005 東陲ネンゴロ庵 南海紀考2(喜界島) | 東陲ネンゴロ庵

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005 東陲ネンゴロ庵 南海紀考2(喜界島)

 ネンゴロ庵 庵主後聞(こうぶん)です。引き続き大島郡についてお伝えします。今回は、喜界島(きかいじま)についての情報です。

1 喜界島について
・ 喜界島は鹿児島本土から南へ約380km、奄美大島から東へ25kmの北緯28度、東経130度線上(先年の日蝕の際、話題になった。)の太平洋上に浮かぶ島である。現在でも年約2mmずつ隆起し、学術的にも 非常に貴重な島といわれている。つまり、その隆起のスピードが現在も過去も同じと考えるなら、島の最高所が200mくらいだから、10万年前にはまだ海の中ということになる。1島で1町をなし、南東に長く14k m、北東部から南西部にかけて次第に幅を広げており、周囲50km、面 積56.9k㎡である。
・ 概して平坦な隆起珊瑚礁の島で、海岸段丘で形成されている。島内での最高
05-1 所は島の中央東側にある百之台で標高は214mある。百之台の名前は、地区の長であった按司(アジヒャー)に由来するという
。この百之台を中心に北西側へは緩やかに傾斜し、広い段丘地形が見られる。これに対して南東部は急な崖となり、海岸線に沿ってわずかな平坦地が見られるだけである。こうした地形のために、河川の発達は乏しく、用水のほとんどは 地下水や湧水に依存している。そのため、大規模な工事が行われ、島を南北に走る地下の用水路やダムが整備されている。海岸線は単調で裾磯(きょしょう 大洋島または大陸の周縁に発達する珊瑚礁)からなっているため、港として利用できる場所は限られている。代表的な港としては湾(わん島の南西部 空港もある島の中心部)、早町(そうまち 北東部)、志戸桶(しとおけ北東部平家上陸の伝承地 沖名泊)、小野 津(おのつ 北西部)があり、各集落では港を背に必ず砂丘が形成されている。砂丘上では、縄文時代から近世までの遺物が採取でき、古くから人々の生活が営まれていたことをうかがい知ることができる。
・ 気候は亜熱帯性気候で年平均気温22.2℃と、年間を通じて温暖である。 一月でも菜の花が咲き誇っている。年間の降水量は3,000mmに達し、全島が
05-2 ガジュマルなどの常緑樹に覆われている。奄美の他の島と違い猛毒を もつハブがいないことも付け加えておく。蝶の島としても知られている。 保護蝶であるオオゴマダラや海を渡る謎の蝶アサギマダラなど多くの蝶が見られるという。私が訪れた十月にも蝶を随分と見かけた。また、温暖な気候と磯に恵まれているため、スキューバダイビングや釣りに訪れる人も多い。本島の基盤をなしているのは、新生代新第三紀 鮮新世の島尻層で、琉球石灰岩、 志戸桶層、隆起珊瑚石灰岩、砂丘が上層を形成しており、マージと呼ばれる暗赤褐色土壌が島の大部分を覆っている。島を取り巻くこの珊瑚を使った石垣が随所に見られる。特に、東海岸の阿伝地区は顕著である。島尻層は、不透水であるため、地下水は 東から西へ流れる。それで、地下に堰を作って、ダムを西海岸の町役場近くに造っている。

2 奄美群島の歴史的概観
・ 喜界島の属する鹿児島県大島郡は、奄美大島とそれに付属する加計呂間 島、請島、与路島、及び徳之島、沖永良部島、与論島からなる。
・ これらの島々は、過去に4回の「世変わり」という歴史的体験を強いら れたという。
 それは、琉球王朝統治下の那覇世、薩摩の属領に編入された薩摩世、敗戦 に伴う米軍軍政下のアメリカ世、祖国復帰を果たして大和世というように である。
・ 琉球王朝の統治が始まったのは、13世紀後半。首里の王府から役人が派 遣されたことから始まったとされるのが通説である。この後、約4世紀に わたり支配体制が続く。実際はまだ短いという説もある。
・ 薩摩による琉球への武力侵攻が行われたのが、慶長14年(1609)である。今から407年前である。江戸幕府との緊密な連絡の元に実施された この侵略により、奄美群島は薩摩の属領に組み込まれ、黒糖収奪の場と化してしまう。島主に代わって、薩摩の派遣役人(代官)に、政治・経済・治 安など統治に関するすべての権限が集中された。また、島の有力者を島役 人に任命し、巧妙な支配体制をとった。特に幕末には、サトウキビ以外の作物の生産を禁じ、砂糖の生産高に応じて日用品や食料を配給制にすると いうことまで行っている。
・ 数年前NHK大河ドラマで放送された「篤姫」の将軍家との婚儀の際、祝儀を差し上げるように代官から命じられ、島役人たちが鹿児島まで出向 いたという(上国)記録も残っている。

・ 江戸時代、喜界島は、間切(まぎり)と呼ばれる行政区画に分けられて いた。
湾間切・・・湾、赤連、中里、羽里、山田、城久(ぐすく)、川嶺
荒木間切・・・荒木、手久津久、上嘉鉄、浦原、花良治(けらじ)
西目間切・・・西目、大朝戸、坂嶺、中熊、島中、池治
伊佐間切・・・伊佐、中間、滝川、伊実久(いさねく)
志戸桶間切・・・志戸桶、佐手久、小野津
東間切・・・早町(そうまち)、白水(しらみず)、長嶺、嘉鈍、阿伝(あでん)
伊佐間切は、元禄6年(1695)以降設置された。
・ 昭和28年、米軍統治から本土復帰が実現された。県立図書館奄美分館 近くにある橋には、その作られた時期が、昭和27年民政府と刻まれてい る。
005-4 ・ さて、琉球統治の以前は、どう なっていたのであろうか。南蛮人 が南九州や筑前筑後に侵入したの で、太宰府が命じて、南蛮人の追 討をさせたということ。源頼朝が、 義経一派や平家の残党の追討を命 じたということなどが挙げられる。
・ 太宰府跡から出土した木簡に「奄美嶋」(奄には木偏)「伊藍嶋」(沖永 良部)とあり、朝貢品として「赤木」「夜光貝」が献上されていたのでは ないかとする説もある。
・ 日本書紀巻二十九天武天皇十一年(682)七月に、
 「丙辰多禰人夜久人阿麻禰人 賜禄各有差」(夜には王編)とある。
 また続日本紀巻一文武天皇三年(699)七月に、
 「秋七月辛未多禰夜久菴美度感等人従朝宰而来貢方物・・・」とある。
 屋久島や種子島については、いくらか記事もあるが、琉球王朝支配以前の 奄美地方については、よく分からないというところである。

3 喜界島の遺跡について
・ 喜界島における考古学的研究は、戦前は昭和6年の荒木貝塚(島の南西 端)の発見に始まり、湾貝塚(湾天神社境内)、手久津久貝塚の報告があ る。
・ 戦後においては、昭和30年代に九学会連奄美大島共同調査委員会考古 学班による分布調査が行われ荒木農道遺跡、荒木小学校遺跡、湾天神貝塚、 伊実久厳島神社貝塚、七城等が紹介されている。
・ 中世においては源氏や平氏にまつわる伝承や地名が数多く残っているこ とも1つの特徴である。志(し)戸(と)桶(おけ)の「七城」や「平家森」は、平家の落人 の残したものであると伝えられている。数年して、平家は奄美大島に渡り、一族で分割統治したことになっている。その時のことを伝える、加計呂麻 島の大屯神社(おおちょんじんじゃ)で行われる「諸鈍シバヤ」(しょどんしばや)は、国の重要無形文化財に指定されている。是非一度見学したいものである。平家が上陸したとされる北東部の沖名泊の周辺、トンビ崎及び志戸桶付近に、太平洋戦争末期、沖縄占領後に上陸作戦を米軍が計画していたということも興味深い。また、小野津の「雁股の泉」には、源為朝にまつわる伝承もある。それから、平家物語でよく知られた、僧俊寛の言い伝えもある。先年の故中村勘三郎の熱演が記憶に新しい。
005-5 ・ 俊寛の存在を暗示するような「坊主の前」という地名がある。昭和50 年にこの地を発掘したところ、人骨や木棺、高貴な僧の用いる仏具等が出土した。木棺は、木曽地方に産する樹木を材料としていることがわかった。人骨の鑑定結果などから 勘案して、地元では俊寛僧都が喜界島に居られたということに自信を深めたということである。しかし、決定的な証拠とは言えないであろう。現在その地には、出土し た人骨を元に作った座像が安置されている。
・ 喜界島で特筆すべき遺跡は、城久(ぐすく)遺跡群である。
・ これまでの発掘調査では、古代~中世の遺構・遺物が多数確認され、南西諸島では類を見ない大規模な集落遺跡であることがわかってきていると 同時に、出土した遺物群は非在地的な様相が強いという特徴がある。つまり、他所から来た人たちの住居跡だということである。もっとも古い遺物 である、8世紀代の須恵器が出土した山田半田遺跡の概要を見てみよう。
・ 山田半田遺跡
  平成14・15年度に確認調査、平成16・17・19年度に本調査を実施し、平成20年度も一部調査を実施した。調査面積は、約23,000㎡である。 掘立柱建物跡は、約110棟を復元し、土坑墓8基、土坑20基、焼土を伴う土坑20基、溝状遺構2条、柱穴5,000 基等の他、土師器・須恵器・陶 器・白磁・青磁も出土している。建物には、奄美特有の1間×1間、1間 ×2間の掘立柱建物跡も多く見られる。また、柱穴直径50cmを超える2 間×2間の総柱の建物跡や2間×3間の掘立柱建物跡の四方に計34本の 柱穴を配置する50坪の大型の建物がある。
・ この他に、山田中西遺跡、半田口遺跡、小ハネ遺跡、前畑遺跡、大ウフ遺
005-6 跡、半田遺跡、赤連(あがれん)遺跡があり、城久遺跡群というのはその総称である。
・ この遺跡群の立地について、山田中西遺跡の説明から見てみよう。
山田中西遺跡は、島内で最も標高の高い城久集落を取り巻く城久遺跡群の1つである。遺跡群は、喜界島の中央部の標高90m~160mの海岸段丘に位置している。島内の段丘は、巨視的に見て4段有り、遺跡群は2番目に標高の高い中位段丘の縁辺部に 展開しており、天気のよい日には奄美大島が眺望できる。山田中西遺跡はその中で最も高所に位置し、遺跡の標高は160m程である。遺跡周辺に河川はないが、湧水点がいくつか点在する。なお、現在最高所には、自衛隊の通信基地が存在している。
・ 湧水点については、中位の標高にある集落である滝川や大朝戸に豊富な 出量が見られる。先の大戦中もこの湧水点に、守備隊が駐屯している。何 時の時代でも、水のあるところに人々は生活するということである。

5 まとめ
005-7 ・ 現在の考古学者の城久遺跡群 に対する見解は、太宰府の出先 機関が存在したのではないかというものである。奄美では例を見ない堀立柱建物群の集中、非在地性の遺物、遺跡の立地からそう考えるのは、従来の学説からすると致し方ないものではあろう。大和中心の歴史観からすれば他に思い当たらないのも無理はない。しかし、伝説の指し示す方向は、敗れたものたちが、この地に移り住み、新天地を築いたということである。それは、源氏や平氏ということにはなっているが、主語を変えるという手法は幾多も見られる。南九州に伝わる天智天皇伝説のように。真実は闇の中である。これからも調査を続けたい。

今日はこれで失礼します。