギフト」ではないかと考えてみる』。これも価値観を逆転させようとしているという点ではオウム真理教と同じですが、その背後にある理屈、理解が違うように思います。

 

「悪いことが起きた」という現象をもって、その時点で「カルマが落ちた」、つまり何かがひとつ解決した、という風には見ませんね。

 

そうではなくて、なにか「悪いことが起きた」ならば、そしてそれに対してネガティブに強く反応している自分がいたならば、自分が何か余計なことに「執着している」ということをその現象が教えてくれている、という風に見ます。サインです。

 

サインを貰っても、そこで何もしなければ何も解決しない。やらなければいけないことは、実際に執着を手放すことです。観念の解放です。その作業を終えたならば、そこで何かがひとつ解決した、というように考えますが、それは行動を必要とします。

 

 

叱られたり怒られたりしたときに、それをもって「自分の汚れが浄化された」とは見ませんね。叱られたり怒られたりしたときには、叱られたり怒られたりしたんだな、と見ます(笑)。そこはいたって普通です。

 

叱られたり怒られたりしているときに、自分の心がどういう風に反応して、口がどういうことを口走るか、ということに注意します。

 

自分で気がつくのは難しいことも多いですが、そのときに例えばすごく反発したり、すごく落ち込んだり、そういう反応があったならば、その近辺には、何がしかの自分の執着がある。それを見つけ出さないと、っていうことです。

 

 

つまり、私の見解では、「悪いことが起こった」=「カルマが落ちた、汚れが落ちた」と見做すというのは、サインを受け取ってそれに対処する、という本来やるべき作業を怠っていることになるので、解放は進まない、と思います。

 

解放が進まない、ということは、「カルマの解消が進まない」と言ってもよいので、はっきりいうと、真逆、って言うことになるかと思います。

 

 

カルマ(もしくは、とかいて「ごう」と読みます)をどう定義するかという問題もありますね。ウィキペディアで調べるとこう書いてあります。

 

仏教およびインドの多くの宗教の説では、またはの業を作ると、因果の道理によってそれ相応のまたはの報い(果報)が生じるとされる[2][4]。業は果報と対になる語だが、業の果報そのものを業という場合もある[4]。仏教はすべての結果について「偶然による事物の発生」「(原因なく)事物が突然、生じること」「神による創造」などを否定し、その原因を説くのである[5][6]

業の思想はインド発祥の宗教(とりわけヒンドゥー教仏教ジャイナ教シーク教)と道教において、輪廻と強く結びつく概念である[7] これらの多くの説では、善意と善行は良いカルマと幸福な転生をもたらし、悪意と悪行は悪いカルマと悪い再生をもたらすとされる[8](善因善果、悪因悪果)[9]

 

最後の部分、「善意と善行は良いカルマと幸福な転生をもたらし、悪意と悪行は悪いカルマと悪い再生をもたらすとされる[8](善因善果、悪因悪果)」というのが、オウム真理教の信者のいう「カルマ」と深く関係する箇所でしょう。

 

「過去に行った悪い行いの報いを、今受ければ、それでカルマの解放になる」=「悪いことが起きたらカルマが落ちたことを意味する」という風に解釈されているのでしょう。

 

ところがこの解釈は、がっつりとまず、「善と悪」というのがございまして、という前提から話が始まっています。そこからして二元性に分離してしまっています。そこでまず、ちょっと危険な香りを察知すべきです。こういう話はエゴが大好きなやつではないかと。

 

 

カルマ=善悪の報い、と見ていくよりも、カルマ=自分が握りしめているロクデモナイ観念の塊、と見たほうが有益じゃないでしょうか。引き寄せの法則が働くため、このロクデモナイ観念を手放さない限りは、ロクデモナイ観念がロクデモナイ現象を引き寄せて来ます。そのことが「あなたはロクデモナイことを握りしめてますけど」という「サイン」になっている。

 

サインを無視すると、ずうっとロクデモナイ現象が引き寄せられ続けるので、繰り返し、繰り返し、うんざりするようなことが起こる。それが一生の範囲を超えても起こるとすれば、輪廻とも関係してきますね。

 

 

 

 

まとめますと、

 

  1. グルへの絶対帰依? → 上下の分離はエゴの大好物なので要注意
  2. 出家? → せっかくの気付きのチャンスを自ら減らしてどうするの
  3. 悪いことが起きた=カルマが落ちた? → 落ちてません

 

 

今日はこんなところで。

 

 

 

 

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