堪忍袋=偏屈親爺の狷介録= -7ページ目

堪忍袋=偏屈親爺の狷介録=

アメンバー登録したら出来てしまったブログですので、ここには何も掲載しないと思います。←と言いましたが、私家版のブログにしました。タイトルも設定しました。

<植木競馬場>年不明11月30日撮影。B14-C9-100 。現在地は、直方市植木の遠賀川と犬鳴川の合流点の河川敷内(犬鳴川の下新入側)


堪忍袋=偏屈親爺の狷介録=-植木競馬場


 地方競馬規則に基づく競馬場として、昭和3年開設。同年秋季競馬から競馬を開催、昭和4年秋季開催をもって飯塚競馬場に移転廃止。馬場の規模は不詳。


<飯塚競馬場>昭和23年1月19日撮影。USA-R211-66 。現在地は、飯塚市秋松から堀池にかけての穂波川沿い。


堪忍袋=偏屈親爺の狷介録=-飯塚競馬場


 地方競馬規則に基づく競馬場として、植木競馬場から移転開設。昭和5年4月18日から、昭和13年秋季競馬まで開催。軍馬資源保護法の制定に伴い、廃止。飯塚競馬場の馬場は、1周1000m。


<大川競馬場>

 地方競馬規則に基づく競馬場として、三潴郡大川町大字酒見に昭和3年開設。同年秋季開催から競馬を開催。昭和4年秋季開催をもって大牟田競馬場に移転廃止。馬場の規模は不詳。


<大牟田競馬場>

 地方競馬規則に基づく競馬場として、大牟田市大黒町に昭和5年大川競馬場から移転開設。昭和7年春季開催をもって直方競馬場に移転廃止。馬場の規模は不詳。


<直方競馬場>昭和23年1月19日撮影。USA-R211-44


堪忍袋=偏屈親爺の狷介録=-直方競馬場

 

 地方競馬規則に基づく競馬場として、大牟田競馬場から移転開設。昭和7年秋季から10年春季まで開催。久留米競馬場に移転廃止。現在地は直方市感田の遠賀川河川敷。なお、この空中写真の左上、堤防が三角形になっている左側の河川敷内が、上に述べた植木競馬場跡。馬場の規模は不詳。


<久留米競馬場>昭和23年10月31日撮影。USA-R420-108 。現在地は久留米市大石町


堪忍袋=偏屈親爺の狷介録=-久留米競馬場


 地方競馬規則に基づく競馬場として、直方競馬場から移転開設。昭和10年12月12日から13年秋季まで開催。軍馬資源保護法の制定に伴い、廃止。久留米競馬場の馬場は、1周1000m。




 佐賀県には、競馬規程に基づく競馬場として、次の競馬場があったという。

  ・佐賀郡八戸競馬場    ・神埼郡三田川村目達原競馬場   

  ・小城郡牛津競馬場    ・三養基郡北茂安村豆津競馬場

  ・東松浦郡山本競馬場  ・西松浦郡川東競馬場


 これらの競馬場は、昭和2年の地方競馬規則制定によって、当初の規定に基づき、県下1ヶ所に限定されたため、条件付で1回限りの開催を行った後、目達原競馬場に統合されることとなったという。しかし、昭和3年に改正があり、佐賀と伊万里が新たな開催許可を受け、目達原競馬場は指定を取り消されたが、経過措置として昭和4年春季開催まで、目達原競馬場は開催を続けた。

 なお、上記の競馬規程に基づく川東競馬場は、地方競馬規則に基づく伊万里競馬場となったかとも思われる。松浦鉄道の伊万里の隣駅が川東である。


<佐賀競馬場>

 佐賀競馬明治17年以来行われたというが、佐賀競馬場は、大正12年に佐賀市外の大崎で競馬規程に基づく競馬が開催されたのが始まりである。その後、八戸町を経て、昭和4年に神野町に移転した。これが旧佐賀競馬場である。

 =旧佐賀競馬場(1周1000m)=昭和23年10月31日撮影。USA-R420-63 。現在地は佐賀市神園3丁目西九州大学短期大学部の周辺。


堪忍袋=偏屈親爺の狷介録=-旧佐賀競馬場

 旧佐賀競馬場では、地方競馬規則、軍馬資源保護法、地方競馬法、競馬法に基づく競馬を引き続き開催して、昭和47年に新佐賀競馬場に移転、廃止となった。移転直前の昭和45年撮影の空中写真は、MKU703X-C5-6 であるが、その3年前の空中写真MKU674X-C4-17 の方が鮮明である。


 =新佐賀競馬場=1周1100m。昭和50年3月8日撮影。CKU7423-C11-48

堪忍袋=偏屈親爺の狷介録=-新佐賀競馬場


 再直近の空中写真は、CKU20081-C13-47


<目達原競馬場(1周1400m)>

 前記の如く、目達原競馬場は暫定許可のもと地方競馬規則に基づく競馬を開催したが、昭和4年をもってその暫定許可は終わった。しかし、伊万里競馬は、経営不振から昭和5年に廃止され、同年秋季から目達原競馬場は再開された。軍馬資源保護法の施行により、昭和13年秋季開催をもって廃止された。

<豆津競馬場(1周1200m)>

 前記の如く、豆津競馬場は地方競馬規則の施行により、一旦、廃止された。そして、伊万里競馬場の廃止後、地方競馬規則の改正により、佐賀県の3番目の競馬場として昭和8年に再開設、軍馬資源保護法の施行により、昭和13年をもって廃止された。

<島原競馬場>

 島原競馬場は大正10年10月17日から、競馬規程に基づく競馬を開催した。地方競馬規則制定に伴い、引き続き競馬を開催したが、平成7年の地方競馬規則改正により、従来の800m馬場を延長する必要があり、昭和7年をもって、開催を終了。その後、諫早競馬場に移転、廃止された。

 現在地、不詳。


【追記】

 その後、この地域の空中写真を精査していたら、次の画像(昭和22年2月26日撮影USA-M185-10 )を見つけた。是が島原競馬場とすると、現在地は、島原市梅園町の島原自動車学校と思われる。

島原競馬場?



<諫早競馬場>昭和22年11月1日撮影。USA-R153-4

 現在地は、諫早市宇都町県立総合運動公園。


堪忍袋=偏屈親爺の狷介録=-諫早競馬場


 昭和13年、諫早競馬場(1周1200m)は新設され、開催許可を受けたが、軍馬資源保護法の施行に伴い、地方競馬規則に基づく競馬は行われないまま、昭和14年3月2日から軍馬資源保護法に基づく競馬を開催した。その後、地方競馬法に基づく競馬、競馬法に基づく競馬を開催し、昭和29年をもって廃止となった。


<(新)長崎競馬場(別名:時津競馬場)>昭和23年1月13日撮影。USA-R216-10

 現在地は、時津町浜田郷の三菱電機工場。


堪忍袋=偏屈親爺の狷介録=-長崎競馬場


 旧長崎競馬場は、地方競馬規則に基づき昭和2年に長崎市松山町に開設。昭和2年春季から7秋季まで開催。馬場延長の必要から、時津町に移転し、1周1020mの馬場を作り、昭和11年に春秋2回を開催したが、それをもって廃止。


<早岐競馬場>

 早岐競馬場は、大正14年、東彼杵郡早岐町権常寺免に開設された。早岐競馬場では競馬規程、地方競馬規則基づく競馬を開催したが昭和5年秋季開催をもって、狭隘の故に同町宮崎免に移転することとして、休止した。

 宮崎免の競馬場は、宮崎免競馬場とも呼ばれたようである。昭和6年の春秋開催が行われたが、翌7年から10年までは不明とある。

 馬場の規模、現在地ともに不詳。


<大村競馬場>

 大村競馬場は、宮崎免の早岐競馬場から東彼杵郡西大村字杭出津郷大茶園に移転開設。

 馬場の1周1200m。現在地は不詳。

 大村競馬場では昭和11年6月19日から13年春季まで開催。軍馬資源保護法の制定に伴い廃止。

<中津競馬場>昭和22年4月16日撮影。USA-M271-20

堪忍袋=偏屈親爺の狷介録=-中津競馬場1


 中津競馬場は、大正13年に競馬規程に基づく競馬場として建設され、競馬を開催したという。昭和2年地方競馬規則の施行に当たり馬場の改造を行ったが、開催にいたらず、昭和6年に至り施行許可を得て開催が再開された。当時の競馬場の名称は当時の村名である大幡競馬場と称したようである。


 昭和7年、競馬場を改造して1周1000mとし、名称も中津競馬場と称するに至った。その後軍馬資源保護法の施行により閉鎖。昭和22年3月25日、地方競馬法に基づく競馬場の許可を受けて再開、次いで現行競馬法に基づく競馬を開催。平成13年3月22日の開催をもって廃止となった。なお、地方競馬法に基づく競馬を開催した時代には、地名をとって「大貞競馬場」と称したようである。

 廃止直前の空中写真は、KU982X-C3-19


<別府競馬場>昭和14年12月5日撮影。B25-C2-16 。現在地は別府市野口原野口原総合運動場。


堪忍袋=偏屈親爺の狷介録=-別府競馬場


 別府競馬場は、大正7年に競馬規程に基づく競馬場として建設されたという。昭和8年に馬場を1周1000mに改造。競馬規程、地方競馬規則、軍馬資源保護法、地方競馬法、競馬法に基づく競馬場として競馬を開催し、昭和25年の開催をもって廃止。

 廃止2年後の空中写真はUSA-M861-84


<宇佐競馬場>


 宇佐競馬場は、古来宇佐神宮の境内で行われていた祭典競馬の競馬場で、大正13年に競馬規程に基づく競馬を開催したのが始まりという。爾後、地方競馬規則に基づく競馬を実施。昭和7年宇佐神宮の神域での馬券発売は神慮に反すると言うことで、当時の宇佐郡宇佐町南宇佐に1周1040mの馬場を作り移転したとある。

 軍馬資源保護法の施行に伴い。昭和13年秋季開催をもって廃止。

 所在地については、空中写真からは判然としないが、昭和22年4月16日撮影のUSA-M271-14 の左下、宇佐神宮北方の田の中にそれらしき映像が見られる。


【追記】

 画像を精査したところ、上記の地に宇佐競馬場があったものと認められる。是によれば現在地は、宇佐市南宇佐の宇佐病院の北方の畑地

宇佐競馬場



 

 宮崎県の競馬場は大正2,3年頃から各郡に建設され始め、大正末年には西臼杵郡を除く7つの競馬場が設立されたという。昭和2年の地方競馬規則により、宮崎県の競馬場は3ヶ所とされたことにより、宮崎、延岡の他に、都城と小林が残され、都城と小林は毎年春秋交互に開催したという。その後、小林は昭和10年に廃止された。


<都城競馬場>昭和22年1月25日撮影。USA-M25A-22-20 。現在地は、都城市早水町と隣町の三股町花見原にかけての地域である。

堪忍袋=偏屈親爺の狷介録=-都城競馬場


 都城競馬場は、明治17年に現都城市五十市に建設され、以降、競馬を開催してきたとある。地方競馬規則の制定により、同競馬場は規格に適合せず、上記場所に移転し、昭和5年5月10日から開催した。

 その後、軍馬資源保護法の制定に伴い、一旦、閉鎖されたが、現行競馬法に基づき昭和23年に再開、昭和36年をもって廃止となった。

 掲載した空中写真は、最も古いものであるが、翌年撮影のUSA-R235-123 の方が縮尺が大きい。この地域の空中写真は、以後昭和40年まで無く、現行競馬方時代の空中写真は無い。

 馬場は1周1000m。これまで、馬場の規模を紹介していなかった。今後、紹介する。これまで紹介した競馬場の馬場規模は、「鹿児島県の競馬場」に追記した。


<宮崎競馬場>

 地方競馬場としての宮崎競馬場は大正の末頃に大淀河畔に作られたのが初めという。地方競馬史の記述はやや混乱しているが、地方競馬規則に基づく競馬を実施した宮崎市下北方町の競馬場以前の競馬場は、大淀河畔和知河原にあり、次いで檍ヶ原に移転したとある。

 下北方町の宮崎競馬場では、昭和4年5月3日から地方競馬規則に基づく競馬を開催し、次いで軍馬資源保護法に基づく競馬を実施した。馬場の1周は1270m。

 地方競馬法に基づく競馬及び現行競馬法に基づく競馬は、中央競馬の宮崎競馬場(現JRA宮崎育成牧場)で開催され、昭和38年をもって廃止された。


堪忍袋=偏屈親爺の狷介録=-宮崎競馬場


 写真は、昭和22年12月5日撮影USA-R200-30 の中央競馬の宮崎競馬場である。下北方町の競馬場(1周1270m)の痕跡は探すことが出来なかったが、この空中写真の下の中央付近に和知河原の競馬場の一部と見られるものが写っている。


 中央競馬としての宮崎競馬場の競馬は、戦争による総ての競馬の休止以降、開催されていないまま、平成にいたり正式に廃場となった。

 

<延岡競馬場>昭和23年5月27日撮影。USA-R51-2-25 。なお、この写真は北が左となっている。


堪忍袋=偏屈親爺の狷介録=-延岡競馬場

 延岡競馬は、明治38年に馬場を作り、春秋2回の祭典競馬を行ったのが初めという。次いで、競馬規程に基づく競馬場として恒富村大字恒富字平原塩浜に新設した競馬場(1周800m)に移転して大正3年から競馬を開催した。この競馬場は大正6年に恒富村大字恒富字三ツ瀬に移転(1周800m)し、地方競馬規則制定後も同規則に基づく競馬を実施したが、昭和5年に新競馬場(1周1000m)に移転した。そして、軍馬資源保護法の施行により廃止された。

 現在地は、延岡市緑ヶ丘3,4丁目。



追記:

<小林競馬場>昭和22年2月24日撮影。USA-M70-121


堪忍袋=偏屈親爺の狷介録=-小林競馬場


 現在地は、小林市堤の国道221号と268号の分岐点から小林保健所周辺までである。25000分の1地図に競馬場跡の地名がある。

<荒尾競馬場>

・昭和22年11月1日撮影。USA-R153-47


堪忍袋=偏屈親爺の狷介録=-荒尾競馬場1

 熊本県では、昭和2年に地方競馬規則が施行されるとともに、荒尾競馬場の建設工事を始める一方、熊本市営運動場で第1回熊本競馬が開催された。熊本競馬は、その後、常設競馬場の建設に入り、昭和7年から再開された。

 荒尾競馬は、昭和3年3月2日から競馬を開始し、軍馬資源保護法、地方競馬法、現競馬法に基づく競馬を開催し続けている。なお、地方競馬史第1巻の荒尾競馬場の項には、荒尾競馬場の所在地を(旧)玉名郡荒尾町、(新)荒尾市宮内出目北外平72と記載し、あたかも移転があったかのような記載になっている。しかし、旭川競馬場の例もあり、にわかに措信し難い。旧荒尾町域と思われる地域の空中写真を探索しても、競馬場の痕跡と思われるものを見つけることが出来なかった。むしろ移転は無く、住所表示の変更と思われる。


・昭和37年9月10日撮影。MKU622-C12-13

堪忍袋=偏屈親爺の狷介録=-荒尾競馬場2

 この地域の、次の年代の空中写真である。馬場が現在と同じスパイラルカーブのコースに改修されている。1コーナーの現在調整ルームがある辺りに、1100mと思われる発走地点、4コーナー手前に、現在コース案内に記載されている1640m発走地点と思われるものが見られる。

 昭和50年の空中写真CKU7422-C32A-3 になると、現在のスタンドがハッキリ見て取れるが、1100m発走地点は無くなっている(ハッキリしないが、前年の昭和49年の空中写真にも1100m発走地点は無いように見える。)。そして、昭和57年撮影の空中写真KU822X-C4-3 で、初めて練習馬場の映像が見られる。

 最新の空中写真はCKU20082-C2-4

 馬場の1周は1030m。現在は1200m

【追記】 荒尾競馬場は、現存する最古の地方競馬場である。盛岡、水沢も競馬場としては古いが、いずれも現在地に移転したのは戦後である。荒尾競馬場は同一地で最も昔から競馬を開催し続けたという点で、最古の地方競馬場である。

 更に言えば、中央競馬も含めて、5指に入ろうかという由緒のある競馬場である。そのベスト10は、次のとおり。

  函館競馬場・・・・明治29年に海岸町から現在地に移転。

  札幌競馬場・・・・明治40年に中島から現在地に移転。

  福島競馬場・・・・大正7年に藤枝競馬場から移転開設

  京都競馬場・・・・大正13年に船井郡須知町から現在地に移転

  中山競馬場・・・・昭和2年に旧中山競馬場から現在地に移転

  荒尾競馬場・・・・昭和3年開設

  園田競馬場・・・・昭和5年に淡路競馬場から移転開設

  小倉競馬場・・・・昭和6年に三萩野から現在地に移転

  帯広競馬場・・・・昭和7年に南2線西8番地から現在地に移転

  東京競馬場・・・・昭和8年に目黒競馬場から移転開設

 
<山鹿競馬場>昭和37年9月10日撮影。MKU623X-C2B-8

堪忍袋=偏屈親爺の狷介録=-山鹿競馬場


 山鹿競馬場は、現行競馬法に基づき開設され、昭和24年から27年まで熊本県営競馬と三玉村営競馬を行った後、廃止された。

 馬場の規模は不詳。 現在地は、山鹿市久原のヤマックス工場。


<熊本競馬場>

 昭和2年秋、昭和7年3月4日から13年春季開催まで、地方競馬規則に基づく競馬が開催された。軍馬資源保護法に基づく競馬場には指定されず、廃止となった。

 当時の所在地は、熊本市田崎町。空中写真は判然としない。一つだけ馬場の一部らしき映像のあるものがあるが、一連撮影の空中写真に写っている当該地には、その映像が認められない。写真の傷かもしれないが、昭和22年11月1日撮影の写真番号USA-R153-88

 馬場の1周は1004m。


【追記】

 上記の空中写真をその後精査したところ微かに馬場の痕跡が見て取れた。それによると現在地は熊本市西区田崎町・八島町の魚市場から八島団地にかけての地域である。

熊本競馬場




<八代競馬場>

 昭和4年9月22日から13年春季開催まで、地方競馬規則に基づく競馬が開催された。軍馬資源保護法に基づく競馬場には指定されず、廃止となった。

 当時の所在地は、八代郡植柳町。馬場の痕跡の認められる空中写真は発見できなかった。

 馬場の1周は1200m

<鹿児島競馬場>昭和23年3月30日撮影。USA-R229-54 。現在地は、鹿児島市東郡元町の西半分である。


堪忍袋=偏屈親爺の狷介録=-鹿児島競馬場


 鹿児島競馬は、明治18年に鹿児島市山下町の旧練兵場で開催されたのが始まりで、その後明治40年からは天保山練兵場で、大正2年からは常設競馬場として鴨池競馬場(1周半マイル。現鴨池競技場の辺りか?)で競馬を開催したとある。

 鴨池競馬場では、競馬規程に基づく競馬、次いで地方競馬規則に基づく競馬を昭和7年秋季まで開催した。そして、昭和9年に完成した鹿児島競馬場に移転した。


 鹿児島競馬場では、昭和10年3月8日から地方競馬規則、軍馬資源保護法、地方競馬法、競馬法に基づく競馬を開催し、昭和31年をもって廃止された。この地域の空中写真は、昭和37年9月撮影の空中写真MKU6214X-C7-18 まで無く、同写真では競馬場の痕跡も無くなっている。


 馬場の規模は1周1200m


<鹿屋競馬場>昭和22年1月25日撮影。USA-M11-79


堪忍袋=偏屈親爺の狷介録=-鹿屋競馬場


 鹿屋競馬は、明治32年頃に鹿屋町西原に800mの馬場を作って行われたのが始まりという。そして、昭和2年8月の地方競馬規則の公布に伴い、馬場の延長が必要となったので、翌3年に競馬場を移転し、昭和4年2月から新鹿屋競馬場での開催を開始したとある。

 地方競馬史の記述は、以上のようになっているが、同時に掲載されている開催成績表には、鹿屋競馬場の開催成績として昭和2年春秋開催、3年春季開催の次は5年春季開催となっており、矛盾がある。

 鹿屋競馬場は、軍馬資源保護法に基づく競馬場として指定されず、昭和13年秋季開催をもって、一旦閉鎖された。その後、現行競馬法に基づく地方競馬場として昭和24年から37年まで競馬を開催し、廃止となった。

 廃止時の空中写真は昭和38年11月29日撮影のMKU632X-C10-4 。この写真と、昭和22年の写真を比べると、この間に鹿屋競馬場の外回り馬場は無くなったようであり、1周1600mとある地方競馬規則時代の馬場は、1000~1200m程度に縮小されたようである。

 現在地は、鹿屋市札元1丁目、寿4丁目。道路の一部に馬場の形状を残している。


<南薩競馬場>昭和23年3月2日撮影。USA-M806-81


堪忍袋=偏屈親爺の狷介録=-南薩競馬場


 南薩競馬場は昭和5年7月9日、地方競馬規則に基づく開催許可を受け、昭和6年から13年まで競馬を開催。軍馬資源保護法の施行により廃止された。

 現在地は、南九州市川辺町大戸原の畑地。25000分の1地形図には、馬場そのものの形状の道路が見られる。


【追記】 鹿屋競馬場は、地方競馬史第1巻に「馬場延長1600m」とあるように、大きな競馬場であった。現在の地方競馬場でこれに匹敵するのは、いずれも一周1600mの門別、盛岡、大井だけである。

 地方競馬史第1巻に記載されている、これまで紹介した競馬場の走路距離を、紹介しておく。


 江別競馬場1200m    八雲競馬場1000m    今金競馬場1200m

 倶知安競馬場1200m   羽幌競馬場1000m    稚内競馬場1000m

 根室競馬場1000m    苫小牧競馬場1610m   日高競馬場1600m

 釧路競馬場1200m    野付牛競馬場1600m  小樽競馬場1300m

 室蘭競馬場1170m    岩見沢競馬場1200m  旭川競馬場1600m

 帯広競馬場1600m    札幌競馬場1630m    函館競馬場1603m

 北見競馬場1600m    鹿児島競馬場1200m  鹿屋競馬場1600m

 南薩競馬場1000m    熊本競馬場1004m   

 荒尾競馬場1030m(現況1200m) 八代競馬場1200m

 山鹿競馬場は、不明である。

<日高競馬場>昭和19年10月24日撮影。91735-C1-7


堪忍袋=偏屈親爺の狷介録=-日高競馬場


 日高競馬場では、昭和3年9月26日から13年秋季開催まで、12回延べ36日の地方競馬規則に基づく競馬が開催された。軍馬資源保護法に基づく競馬場には指定されず、廃止。

 馬場の1周は1600m。現在地は、新ひだか町静内末広町2丁目、静内木場町1丁目。この競馬場の左上のコーナーは、静内末広町2丁目と静内山手町5丁目の境及び山手小学校との境の道路に、その形状を残している。


<八雲競馬場>昭和19年10月26日撮影。912G48-C2-50


堪忍袋=偏屈親爺の狷介録=-八雲競馬場


 八雲競馬場では、昭和6年6月7日から13年秋季開催まで、13回延べ39日の地方競馬規則に基づく競馬が開催された。軍馬資源保護法に基づく競馬場には指定されず、廃止。

 馬場の1周は1000m。現在地は、八雲町東雲町の八雲中学校周辺。


<函館競馬場>

 函館競馬は、明治8年に市内の直線道路で行われたのが始まりとある。この競馬は明治17年まで行われたが、他方、明治15年に別地に環状馬場を建設して、翌16年から競馬を行ったとある。一方、この環状馬場の競馬運営団体とは別の団体も、明治21,22年に競馬を実施(実施場所については、地方競馬史に記載がない。)し、両者は明治23年に合併したとある。

 明治29年に至り、現在の函館競馬場の所在地である駒場町に移転した。

 函館競馬場では、昭和30年から地方競馬も開催されていた。


・昭和19年10月26日撮影。912J51-C3-98


堪忍袋=偏屈親爺の狷介録=-函館競馬場1


 最も古い空中写真として、この画像を載せたが、同時期のものとしては、USA-R250-HN-56 が鮮明である。それにしても、襷の障害コースの延長障害コースが1~2コーナーの外にあったとは知らなかった。


・昭和38年5月9日撮影。MHO637X-C3-6


堪忍袋=偏屈親爺の狷介録=-函館競馬場2


 函館競馬場の空中写真は、昭和23年撮影の後は、昭和38年まで無い。この間に障害コースが撤去された。その後は、現在まで、大きな馬場の改修は無いようである。若干コーナーを緩くしたようにも見られるが。


【追記】 現函館競馬場移転前の旧函館競馬場は海岸町にあった。1周440:間



<その他の競馬場>

 地方競馬史第1巻には、地方競馬規則に基づく北海道の競馬場として、以上の他に次の競馬場が記載されている。しかし、空中写真から、その馬場の痕跡を認めることが出来なかった。

・江別競馬場    昭和3年6月29日~13年秋季開催    当時札幌郡江別町  1周1200m

・今金競馬場    昭和7年6月3日~同年秋季開催の延べ2回6日間のみ    当時瀬棚郡利別村大字今金  1周1200m

・苫小牧競馬場   昭和3年9月10日~13年秋季開催    当時勇払郡苫小牧町字旭町  1周1610m



 以上で、北海道の昔の競馬場の紹介を終える。

 ところで、これまで、ただ漫然と地方競馬史の記載順に従って、北から紹介してきたが、荒尾競馬を応援する身としては、九州を先にすべきではないかと思った。そこで、次回からは逆に北上していくこととする。

 九州の一番南は沖縄県であるが、沖縄県には競馬場が存在しなかった。次回は鹿児島県の三つの競馬場を紹介する。


【追記】 門別競馬場を漏らしてしまった。申し訳ない。

・平成16年8月26日撮影。MHO200412X-C8-4


堪忍袋=偏屈親爺の狷介録=-門別競馬場


 門別競馬場は、平成9年12月8日竣工である。門別競馬場は昭和57年に開設されたトレセンを競馬場に改造したものである。門別競馬場の開設に伴い、函館競馬場の地方競馬場としての指定は取り消された。


【追記2】 「大井競馬のあゆみ」によれば、地方競馬規則に基づき指定された「地方競馬場」は全国で116箇所。117番目は沖縄県に認められていたが、開設に至らなかったという。


【追記3】 江別競馬場については、地方競馬規則に基づく競馬の前史がある。江別競馬の発端は、明治18年に学校通りの直線500mで祭典競馬が行われ、これが4年間続いたという。明治23年には江別駅東方に500mの円形馬場を新設して競馬を継続し、明治43年にいたり、町内の飛鳥山に600mの周回馬場を建設して移転したという。この飛鳥山では昭和2年まで春秋2回、各2日間の競馬を行ったという。


【追記4】 上記の他に、北海道には競馬規程に基づく次の3つの競馬場があった。これらの競馬場は地方競馬規則の制定に伴い、廃止された。

  • 栗沢競馬場 - 岩見沢市栗沢町。開設年不詳。
  • 美唄競馬場 - 美唄市。開設年不詳。
  • 深川競馬場 - 深川市。開設年不詳。


  • <札幌競馬場>

     札幌競馬は、明治5年琴似街道の路上で行ったのが嚆矢であるとされる。

     その後、明治10年に現北海道大学キャンパス内に楕円形の半マイル馬場を造成して、競馬規則を定め(北海道開拓使規則らしい。)、春秋2回の開催がされた。この競馬場は、その後、現中島公園に移転し、更に、明治40年に現在地に移転した。

     札幌競馬場では、昭和28年から、地方競馬も開催されるようになった。


    ・昭和22年9月29日撮影。USA-M528-113


    堪忍袋=偏屈親爺の狷介録=-札幌競馬場1

     オールドファンは、ご存知と思うが、札幌競馬場は左回りのダートコースのみであった。


    ・昭和51年9月24日撮影。CHO766-C9-12


    堪忍袋=偏屈親爺の狷介録=-札幌競馬場2


     右回り、芝・ダートに改造されているが、地方競馬で使用されたダート1200mのコースがない。

     CHO20081-C53-22 を参照されたい。


    <小樽競馬場>昭和36年5月18日撮影。MHO613C-C6-8116


    堪忍袋=偏屈親爺の狷介録=-小樽競馬場


     小樽競馬場は現行競馬法に基づき、昭和23年に開設。昭和28年7月6日をもって開催終了、廃止。
     馬場の1周は1300m。現在地は、小樽市銭函3丁目、小樽カントリークラブゴルフ場。


    <帯広競馬場>昭和19年11月8日撮影。913L88-C6-118


    堪忍袋=偏屈親爺の狷介録=-帯広競馬場


     帯広競馬は明治30年秋に当時の帯広町東3條10丁目に半マイル馬場を作って開催したのが最初とある。この馬場は、明治44年に南2線西8番地に移転し、昭和7年から現在地に移転し、地方競馬規則、軍馬資源保護法、地方競馬法、そして競馬法に基づく競馬を開催し続けている。

     現在は、ばんえい競馬のみが開催されているが、周回馬場の1周は1600mであった。

     なお、現競馬法施行直後の空中写真はUSA-M1206-A-89 。直近の空中写真はCHO20082-C6-22


    <倶知安競馬場>昭和22年10月18日撮影。USA-M591-179


    堪忍袋=偏屈親爺の狷介録=-倶知安競馬場


     倶知安競馬場では昭和5年6月20日から13年秋季開催まで、地方競馬規則に基づく競馬を開催。軍馬資源保護法に基づく競馬場として指定されず、廃止。現在地は倶知安町旭の倶知安農業高校。馬場の1周は1200m。

    <室蘭競馬場>昭和23年9月8日撮影。USA-M1160-A-123


    堪忍袋=偏屈親爺の狷介録=-室蘭競馬場


     室蘭競馬場は、地方競馬法に基づく競馬場として開設され、昭和22年から同法に基づく競馬を開催。現行競馬法に基づく地方競馬を昭和23年から28年まで開催し、廃止となった。最終開催日は同年7月6日である。


     馬場の1周は1170m。現在地は室蘭市東町3丁目。

     廃止年の空中写真はUSA-M228-82 。なお、この写真は、北が左側になっている。

    <根室競馬場>昭和23年4月29日撮影。USA-R257-147


    堪忍袋=偏屈親爺の狷介録=-根室競馬場


     根室では昭和3年10月に競馬が開かれたとある。その競馬の根拠法令は不詳。そして、昭和4年に地方競馬規則に基づく競馬施行認可を得、同年9月27日から競馬を開催し、昭和12年まで、毎年春秋2回の開催を行った後、軍馬資源保護法の制定に伴う地方競馬規則の廃止により、閉鎖された。

     馬場の1周は1000m。現在地は、根室市西浜町4丁目、根室西高校周辺である。


    <釧路競馬場>昭和19年9月29日撮影、9115-C1-9


    堪忍袋=偏屈親爺の狷介録=-釧路競馬場


     釧路競馬場は、地方競馬規則に基づく競馬場として昭和7年開設。同年9月9日から昭和13年秋季開催まで競馬を開催。地方競馬規則の廃止により、閉鎖。

     馬場の1周は1200m。現在地は、釧路市鳥取南3丁目の日本製紙工場である。上記写真でも競馬場の半分は工場となっている。なお、昭和22年7月27日撮影、USA-M392-12 の方が画像が鮮明である。


    <岩見沢競馬場>

     岩見沢競馬は、明治23年5月に市内鳩が丘に競馬場を造成し、翌24年9月15日に祭典奉納競馬(ばんえい競走)を開催したとある。そして、明治41年の競馬規程(閣令第1号)が同43年に改正されるとともに、同規程による開催許可を受けて、馬券を発売しない「地方競馬」を実施したようである。

     競馬規程の廃止と地方競馬規則の制定に伴い、馬券を発売する「地方競馬」を引き続き実施し、その後軍馬資源保護法に基づく競馬、地方競馬法に基づく競馬、現行競馬法に基づく競馬を開催したが、平成19年度をもってばんえい競馬の帯広1場体制、というか、北見市、旭川市及び岩見沢市の競馬開催権の返上に伴い廃止された。

     なお、地方競馬史第1巻では、地方競馬規則による岩見沢競馬の許可を昭和3年6月6日としているが、添付されている表によれば、昭和2年にも開催されていることとなっている。競馬規程は昭和2年の地方競馬規則施行とともに廃止されているから、昭和2年の競馬は競馬規程に基づく競馬ではないであろう。誤植であろうか。


    =旧岩見沢競馬場=昭和22年9月10日撮影。USA-M467-39


    堪忍袋=偏屈親爺の狷介録=-旧岩見沢競馬場

     旧岩見沢競馬場は、新岩見沢競馬場に移転廃止となった。なお、現在の25000分の1地形図を見ると、このコースの左下のコーナー部分が、水路として残存している。現在地は、岩見沢市2條東15の岩見沢能力開発支援センタの一帯である。

     馬場の1周は1200m


    =新岩見沢競馬場=昭和46年6月11日撮影。MHO713X-C4-23


    堪忍袋=偏屈親爺の狷介録=-新岩見沢競馬場


     新岩見沢競馬場は、地方競馬施設概要によれば、昭和40年7月6日開設とある。しかし、昭和41年7月14日撮影のMHO662X-C5-23 では、建設中のようにも見えるし、ばんえいの馬場は完成しているようにも見える。なお、廃止時点の空中写真はCHO20071-C5-29 。現在地は、岩見沢市日の出町。


     周回馬場の1周は1200m


    【追記】 明治41年制定の競馬規程では、所謂祭典競馬をのぞき、競馬を開催できるのは、民法に基づく公益法人である競馬会のみであり、馬券発売は禁止されていた。馬券発売の禁止は明治39年10月5日である。それ以前には、馬券発売黙許の時代があった。

     ところで、競馬規程は、明治43年に改正され、競馬会のみならず、畜産組合法による組合の他、馬匹の改良増殖を目的とする団体も競馬を行うことが出来るようになった。前者の競馬会の競馬が現在の「中央競馬」につながるものであり、後者が「地方競馬」につながるものである。

     そして、前者については、 大正12年の旧競馬法により、馬券発売が認められ、後者については、昭和2年の地方競馬規則により、馬券発売が認められるに至ったのである。