もう『豚インフルエンザ』とは呼ばないようだが・・・
引き続き話題は盛り上がっているようだ。

まあ、そのような対応はとても安心できるよい対応だとは思うのだが、ちょっとだけ55妄想的に気にかかることを取り上げたい。

①私がチラっと見たニュースで「全世界で○○名の死者が~」という風に伝えていたのだが・・・ その時点での死者は、メキシコで159名、アメリカで1名だ。
ことの重大さや注意を促すためにそのようなことを言っているのか知らないが.... 大事なのは正しく伝えることだ。(それに対し、確かに「正しいは正しい」などと反論するようじゃあ、さらに深刻。重大なコミュニケーション能力の欠如or人間性の欠落だ。)

②インフルエンザはインフルエンザだ。
まだまだ季節は冬だと思って、うがいと手洗いを気にかければいいだろう。特に重症になる可能性があるのは、子供やお年寄りやそもそも体調が弱っている人だろう。
ワクチンはアメリカの公的研究機関が作ったそうだから・・ そのうち国際製薬団体連合会加盟の大手製薬会社が世界中にワクチンを届けてくれるだろう。

③このような感染症の一番の深刻さは、感染することにある。
人→人への感染があったことで非常に猛烈な感染かのように謳われているが、私が見たニュースの範囲では、皆メキシコに行った人間だった。
世界規模の感染症だとしても・・ 感染力が深刻だとは微妙に違うだろう。

④世界でこのように迅速に、感染者が「国内で1人!」とか見つかるという体制にまず驚かされるんだが、それはメキシコ渡航履歴からあたったんだろうか・・ それとも医療機関からあたったんだろうか・・
渡航履歴からだとすると、確かに上記③のメキシコからしか感染してないことは証明されない。まあそれでも、重傷者であればすぐに把握できるだろうから、逆に言うとそうでもない人は結構いるのかもしれない。
医療機関からだとすると、深刻な症状ではない感染者が拾い出せない。
労働者の保護を訴えたり、待遇の改善を要求するということは、同時に「経営サイドはそのような要望さえ満たしていればそれ以上の義理を通す必要がない」ということを実現する。

労働者保護!陣営こそが、労働者や経営者という固定階層をより強固にしているということだ。


....と、これは何もメーデーに合わせてこのような主張をしたんではなく、ここ一連の検討の延長として浮かんできたことなんだが...。


上司または経営陣を信じ、自身は自身の役割を全うするからこそ逆に、上司や経営陣に要求される姿勢がある。これは労働者にとっても経営参画の視点であり、その会社にとって本来より良い環境であろう。
そのような信義を破る人間こそが、法遵守化になっても、引き続きその制度を逆手に取るような人間であろうことは想像に難くない。

たとえ多かれ少なかれ、各個人はそのような機会(そこで働くこと)を利用している存在であるとしても、企業活動自体及び各セクションは、それぞれがある役割を背負っている。各個人は、そんな就業機会を利用している存在であるとしても、その役割を放棄していてはそもそもその存在自体の意義が消滅してしまうわけだ。

・・そう、このようにこの話は「個人の勝手自由の拡大」に結びついている。


企業と言うのは、契約書の束であり、それに結びつく各個人も契約で結ばれている。
しかし、各個人および企業の存立自体とは、契約書以外の部分に存在している。
逆に言うと、その企業が契約書の束以外に何も価値を持たないというのならば・・・ それはホントに下らない企業だということだ。
何故なら、それならばそれはその企業である必要もないし、各当人である必要もないということ。


随分前に取り上げた視点・・
[社会]-[その会社]→マイナス
[社会]-[自分]→マイナス

自分および会社が、社会にとって存在しないよりも存在した方がいい・・ という存在でなければ、どんな立派な御託を並べられようと、社会には存在しない方がマシな存在だということ。
※但し、何を以てマイナスと判断するかは検討しない。


「当人である必要がない」とは、個人として生きている意味がないということ。
「いるよりはいないほうがマシ」とは、存在する価値がないということ。
昨日の記事を自分で読み返していると・・・ 一部補足したい点が出てきた。
道徳ウンヌンと言っても、結局これは「自由放任主義ではないか!」と取られるんではないのか?という部分についてだ。

大事なのは(とゆうか55政治論の中でも最も大事な部分なんだが・・)、政治に論理的整合性を取る必要などないということ。
○○主義をわざわざ採用する必要などない。

55で取り上げる○○主義という表現は、現実を表現するために使う呼び名のことであり、呼び名が現実を動かすことなど・・ 大きな間違いであろう。
現実を把握するための参考書としての○○主義という活用方法ももちろんあるが、それも同じこと。



これとちょっと話しは逸れるが・・
『自由』について考えたい。

法律の文面とは、ほとんどが禁止や制限を定める記載になっている。
ところがそれは同時に.... 「それ以外自由」という自由を連れてくることになる。

飼っている鳥に対し、「あまり外を飛び回っていると、天敵に襲われてしまいますよ。だから家の中だけで飛んでて下さい。」→「家の中では、いろいろぶつけてしまいます。だから安全なカゴを用意しました。あなたはその中では自由です。」 ・・・そう、この鳥は鳥かごの中で完全な自由を手に入れる。

ここで大事なのは、「鳥かごの中での自由を本人が満喫するのであれば、それは本人にとって素晴らしいことであり全然OKであるだろう」ということ。
そしてこの話しで言いたかったのは、「個人の勝手自由が拡大する理由は、法律が増えていくからだ」と言うことだ。
ここ何件かで集中しているこの話題....
これは結局日頃の主張の「個人の勝手自由」の話しと近い。

これらは「法遵守」や「合理的重視」と一緒に手に入れたものだ。
これらは、「法に従ってさえいれば、何したっていい」人や「捕まらなければセーフ」の方々を増やす、素晴らしい社会を実現している。

そのようなモラルの欠如や脱法精神がさらなる法律と監視体制を連れてくる。
何といっても・・ 人を制御するのが法律しかないというのだから、そのような方々が取る手段とは、その様なものにしかならざるを得ないのだろう。(それどころか、そんな各個人は自分だけが正義の側だと思っている始末だ。)
そのようなセカイにおいて、強化されればされるほど.. 守らない人のメリットは拡大し、守る人の制限ばかり拡大していく。

・・・浅はかなセカイだ。

社会には(少なくとも日本には)、法律以外に自らを律するチカラが存在する。そしてそれこそが、世界(特に北欧)から日本人が評価されているものだ。
つまり、それを非現実的だと断念する姿勢も含め“日本人が日本人でなくてもいい”・・ 入れ替え可能な存在、そして社会を実現する。そしてそのような姿勢は、突き詰めていくと・・ “私が私でなくったっていい”ということに帰結するだろう。

多くの人が、それで構わないというのなら、それでしょうがない。
いずれ名前などつけるのをやめ、生まれた順に番号でも振っていけばいい。


かつて55では、日本人が評価されている部分をいくつか取り上げた。

【メキシコ五輪】
日本vsメキシコのサッカーの試合で、地元メキシコであるにもかかわらず、メキシコ人は試合の途中から日本を応援したという。それは日本チームのフェアプレイに賞賛してのことで、その大会後にFIFAは「フェアプレイ賞」を設けた。
【北欧での日本語人気】
フィンランドかノルウェーか忘れたが・・ 外国語の人気は日本語が1番人気だという。それは日本の礼儀正しさが大変に評価されているからだそうだ。
また、ロシアもある意味「北欧」を含む。ロシア人は日本人に大変に好意的だ。日本人の作ったものであれば、工業製品ではなくても、とにかくひいき目に評価するらしい。プーチンの武道家精神も取り上げた。
【阪神淡路大震災】
このときはとにかく、世界中で日本人は賞賛された。
地域がマヒしてしまっているのに、略奪やレイプなどほとんど発生しなかったという部分らしい。


「武士道が大切」の、『国家の品格』でも・・ 日頃の『ニッポン大好き陣営』でも・・ そのような部分を重視する姿勢は55と共通している。

しかし、このようなものの本質は、●国家がルールを取り決めなかったり ●価値観として強要されていない 
にもかかわらず、
各個人が進んでそれを守るまたは律することができる人たち
だということにある。

つまり、それを大事だと主張したところで、政治として取り上げるには無理があるわけだ。
こんなもの・・・ 守ったって、一銭にもなりゃしない┐( ̄ヘ ̄)┌
その通り!(そしてここからが自由主義との統合だ。)

ところが、ビジネスもそのほか全般の社会生活も、基本的にはルールに基づいて運営されている。
「ルールだけを重視する」のも、「ばれなきゃOK」も・・・ 実は、ルールがなければ実現できない。ルールを増やすことが、それを増やすということだ。そして実は、社会にはルールがないことのほうが圧倒的に多い。私は今、自宅でタバコをふかしながらこれを書いている。そして日頃、狭い小道を結構な速度で自転車で走り抜けている。これらは・・ 適用ルールなどない。
近所に実害を及ぼすほどの副流煙をまき散らしたり、対向車に一切構わず走り抜けたりするならば・・ そんな部分にルールが追加されるだろう。
小道の自転車に速度制限が設けられ、実際に監視体制がひかれたとして・・ ということは、速度以上の対向車は現れないことを前提とした秩序が生まれる。それを守らない人が現れたら・・ 逆に事故は大きくなるだろう。

また、「それを破る人は、ルールができても引き続き守る予定がない人だ。」という話しのように、ルール制定は日頃からそれを守っている人により効果を発揮してしまう話しもした。
どんなことをしても金儲けをしたい人は、つまりどんなことをしても金儲けをするんだ。
自分のキャリアを守りたい人は、自分のキャリアを守る。その手段が合法か違法かは・・ その人にとって重要ではないかもしれない。
どうしてもそこを突破しなきゃいけない理由がある人は、それが合法だろうとなんだろうと・・ そこを突破しなきゃいけない。

しまいには、高価な法律家を雇い、自身が進んで軽視した法律から自分を守ることさえ行う。
今が既に満たされている人らにとって、法強化はウェルカムであり、結局誰にとってより良い社会を実現しているのか・・・ という話しになる。
法律とは、それを利用できる人にとって「よりオイシイ」仕組みのことを言う。

ここから話しは遡っていく。
皆が個人の小さな悪意に手を染めなければ・・ ルールは増えていかない。
自動車の速度制限が実質無意味であるのにも関わらず、それが機能しているのは何故だろう?
実際、あまりスピードを出しすぎると危険だからだ。ただそれだけのことだ。
先日の駐輪場の話しも・・ 皆がエリアや通行の妨げにならないように停めていれば、ハナっからそんなルール(駐輪場)は必要がない。「ちょっとくらい通りづらくったってどってことないだろう...。」という思いが、それを作っている。そしてそんな当人達は、駐輪場ができると「ちぇっ」というだろう・・ 「おまえらのせいでそーなったんだっつーの┐( ̄ヘ ̄)┌」って話しなのに...。そしてそんな「ちぇっ」な人は、またうまいことルールをかわすんだろう。

ルールが人を制限しているんではない。
破る人がルールを作っているんだ。



55では、●ブラックサイト  ●ボーリングフォーコロンバイン  という映画について取り上げた。
これが私たちの目指している社会だ。

礼儀・道徳・フェアプレイ..... それら日本人らしさ(=各個人が自らを律する姿勢)こそが、自由主義を実現している社会だ。自由主義の場合、逆に皆が小さな悪意に手を染めていけば・・ 自ら食い合って滅びていける。
ところが、現行の流行りでいけば、小さな悪意に手を染めない人ばかりがバカを見る。
どちらがマシな制度なのかは言うまでもない。


※「じゃあ、どうすればいいのか?」を説明できていないという人もいるだろうか.... それは結局、より多くの人がそれを実感もしくは同意してくれることを期待するしかない。それでこそ、この話しが理に叶っている。


この方の意見全体を反対しているんじゃないんだが・・

日本全体の課題を50代だけで議論してよいのか?
***夏野剛のネオジャパネスク論

下積みを重視する日本型システムに疑問を呈し、それを「過去のシステム」と呼んでいる。

あることに従事していけば、その対象はそれ従って少しずつ拡大していく。
経験と知識が視野を広げていく。そのような行程を経ないで、視野の広い役割を担うのは大きな間違いだ。
これでは、株主も経営に口を出す・・ いまどきの浅はかなビジネスを推奨するということになる。
逆に言うと、株主が口を出せる程度のビジネスとは底浅い。
そのことに取り組んできたんではない人間が口を出せる程度... ということなのだから。

・・と、この部分だけで分かることがある。
今の組織の問題は、「下積み重視」というような、結果的に状態を命名したような概念及び組織にはなく、●積み上げていけない ●成長できない 人間性にあるということ。

ただし、そのように浅はかな発想は加速している。人間性は堕落している。それに合わせた組織形態こそ望ましいというのならば、55主張は全く間違いだということになる。


あるひとつの道を極めていけばいくほど、「何がいい」とも「悪い」とも一概には言えなくなるものだ。
取り上げた記事に出ているような「誰がやっても大して変わらない。」「大胆な発想がない。」という症状は、何も発想の硬直化や下積みシステムが悪いという部分だけではない。
そのような大胆さや発想の転換とは、「そうすることが必要だから、あえてそれを選択する。」というのが本道だ。組織形態のせいにしてりゃあ、何も解決しない。そんな対象は存在していない。

また、「今どきのITシステムを大規模に導入する」というような大胆な発想があるとしよう... それは本道と関係のない改革であって、これなら別に下積み云々と関係がない。クラウドだろうとSaaSだろうとどんどん活用したらいい。その部分で問題になるのは、「変えないこと」を良しとする発想だ。「変えないこと」という対象など存在していない。その指標を採用するのも当人の妄想だろう。変えたほうがいいものは変える。変えない方がいいものは変えない。それ以上でも以下でもない。但し、「今現在、とても機能している。だからこのままでいきたい。」という発想がある。それは問題点が別であり、この話とは逸れる。

欧米型的、合理的発想に基づくシステムは、大変に浅はかな商売であり、浅はかな商売とは、実は【投資家-事業者-消費者】のうちの投資家強化に繋がっている。「投資家に何が分かる┐( ̄ヘ ̄)┌」・・・そのような事業こそが、事業者としての本道だ。


「積み上げる」という.... 時間と経験が必要な日本型にこそ、日本の素晴らしさはある。ただし、それはその形態を重視しているのではなく、人間性の問題だということ。
日本型が機能しないことから、人間性の堕落を読まなければならないということだ。

昨日の項では「小さな悪意」が拡大していることを述べている。それについて追って取り上げようと思うのだが・・ 「合理的」を形態に採用することで、どんどん人間性がダメダメになっていっている。(「合理的」とは、それぞれの詳細判断に対して使うことであり、「合理的」自体が採用根拠になるものではない。)

但し、若者の人間性低俗化は、今から直していけるし・・ 第一まだロクに社会を経験していない。
深刻なのは、そのような時間を積み上げたハズの人間がどうしようもないことにある。
だからといって、全てをその人たちのせいにするのではない。
次の世代は、現状で各セクションを取り仕切っているそのような大人から、いかに権力を奪い取るか・・ そこに懸っている。