私は駅まで自転車で通っている。
今年も、2月に今年度の申し込み用紙をもらい、締切日までに書類を提出し、返ってきた抽選結果で第○駐輪場か決まり、それを指定日に年間の費用を払いにいき手続きを済ませ、4/1から指定の駐輪場を利用している。

ところが・・ 私は通勤時間が若干遅めなのか、週5日のうち4日位の割合で、駐輪場はいっぱいになっている。
見ると去年の権利しかないものだったり... ステッカーがまったく貼ってないのも結構いいポジションに停めている。
私は上記のような段取りを経て、そして金も払ってその駐輪場の権利を得ている。それをしている人間が使えない理由など・・ 果たしてあるのだろうか?


・・と、これは別にそんな無法者を批判したいのではない。それが常習ならまだしも、各当人的には「ごくたまに」利用しているに過ぎないかもしれない。「ごくたまに・・」なんだったら... そんなに目くじら立てることはない。
各個人の小さな悪意など拾っていてはキリがない。


費用を払っているのだから、管理の手が入るのでは?・・そう、月に1度くらいは手が入っている。今年度も1回だけそんな張り紙がされている自転車を見かける日があった。
私は今のところ、ほっとんどが駐輪指定スペース以外に停めてしまっている。事前に準備をし、そして日程の拘束を受け費用を払っているのに・・ 私自身はルールを破っているんだ。
各々“たまに”の小さな悪意の人たちは、駐輪すべきところに自転車を停めている。
だったらいっそ、やめたらどうだ?

制度があるから小さな悪意に手を出さなくなる人がいる。そのおかげで・・ 小さな悪意に手を出す人は助かっている。
私のような者には、何一つメリットなどない。せいぜい・・ 月いちのための安心感だ。さらに、そのような管理費を自分で負担している。
常設の管理を置けば、もっと費用がかかるであろう... 地域の雇用対策ならまだしも、それ以上の費用負担はこちらも望んでいない。

この制度で一番オイシイ思いをするのは、“月いちの日”を事前にキャッチしながら手続きを踏まずに常時利用している人ということになる。一番バカをみるのは、私のような人間だ。

それが制度というものだ。

駐輪可能スペースと、その近くに自転車捨て場を用意する。スペースからはみ出している自転車がじゃまなら、誰でも捨て場に捨てていいようにしたらどうだろう。
そして費用負担も許認可もなしにして...。

そうすると、世の中に不満な人なんかが「腹いせ」にそれをするだろう。
後から来た人が、先に停めてある自転車をエリア外にどかし、自分のを停めるだろう。

・・・どうだ、このように、どんな制度にしても結局は人のモラルの問題だ。
であればせめて、キチンとやっている人がバカを見ないよう・・・ 制度を設けない方法が望ましい。

それ以上の費用負担をして、常駐管理者を置ける体制にしてまで、それをして欲しいと思うような、そのことに対して費用負担の用意がある人だけが借りられる制度にするほうが、ずっと望ましい。
皆がルールや秩序を守れるのだったら、ハナっからそんなややこしいことを考える必要すらない。
ここに『クロサギ』というマンガの9巻がある。
これ、中々面白いな~と関心してるんだが・・・
この中に、「募金詐欺」の話しが出ている。
この話しから、日頃の善悪に関する議論の勘違いをひとつ提示したい。


大学で法律の勉強をしている娘とその母が、電話で「募金の詐欺」について話している。
娘は法律の勉強をしているだけあって、「街頭の募金活動をしている人にも詐欺がいる。」と母に注意を促しているんだが・・ 母は「人を疑ってかかってはいけない。」と言う。
その様にして、母はインチキの募金をしてしまうようだ。

55もこの「人を疑ってかかってはいけない。」には大変に同意する。
偏見や決め付け・先入観は、55が当初から忌み嫌ってきた行為だ。

ただ・・ ここで大きく欠落している重要な視点がある。

募金活動を疑おうが、信じようが構わないのだが・・・
自分が募金をするかどうかは、まったく別の話しだ。

そうでなければ、この母は、出会った全ての募金に寄付をするということになってしまう。


これは、日頃から善-悪 判断に執着してしまう多くの勘違いな方々に共通する。

「人を疑ってかかってはいけない。」ということは、多くのコミュニケーションを確定にせず、保留部分を残しておくということだ。「人を全て信じなきゃいけない。」とは一言も言っていない┐( ̄ヘ ̄)┌

今朝の秀直さん記事は、『世襲批判』関連になっている。
(世襲制限)「コンクリートの天井」を破る資格を有するのは、自らの特権身分を放棄するもののみ

世襲批判は無意味だ。
さらに、秀直さんの自意識というか... キレイ事... それらが表す今どきのどーしょもない大人たちの発想と共通する部分にも、大変に残念に思う。

自分が苦労して積み上げてきたものを子供にリレーしたいと思う気持ちは、親という人間として当たり前のことだ。


記事のように、秀直さんはそれを“特権”と呼んでしまっている。
確かに、特権なら世襲は批判される。
国会議員になることが特権ならば、その国はもう終わりだ。
どうやら政治家は、ホントにヌルい仕事をしているようだ... 大きく勘違いをしていた。


まあいい、本筋に入ろう。

政治家になるには、そうせざるを得ない環境にいるか、そこに強い動機があることが必要だ。

政治家の定員が足りていない(前回の民主参院や小泉さんの衆院など)ときは、黙っていたって向こうが人手を必要としている。ところが、足りている時はどうあがいたって・・ ロクに枠が空かない。
そうなってくると、「選挙に勝てるかどうか」を希望者間で競わされることになる。バックに大きな組織を抱えているのか... どっかしらからいっぱい資金を持ってくるのか... ハナっから国民に人気があるのか...。

大きな組織だったり、資金だったりを持っている人間は、ハナっから国民の代表としてふさわしくなかったり、そうなるために努力してきた(政治家になることを目標としてきた)人だったり(つまり、そのための手段がまっとうでない可能性は高い)、とてもじゃないが、昭和時代から散々文句を言ってきたような・・ 大変にダークな政治家が増えることだろう。※もちろん、そのようなダークな方々を歓迎しているのなら、まったく問題はない。

タレントのような人気者でない場合、しがらみやコネクションなどを引きずってこそそこにたどり着けるわけであり、当の本人はそれら支援者やしがらみを無視して政治活動を行っていくことなどできない。

また、そうではなく、立派なことを言って入党したり、松下政経塾などで学んで入党する・・ このような一見能力によると思われるルートは存在する。
ところがそれは、わざわざ政治で問われるまでもなく、本来ならば各政党が勝手に行うべきことであり、つまりこれを望んでいるというのならば、そもそも現在の政党自身が問われる内容だ。
そして、政経塾でも自らアピールでもいいんだが・・ それはつまり、政治家になりたいと強く望んでいるということになる。きっと「自分が日本を変える!」と思うくらいの自信も必要だろう。
さあ、どうだ┐( ̄ヘ ̄)┌ とんだ勘違い野郎であろう。
それだけの能力と自信... それで初めて組織のいち議席。
それ以前に、ここは能力より動機の影響が優っているんだ。

政治を変えるには、政治家を変えるんでなく、国民を変えなければならない。これは先日の北朝鮮の話しでも同じことで、金正日を変えるんでなく、国民の支持を変えなければならないというのと同じことだ。

結局、クリーンだ能力だと言っていると、まっとうな道は族議員しか残らない。

能力などというものは、政治家になってから発揮されるものではなく、政治家になるまでに発揮されるもので、能力を重視するということは、人との真っ当な繋がりやルールを軽視し、それを効率的にそして合理的に目指していく時に発揮され、つまりそれは人としてどんどんダメになっていくということだ。

意欲と能力・・・ それが正しい!と主張するのであれば、それは既存政党自身が問われているということだ。
まさか無所属でも可能に・・ と言うんであれば、それは世襲云々の話しではない。
それは、費用も機会(演説会・放送・ネット・掲示等)も皆一律に、しかも公費から出す・・ という選挙制度にすることが先だろう。そもそもホントに能力や人間性のようなものが大事だと主張するのなら、このような選挙制度案などとっくに出ているハズだ。

どんだけユーシューな人を集めようとしてるのか知らない。とゆうか、皆自分のが能力があるとでも思っているようだが...  それ以前に、目的のために手段を選ばないような人間が頭がキレて政治家にもなってしまうようでは、もっと深刻だ。



タイトルと逸れてしまったので、そこを補足する。

大学を出ていきなり政治家になることはできない。
ということは、一旦何かしら社会活動をする。ホントに能力というものが重要だというのならば、その人はきっとその社会生活で成功を収めているだろう。
そして、そんな人は腐るほどいるだろう。その人らはその場所で大変に必要とされ、また意義を感じているだろう。その人たちがわざわざ政治家の道を選ぶには、よっぽど政治家になりたいというインセンティブがなければならない。・・・・この部分だけ取って見ても、能力よりもそれを目指したいという意思がそれを決めていると分かる。
また、そのような奇跡的なめぐり合わせ(有力者と知り合う等)が起きる可能性よりも、自らそんなコネクションにたどり着けるために活動していく人の方が、ずっとそのようなめぐり合わせにたどり着ける可能性が高い。それは、ハナっからそれを志望し、そのために活動している人間ということになる。

この2つを統合してもなお、能力というものが重視されていると考えるのならば、それはどっかしら何かしらの道で名を成した人間が、「その道をさらに進める上では政治と無関係ではいられない」ということで立つ・・ つまり、もう十分な年齢に達している人ということになる。

55で言う能力とは、そのようにどっかしら何かしらの道を極めた人を言う。
それがない上での“能力”など.... それは妄想だろう。
第一、「こいつめちゃくちゃ頭いいな!」と思ったところで、そいつが政治家になるべきかどうかは、微妙なところだ。そいつがもしとんでもない野望を秘めているとしたらどうだ?私たちはむしろそいつを落選させたいだろう。



●農林中金ほか銀行の赤字(農中はこのところわざわざ積極策を取っていた。)
●日立ほか大企業の公的資金活用
●総務省・法務省の横暴
●行政の過剰介入
●独立行政法人や旧公的法人の独走
●行政主導の産業再生・海外経済戦略


日本におけるこのところの挙動不審・・・ これらをトータルで考えるとき、明らかになることがある。


この国は間違いなく、社会資本主義国家を目指している。
これは寝言でも戯言でも妄想でもない。
これは、ただ単に事実を積み上げていった時に得られる答えだ。


もちろん.. 私は「○○主義だから」という批判は採用しない。
○○主義とは本来、現状or現実を観察した上での特徴を表す・・ まあキャラクターの命名のような作業であって、○○主義というもの自体をどうこう言えるようなシロモノではない。

ただ、このように全体主義計画統制国家でいくことが、国民から信任を受けていない内閣が勝手にゴリゴリ進めていっていい理由はないだろう。

麻生政権発足以来、あのように不信任内閣であったにも拘らず、常にタイムリーに「下らないが盛り上がる」ような話題が提供され、社会資本主義化に対する本質的な意見をいっさい無視したままに政権が運営されている。

ニッポン大好き陣営と労働者保護重視陣営がつぶしにかかる世論は自由主義陣営にあり、あたかもあい対立するかの与野党は、公機関強化という意味において対立どころかまったく合致する。

反対する対象がないものを皆で攻撃し、あたかも何か勢力が拮抗しているかのように活動しているが・・ そもそもその対象としているものは存在がないのであり、つまり公権力の完全な独走が実現されている。


かつて福田康夫さんは「私じゃないほうがいいんです!」と言って席を下りた。
今こそ、それがどういう意味なのかを知りたい。


15兆円とは、1000万人に150万円を配れる額だ。それだけ取って見ても、派遣労働者や失業者を保護したいんじゃないことが分かる。
15兆円とは、15万人に1億円を配れる額だ。それだけ取って見ても、ベンチャー育成や次世代産業育成をしたいわけでもないことが分かる。

・・いや、そうではなく、手続きや公平性の問題だ。というのであれば、それはそういうことばかりを気にせざるを得ないような人間が全てを決めているということだ。
昨日の夜から今朝にかけて・・ 何と55は1つのドラマを徹夜で見てしまった。

55政党

『パンドラ』というドラマ。
これは本来WOWOWでやっていたらしい。

かつて三菱商事がやってたCS(ディレクTV)は、結局スカパーに売っ払ってしてしまったように、長く続かなかった。WOWOWというのはBSでしかもソフトの他社連携が少ないイメージがある。なのにこのように今だにがんばってるということは、ソフト自体が優れている部分もあるのだろう。


このドラマは、徹夜して見続けてしまうだけのことはあるものになっている。
まずはドラマのストーリー自体ではなく、その背骨を支える『パンドラの箱』の側面を触れたい。

ドラマのスタート時点では、『パンドラの箱』の中に残された唯一のもの・・ それは“希望”か“絶望”といっている。最後に山本(記者役)は、それは“愛”だと思う。と結んでいる。

箱から飛び出したありとあらゆる禍が、社会に多くの問題を巻き起こしたと考えるならば、箱の中に残った唯一のものとは、社会に与えられなかったものということになる。
現に、このドラマは、過度に愛のない世界を演出し続けていた。その部分にこそ、55はリアルとのズレ・違和感を感じて見ていたんだが・・ 『パンドラの箱』という真のストーリーに添わなければならないことが事前に知らされていたから、そんな納得のいかなさは回避されていた。
55はギリシャ神話かなにかの『パンドラの箱』の解釈を知らない。だから、残ったものと出てったものの解釈の仕方が、着地できていない。
違う解釈...  箱の所有者である当人は、それを所有することができると考えるならば、多くの人にパンドラの箱が存在しなければならないことになってしまうが・・ まあとにかく、それであれば、希望でも愛でもOKだろう。

そしてこれを書く直前に、ウィキペディアで調べた範囲では、どうやら『パンドラの箱』の所有者はパンドラという女性のことなので、だからこそ小西真奈美があのように最後まで重要な役割を持たなければならなかったのだろう。(ストーリーを単純に見ていく時、小西はそれほど最後まで絡んでくる存在ではない。)

三上博史は、最初っから『喜劇役者が抱える悲壮感』のようなものがにじみ出ていた。この人が「僕は~」と語る声だけが、ドラマに出てくる他の声と区分けされていて・・ 何かこの世の存在とは思えないような気配を感じさせた。三上が感情的にしゃべる時には、“その声”ではなく、地声だった。(これは別に製作者が意識してやったわけでもないのだろう。多くの場面で、その背景でその声量では会話が成り立たないと思われる時に、声だけ別にとっているような・・ そんなものと同じってだけだから...。)


内閣(というか総理大臣だ)が動き、公安が事態を抑えているにもかかわらず、最後には警視庁は独断で判断を下した。ここのあたりに感じる55の恐怖感は、絵空事ではない。
法律や行政の細部を知らないからなんだろうが... このようなことになっても、ホントに警視庁は独断で動けるんだろうか?公安が政治に使われ、このような恐怖が展開されるのは、昭和初期の“赤狩り”のように、妄想でもなんでもない。現実に十分可能なことだ。(※公安は何も政治に使われたからヤバいというわけでもない。公安自体は官僚組織であり、そこが独断で動くことだって同じことだ。)

全体的に、善悪や弱さ・脆さばかりを強調しすぎていて・・ その部分は大変気に入らない。しかしそれは、現実から要素を抽出し、デフォルメしたと言える範囲ではあるし、真のストーリーに添わさなければならないから... まあしょうがないのだろう。
権力や組織とは、このようにどうしようもないものでもないし、そんなピラミッドではない。私利私欲や私的繋がりが効力を持ちすぎている。結局私利私欲でもいいのだが・・ 組織はもっと呉越同舟であり、自身の武器を正義感やまっとな手続きだと勘違いして振り回す存在も少なくない。(まあ、そんな存在は主人公自身が背負っているが...。)

柳葉敏郎にくっついてた若い刑事... 彼の「ヤバいですよ~」という口うるささは重ね重ね強調されていた。それが最後には自分の判断で動いている部分が出ている以上・・ そのような成長も意識的に織り込んでいるということだ。ただ・・ そこまで「上の言いなり」クンならば、まずは柳葉の言いなりでもあるハズで、あのキャラは余分だったように思う。
そのような人間の成長を写すとき... 谷村美月の死は余分だったろう。死ななければわからないことも、解決できないこともあるのだろうが・・・ 多くの人にとっての唯一の希望は、谷村にあったんだと思う。第一、山本-小西カップルがどのようになろうと、大して興味などない。彼らは大変に尽力したが・・ 結局は外野だ。

三上が植物状態の間に、周囲の秩序は少しづつ回復していく。何もなかったかのように...。この部分は素晴らしいのだが、三上がそのような状態になるために谷村の死が必要だったのかどうかは微妙なところだ。
また、「神にでもなったつもりか」方面含め、このあたりは恐らく、女性ならではの感覚なんだと思う。とゆうか、55には理解出来なかった。第一、人間関係がこのようにメリット-デメリットに関係しすぎるのは、女性の発想だ。男でそこまで徹底できるのは、ほんのわずかしかいない。

谷村にとって、マモル(すいません役者さんの名前分からず)というのは唯一の支えあう存在だ。そして谷村にとって唯一の社会との接点、つまり社会への希望とは、三上だ。この「パンドラの箱」では、確かに残ったものは“希望”ではなく、“愛”だったから・・ 確かにそれは軽視していい。しかし、55にとっては、それは無理矢理に捻じ曲げた部分だと感じた。
残念ながら、ここに出てくるキャラクターの多くに愛は欠落しているようなストーリーになっているが、画面から受け取れるものには、意図せず多くの役者から愛がにじみ出てしまっていた。
そのようになってしまった以上、“愛”に着地するには無理がある。
ここは“希望”に修正して欲しかった。とゆうか・・ そのままいけば、それは“希望”にならざるを得なかった。


とは言っても... これらは決して内容批判ではない。解釈の違いや人によっての違いまでの深さにたどり着ける深さ.... 55では、その深さにたどり着くこと自体を日頃から大変に関心している。

最後に、最後まで「あなたの作った薬の投与は受けない。」と言った柳葉と、そもそも三上の全体・・ これは人格が分裂してしまっている。柳葉は、おそらく自分のキャラ作り(鈍感力)でその分裂を吸収してしまった。しかし三上は・・ 恐らく作者の意図通りに演じきったのだろう... 最後まで分裂したままだった。
世間を知らないのなら、あのように周囲の欲望を敏感に察知することはできない。誰かを見返すためだったら、あそこまで没頭できないし、執着しない。真に抗がん剤を世に出したかったら・・ もうちょっと別な道があったハズで、それではすべての罪は開発者である三上自身にある... という話しになってしまう。本当に、時間を待っていられない・・ こうしている間に何万もの人の命が奪われていくから・・ とあのように焦っているのならば、自分の功績云々など一切問わないだろう。ひとつひとつの側面を見ていくぶんには違和感はない。しかし、それらの側面がひとりの人物に納まっているとすると・・ どれかを取り下げなければ話しが合わなくなる。


おっと.... ひとつ言いたかったことを忘れてしまった(T▽T;)/

真に開けてはならない箱・・・ それは存在する。
このドラマに出てくるのは、全てのガンを撲滅できる夢の抗がん剤だが、現実の世にある「パンドラの箱」・・ それは遺伝子操作と遺伝子コピーだろう。

「じゃあ、あなたの大事な人がもし、それを使えなければ死んでしまうとしたら・・ あなたはそれを使わないの?」
・・・いえいえ、平気でつかう。喜んで使う。

問題なのは、そこに踏む込んではならないということだ。
それが存在してしまったら、それを止めることが出来ない。
しかし、まだ存在していない今なら・・ それを止めることができる。

そして、それをパンドラの箱とするかどうかは、私たち自身に係っている。私たち自身が、私情より倫理を優先できる人間性を獲得しているとするのならば、それは別に開けていい箱かもしれない。

「今苦境にある人の目の前でそれが言えますか!?」
いや、今苦境なら、今からはでは間に合わない。それはまさに“希望”でしかない。
それを作ろうとするということは、不安への執着であり、未来への対策だ。今を救うことはできない。今はまだ出来ていないのだから..。

直近ではES細胞がある。ここでギリだろう...。