007 東陲ネンゴロ庵 和三盆2(讃岐の和三盆と奄美大島) | 東陲ネンゴロ庵

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007 東陲ネンゴロ庵 和三盆2(讃岐の和三盆と奄美大島)


・ ネンゴロ庵、庵主鶴田後聞です。前回途中までとなりました和三盆 と奄美大島の関係について述べます。


1 はじめに

・前回は、阿波(徳島県)の和三盆のルーツが日向国(宮崎県)にあったということを述べました。簡単に言うと、阿波の人が日向国に行き、サトウキビを手に入れ、その栽培法や精製法を会得し、さらに研究を重ね、和三盆の製法を開発したということです。

・さて今回の話も簡単に述べてみます。讃岐(香川県)の和三盆のル ーツは奄美大島(鹿児島県)にありました。讃岐では砂糖作りの研究 が行われていました。しかし、なかなかうまくいきませんでした。あるとき、奄美大島の人(当盛喜)が、現在の東かがわ市付近で病に倒れました。(当は、一字名称で、「あたり」と読むと思います。間違っていたらすみません。)それを救ったのが、サトウキビの研究をしていたお医者さん(向山周慶)だったのです。回復後、事情を知った当盛喜は、その恩に報いるため、国禁を犯して、サトウキビを持ち出し、讃岐へ引き返します。そして、周慶と当は協力して研究を進め、ついに和三盆開発に成功したのでした。

・ 以上がこのお話の顛末です。これだけでは、不満足の方も多いと思 われますので、向山周慶の顕彰碑の碑文を紹介したいと思います。  ( )書きで説明を試みます。蛇足とならなければよいのですが。


2 向山周慶翁顕彰碑々文より

・ 讃岐の糖業は延享年間(1744~1748)から胎動し始めた。 当時高松藩の財政は窮迫し農民もまた貧窮していたので、五代藩主松平頼恭は、藩財政の再建と農民の救済を図ろうと思い、殖産振興の一環として製糖技術の開発を医師池田玄丈に命じたが、成功せず病没した。玄丈は弟子の向山周慶(さきやましゅうけい1746~1819)に製糖技術の完成を私的に委託した。その後周慶が京に遊学した時懇意となった薩摩の医生某(なにがし、名前は分からない、理由があって伏せているかもしれない。もしこうしたことが公になれば、処罰されるかもしれない。)から天明八年(1788)に製糖技術の口伝を受け、砂糖精製の研究に日夜没頭した。


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・その頃、奄美大島の当盛喜という人が四国巡礼途中湊川畔(香川県東かがわ市)に差し掛かった時、病に倒れ難渋していたのを兄の向山政久に助けられ、医師の周慶が懇切鄭重な医療を行い、九死に一生を得て喜び帰藩した。周慶は常に慈悲深く人徳に優れ、村民が厚く敬意を表していた。

(湊川というと、楠木正成を思い浮かべられる方も多いと思うが、ここでは、東かがわ市を南北に貫流し、瀬戸内海に注ぐ河川名である。)


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当盛喜は周慶の恩に報いんと、後日薩摩藩の国禁を破って、甘蔗(かんしょ、サトウキビのこと)の種茎を弁当行李の底に隠して再度来藩して、周慶に手渡して近屋にに永住した。それより翁(周慶)を助けて刻苦勉励し、寛政二年粗糖の製造に成功して、ここに初めて讃岐の実業製糖が民間の力で発祥した。かくして寛政十年(1798)白砂糖が大坂に出荷され、さらに研鑽に研鑽を重ねて享和三年(1803)ついに氷糖紫糖霜糖の絶品を製出し、独創的な技法を開発した。

・この技術の開発により、甘蔗の栽培及び砂糖の生産は飛躍的に増大して、一大産地となり、大坂市場において輸入糖を凌駕する讃岐三盆白糖として天下を風靡し、南海の宝庫と歌われ、名実ともに讃岐三白の一つに数えられるに至った。国府(高松藩庁)は、翁を本善医とし薬坊主に任じ、後に十五人扶持とした。当盛喜には、薩摩良助の苗字を許可し一人扶持を与えた。

讃岐三白とは、砂糖・棉・塩の三つの白い産品を指す言葉のようです。三つとも白いのでそう呼び習わしたのでしょう。長州藩、防長二州(長門と周防)も四白ということを聞いたことがあります。米・紙・塩・蝋(ろう)のやはり白い産品です。ろうを除いて三白ということもあるそうです。村田清風という名前を思い起こします。)

・翁の実名は政章周慶と称し、大内郡湊村の庄屋向山政永の三男で、延享三年生まれ、文政二年(1819)九月二十六日病没七十四才であった。

・良助は、当盛喜関良助といい奄美大島の東間切清水村の当済朝良の三男で、文政二年十一月二十一日他界した。


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・翁が開発した糖業によって蓄積された商業資本が、明治大正の企業勃興の財貨となり、さらに今日の東讃地方に於ける工業化の基礎となった。時あたかも周慶砂糖製法開発二百年に当たり、翁の功績を敬仰して顕彰碑を建立し、祠を再建してその偉業を顕彰するものである。

・平成二年、顕彰会によって石碑が建立されている。


3 まとめ

・ 阿波、讃岐の和三盆については以上です。資料館や研究書などもあ りますから、詳しく知りたい方は、そちらをご覧ください。私は、奄美の島々で行われたサトウキビ栽培にかかるひどい収奪の事実を調べようとして、和三盆にたどり着きました。そして、人と人との結びつきや砂糖精製法開発にかけた人々の情熱と努力を知ることができました。これからも 様々な出来事を紹介すると共にそこから着想し得た考えを述べていきたいと思います。

・奄美の島々については、まだまだたくさんの記したいことがありますが、また別の機会に譲るとして、次回は「君が代は日の丸で歌われる」と題してお送りします。今回はこれで失礼します。