006 東陲ネンゴロ庵 南海紀考3(和三盆) | 東陲ネンゴロ庵

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006 東陲ネンゴロ庵 南海紀考3(和三盆)


ネンゴロ庵、庵主後聞です。今回は、和三盆のルーツとしての大島郡についてお伝えします。


1 和三盆について

・  和三盆(わさんぼん)をご存知でしょうか。上品な甘さの砂糖です。和菓子作りには欠かせない甘味料として知られています。小さな箱に きれいに並べられた干菓子などを目にされたこともあるかと思いま  す。季節に合わせた題材できれいに作られた一口大の菓子を口に含み、 賞味された方も多いのではないでしょうか。私も是非またお土産に買ってきてほしいと頼まれたことが一度や二度ではありません。癖になるおいしさです。私も大好物です。

・  どうしてこういう名前がついたのか、その由来が気になるところで す。和三盆も他の砂糖と同じように原 料はサトウキビです。搾り出さ れた液体から黒砂糖ができます。ちょうど今の時期が、南西諸島では その作業の最盛期です。和三盆は、黒砂糖をいくつかの工程を経て、白い砂糖へと変化させるのです。少し黄色みがかっているとも言えるかしれません。最後の工程で、盆の上に乗せ手作業で「研ぐ」という作業をします。こうしてまろやかな味の、口に入れるとほろりと溶ける砂糖ができあがるのです。盆にのせて三度研ぐということから名前が付けられたという ことです。

・ 現在和三盆の産地は、四国の徳島県と香川県が知られています。  徳島県つまり阿波の和三盆は、日向国(宮崎県)から、香川県つまり讃岐の和三盆は、鹿児島県奄美大島からもたらされたサトウキビがルーツになっているとされています。どのような経緯があったのか以下記します。なお、こうした状況の時、伝わって成功したところには話は残っていますが、その起源となったところでは何も分からないということが常のようです。ですから、話の内容が徳島や香川でのことになります。


2 阿波の和三盆と日向国 

・ 阿波国の和三盆作りは、安永5年(1776)に丸山徳弥(まるやまとくや)が日向国(現宮崎県)より持ち帰ったサトウキビを栽培し、再渡航の際に、精糖法を習得したことで、和三盆に繋がったとされています。と、説明板にあります。


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・ 丸山徳弥は、阿波国の板野郡に生まれたそうです。現在の徳島市か ら見ると、西の方、吉野川中流域にあたるでしょうか。徳弥は、修験者だったと伝わっています。ある時、四国を巡るお遍路さんから、サトウキビの情報を聞き、暮らしを豊かにするために、栽培 できないかと考えたようです。そこで、サトウキビを栽培しているという日向国に渡ることにしました。当時は街道も整備され、人々の往来も盛んになってきた頃です。どういうルートを通って日向に入ったかは分かりません。まず大坂に出て瀬戸内海を通る船を利用したのかもしれませ ん。商取引のため、日 向国と大坂を行き来する人たちは、当然いたわけですから。

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さて、徳弥は延岡の鼻ヶ島から密かにサトウキビを持ち帰ったとされています。しかし、よくよく調べてみると、延岡には鼻ヶ島というところはありません。徳弥は、何か思い違いをしていたのでしょうか。知らない土地だから無理もないといってしまえばそれまでです。現在の私たちは、住所として考えがちですが、そうでない場合があることを思い出してください。ここは、大事なところです。自分の所属する組織や会社を名前の前につけるということをするはずです。〇〇会社の△△ですと、日常的に使うと思います。ここで言うところの延岡の鼻ヶ島は、延岡藩内藤家の領地である鼻ヶ島と言っているのです。こうした延岡藩の飛び地は、大分県の大分市や湯布院などにもあったそうです。現在、花ヶ島(鼻ヶ島)は、宮崎県(日向国)の県庁所在地宮崎市北部にあります。そして、宮崎市の中央を流れる大淀川以北は、江戸時代延岡藩の領地だったのです。徳弥が訪れた当時、当然市町村制はなく、宮崎市そのものが存在しません。ですから、延岡藩領である鼻ヶ島(花ヶ島)と言っていたのです。

・ もう少し、延岡の鼻ヶ島的な言い方について考察してみたいと思います。清水の次郞長と 言えば、清水湊に住んでいる次郞長という人のことです。これは周知の事と思います。旅姿三人男という歌もあります。十代、二十代の方には馴染みがあまり ないかもしれません。(ついでですが、熊本県菊陽町の中央公民館には歌碑があります。作詞者 の出身地ということでした。)つまり、清水次郞長(しみずのじろちょう)は、地名プラス名前ということになります。ヤンキースのイチローですといえば、アメリカ大リーグ野球のヤンキースという球団に所属している鈴木一郎ということになるわけです。所属プラス名前となります。そして、当然のことながら、移籍すれば言い方が変わるのです。

・ この〇〇の△△という呼び名の場合、気をつけなければいけない事 があります。清水は地名で、ヤンキースは所属名です。この意味を取り違えてしまうと、全然違うことになるわけです。清水エスパルスの次郞長になったり、ヤンキース町に住んでいる一郎と理解されてしまったりするです。まだ先のことになりますが、このブログで「神武東征」について論じることにしています。その中で、重要な人物がいます。神武天皇を助ける「熊野の高倉下(くまののたかくらじ)」です。この熊野が何を指し示すのかということについて、世間一般で考えられていることと違う結論を私は持っています。その伏線ということで、覚えておいていただければと思います。

・  話を元に戻します。日向国からサトウキビを持ち帰ることに成功し た徳弥は、栽培を始めます。しかし、精製する方法が分かりません。 そこで、再度日向の地を訪れます。そこにどのようなドラマが展開さ れたのか想像するしかありませんが、技術を習得して阿波に帰り、さらに研究を重ね和三盆へとたどり着くのです。


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・  この写真は、徳弥の出身地にある丸山古墳です。直径が40mの円 形で、周りを15mの濠が巡っていま す。二段に作られていて、筒型 や上部が広がった朝顔型の埴輪が見つかっているそうです。一部削ら れて墓地になっています。この古墳の名前を取って丸山 と名乗ったそうです。


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サトウキビを搾るための搾汁機


・ 大島郡についてまでたどり着きませんでした。次回お送りします。 今回はこれで失礼します。