無量寿経 61  | たこなぐりの宗教ブログ

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この世での生活状況

釈迦滅後、末法の世になる。
その前に無量寿仏とその国土、そしてそこにおられる菩薩や声聞の方々を拝ませてあげよう。
ここは飛ばしても問題なさそう。

 釈尊が仰せになる。
 「私がそなたたち天人や人々を哀れむのは、親が子を思うよりもなお一層深い。だから私は今この世界で仏となって、五悪を打ち負かし、五痛を取り除き、五焼をすべてなくして、善をもって悪を攻め滅ぼし、迷いの世界の苦しみを抜き去り、五徳を得させて、安らかなさとりの世界に至らせるのである。
しかし私がこの世を去った後には、仏の教えがしだいに衰えて、人々は偽りが多くなり、ふたたびいろいろな悪を犯して、五痛と五焼の報いをもと通り受けるようになる。それは時を経るにしたがってますます激しくなるであろう。そのようすを一々詳しく説くことはできないが、今はただ、そなたたちのために簡単に述べたのである 」
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 釈尊が弥勒菩薩に仰せになる。
「 そなたたちはそれぞれにこのことをよく考え、互いに教えあい戒めあって、仏の教えを正しく守り、決してこれに背くようなことがあってはならない 」

 そこで弥勒菩薩は合掌してうやうやしくお答えした。
「 世尊はたいへん懇切丁寧にお説きくださいました。世の人々のありさまについては、実に仰せの通りであります。そのために如来は、これらの人々を慈しみ哀れんで、すべてのものをお救いくださるのです。私たちもまた、世尊の丁重な教えをいただいて、決して背くことはありません 」


(41) 釈尊はさらに阿難に仰せになった。
「 阿難よ、そなたは立って衣をととのえ、合掌してうやうやしく無量寿仏を礼拝するがよい。すべての世界の仏がたは、いつもみなともに、その仏が何ものにもとらわれず、さまたげられないことをほめたたえておられるのだから 」

 そこで阿難は、仰せ通り座を立って衣をととのえ、姿勢を正して西方に向かい、うやうやしく合掌し、大地に身を伏して、はるかに無量寿仏を礼拝して申しあげた。

「 世尊、どうぞ無量寿仏とその国土、そしてそこにおられる菩薩や声聞の方々を、まのあたりに拝ませてください 」
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この言葉が終わるとすぐさま無量寿仏は大いなる光明を放ち、ひろくすべての仏がたの国々をお照らしになった。すると、鉄囲山や須弥山やその他大小の山々など、すべてのものが等しく金色に輝いた。
ちょうど、この世の終わりに際して大洪水が世界中に満ちあふれるとき、さまざまなものがみなその中に沈み去って、見わたす限り一面にただ水ばかりが見えるように、無量寿仏の光明のために声聞や菩薩などのすべての光明はみなおおい隠されてしまい、ただその仏の光だけが明るく輝いたのである。

 そのとき阿難は、無量寿仏のお姿が、ちょうど須弥山がすべての世界の上に高くそびえているように、実に気高く、そのお体から放たれる光明がすべての世界を残らず照らすようすをまのあたりに見たてまつった。ただ阿難だけでなく、出家のものも在家のものも、男であれ女であれ、ここに集まっていたものはみな同時に見たてsまつり、また無量寿仏の国からも同じようにこの世界を見たのである。

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KK映画「太陽の法」のラストシーンを参照