「諸の三乗を求むる人 若し疑悔(ぎけ)有らば」
三乗というのは、声聞・縁覚・菩薩です。仏を求める人があって、疑問があるならば、
「仏当に為に除断(じょだん)して 尽くして余(あまり)有(あ)ること無(なか)らしめたもうべし」
この三乗を求める人達に対して、仏は法を説きだしたのだから、もし、邪魔する者があれば、その者を仏が壊します。仏を目指している人を壊すのではありません。仏を目指して一生懸命、仏道修行をしている人に敵対する人を排除するのです。
Y子のように邪魔する者があれば、「仏が排除してくれる」と言うのです。「お前は邪魔だ。我等は仏道修行をやっているのだから、魔よ去れ! ここは、魔が出てくる所ではない!」と仏が追い払ってくれて、行者を守るのです。
『妙法蓮華経序品第一』は、ここで終わりです。いよいよ、これから法華経の神髄に入っていきます。神髄とは、南無妙法蓮華経という宇宙の実相の義です。それを詳しく解説していきますから、みなさん、ついてきなさい」ということです。衆生は「一法とは、妙法蓮華経です」と言われても全くわかりません。衆生は「妙法蓮華経とは何ですか。呪文ですか?」というレベルです。そうではありません。
南無妙法蓮華経をわかっていくことを修行というのです。衆生は何もわかりませんから、紙に「南無妙法蓮華経」と印刷して、「これを信じるのだ」というものではありません。
紙切れを信じて、何に成るのでしょうか? 大石寺や創価学会の連中は、そのように言うのです。それはウソなのです。「実相は見えないから、日蓮大聖人様は紙に実相を現してくれて、それを我々にくださったのだ」と言うのです。ウソをつくのではありません!
曼荼羅とは、そのようなものではありません。実相は目に見えません。目に見えるものならば、どうして紙に書く必要があるのでしょうか? 目に見えないものをわかろうとして、仏道修行をしていくところに人間の前進があるのです。わかりますか?
目に見えないものを修行することが、一番大変です。それが、「どのくらい功徳があるのか?」ということは目に見えません。では、「何が違ってくるのか?」というと、全て違ってくるのです。
目に見えないものを修行すると、「まだ、結果が出ないな」と思います。それを繰り返していくうちに、だんだんステージが上がってくるのです。本人はまだわかりません。目に見えないのですから、わかりません。
「紙切れを信じろ」というならば簡単ですが、そうではありません。「目に見えない妙法を信じなさい」と言うのです。妙法がわかることが、信・行・学です。紙切れの本尊を拝むのであれば、仏道修行などいらないのです。
信・行・学を通して、目にみえない妙法の道を進んでいくのです。すると、どのような功徳が出てくるのかというと、目に見えて違ってくるのです。法華経の信心が進んだ人を見ると、相手は1回見ただけで覚えているのです。相手の記憶の中に入ってしまうのです。
正理会会長の「秋田晴代」という一人の人間が歩きまわるというのではなくて、もう仏界が出てくるのです。だから、相手は強烈な印象を感じるのです。「こんな人がこの世にいたのか?」という感じです。すると仏界がもう出ているのです。
仏道修行をしていない人は何も変わっていません。仏道修行をしている人は、どんどん変わっているのです。一目見ただけで秋田君のことはみんな覚えているのです。それだけステージが変わってしまったのです。一人の凡夫から、仏のステージに変わってしまったのです。
それを仏は「援助しますよ。頑張りなさい。三乗(声聞・縁覚・菩薩)の道を極めて、その上の仏界に進んでいきなさい」と言われているのです。それを仏は見守ってくれているのです。
『妙法蓮華経序品第一』
妙光法師は 今則ち我が身是れなり
我燈明仏を見たてまつりしに 本(もと)の光瑞(こうずい)此(かく)の如し
是れを以て知(し)んぬ今仏(こんぶつ)も 法華経を説かんと欲(ほっ)するならん
今の相本(そうもと)の瑞の如し 是れ諸仏の方便なり
今仏の光明を放ちたもうも 実相の義を助発(じょほつ)せんとなり
諸人(しょにん)今当に知るべし 合掌して一心に待ちたてまつれ
仏当(まさ)に法雨を雨らして 道を求むる者に充足(じゅうそく)したもうべし
諸の三乗を求むる人 若し疑悔(ぎけ)有らば
仏当に為に除断(じょだん)して 尽くして余(あまり)有(あ)ること無(なか)らしめたもうべし
*
眼に見えるチャートを示して「ここで売る」「ここで買う」
とはわけが違う。
修業によって(声聞・縁覚・菩薩から)如来になる。
これを求めているのか、信じているのか。
眼に見えないものが対象であるなら、
信じるか信じないかしかない。
眼に見えない妙法をどうやって説明するか。
鎌倉六祖以降、日本に彼らを超える宗教家って出てきた?
出口王仁三郎、谷口雅春、高橋信次
私が影響を受けた隈本確、大川隆法
800年経たないとその価値がわからない。