前回の記事の続き
最も大事な要素があるならば、2番目もある。3番目もある。3つで終了の予定である。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
経営者、あるいはリーダーに求められる最も大事な要素は、わたしは
常にご機嫌であること
なのではないかと思う。と書いた。
その次に大事な要素、2番目に大事な要素は
知行合一(ちこうごういつ)
であると考える。
知行合一とは王陽明が唱えた陽明学の命題の一つで、「知ることと行うことは同じ心の良知(人間に備わっている善悪是非の判断能力)から発する作用であり、分離不可能である」とする考え方である。
知識と行為は一体であり、真の知識は実践によって裏付けられていなければならない。知っていて行わないのは、未だ知らないことと同じである。知っている以上は、必ず行いにあらわれる。
「行動を伴わない知識は未完成である」とも言い表される。
近しい言葉に
言行一致(げんこういっち)
力愛不二(りきあいふに)
義理合一(ぎりごういつ)
などがある。各語の意味や出典は各自で調べられたい。
フランスの実存主義の哲学者メルロ=ポンティは『弁証法の冒険』の中で「知と実践はただ一つの実存における二つの極である」という趣旨を述べている。斯様に、人間というのは相反する、あるいは対極にある要素が常に内在している存在なのではないだろうか。
強さと弱さ、賢さと愚かさ、優しさと○○(優しさの対義語とは何なのだろうか?)の両極が内在されているのもまた人間である。
強さを活かすことは成果やノウハウにつながる。
弱さを克服することは人格を磨くことにつながる。
現代日本人は総じて思考を深めよう、あるいは徹底的に考え抜こうとしないため(≒思考停止したままで留まるように導かれてしまったため)、短絡的に弱さを克服しようとする。そんなに簡単に成し得るものではないのに。
それは「わたしなんてまだまだです〜」的な、間違った謙虚さや謙遜(すなわち傲慢であることと同義)なるものに端を発する。
因果は逆かもしれないが、ここでは本題から逸れるため詳述は割愛する。
弱みの克服は、何年もかけ、それこそ生きるか死ぬかの苦悩や葛藤を超克して初めて成し遂げうるものである。
それを簡単に、「自分の弱みを克服します」とか、あるいは間違っても他者に(部下に)「弱みを克服しろ」と押し付けてはいけない。
それは人間というものを理解していない。
弱みの克服を他者に押し付けるというのは、人の痛みがわからないか、あるいは自身が弱みを克服したつもりでいてそれがまったくの独りよがりであることに気づいていない、という証左である。
いずれにせよ経営者やリーダーに限らず、組織人材マネジメントに携わる者であるならば、弱みの克服を他者に押し付けるのではなく
いついかなるときも「この人の持ち味はどこにあるのだろうか?」という観点で人を観て、「この人の持ち味をどのように活かせば組織成果につながるだろうか?」という観点で人を活かさねばならない。
弱みの克服は、ひとえに本人の主体性に委ねられている。
本人が「どうしても強みを活かすのみでは次のステージに行けない」、「新たな世界観が拓かれない」という葛藤と真に向き合ったとき、それが初めてその弱みを克服する機会である。
それは「自分を知る 他者を知る 人間を知る 世界を知る」という哲学の根本命題と直結している。
「知る」ということはおそろしいことである。
世界には知らなくてもいいことは山ほどある。にもかかわらず、それを知らなければならないのだ。
「知る」ということは不可逆的である。
「知って」しまった以上、もう「知らない」という状態には戻れない。
「知行合一」が経営者やリーダーに求められる二番目に大事な要素なのであれば、経営者やリーダーは「知らなければ」ならないし、
「知った」以上はそれに伴う継続的な行動がなされなければならない。
そして「知行合一」な生き様そのものが、帰結的に経営者やリーダーの「器」を大きくすることにつながる。
その生き様を止めるときが訪れた際には、しなやかに次の経営者やリーダーに道を譲ればいいだけのことである。
世界はそうして循環しながら、調和を保ちながらこれまでも在ったし、これからも在る。
というわけで経営者、あるいはリーダーに求められる2番目に大事な要素は、わたしは
知行合一(ちこうごういつ)
であると考える。