堪忍袋=偏屈親爺の狷介録= -8ページ目

堪忍袋=偏屈親爺の狷介録=

アメンバー登録したら出来てしまったブログですので、ここには何も掲載しないと思います。←と言いましたが、私家版のブログにしました。タイトルも設定しました。

<旭川競馬場>

 旭川競馬は、明治44年8月に皇太子行啓の際に行われたのを嚆矢とし、その後は軍の年中行事となっていたという。

 昭和3年に至り、地方競馬規則に基づく競馬を5月13日から3日間開催したのを初めに、軍馬資源保護法、地方競馬法、競馬法に基づく競馬を引き続き開催し、平成20年10月16日をもって開催が終了した(その間に、開催しなかった年はある。)。


 ところで、旭川競馬場の所在地は、地方競馬史第1巻によれば、旧所在地が旭川市近文1線、現所在地が旭川市花咲町4丁目とある。この花咲町の競馬場は旭川市神居町上雨粉に移転前の旧旭川競馬場である。

 では、近文1線の古旭川競馬場の現在地はどこであろうか。近文という地名は、JRの近文駅、また旭川盆地の北西の自衛隊分屯地の辺りに近文5線から8線の地名がある。この地域の最も古い空中写真に見られる競馬場らしき画像と、近文8線から逆に地図をたどってくると、この近文1線は、結局、旧旭川競馬場の在った花咲町4丁目と思われる。現在は、花咲スポーツ公園となっている。


=古旭川競馬場=昭和22年9月29日撮影。USA-M531-88


堪忍袋=偏屈親爺の狷介録=-古旭川競馬場



この地区の次の空中写真である昭和37年撮影の空中写真MHO621-C4-14 では、この競馬場の周回コースの一部が壊されている。地方競馬史第3巻の開催成績表によれば、この時期も旭川競馬は開催されている。ばんえい競走専用で使用されていたのではないかと思われる。画像からも、その様に推測される。


 馬場の1周は1600m。

=旧旭川競馬場=昭和42年5月9日撮影。MHO672X-C5-8

堪忍袋=偏屈親爺の狷介録=-旧旭川競馬場

 

旧旭川競馬場は、昭和40年6月に完成した。馬場の1周は1077m。


=新旭川競馬場=昭和52年9月28日撮影。CHO7719-C20-10

堪忍袋=偏屈親爺の狷介録=-新旭川競馬場


 新旭川競馬場は、昭和50年に開設された。なお、廃止時の平成20年6月18日撮影の空中写真は、CHO20083-C11-52 である。

 馬場の1周は1300m



<女満別競馬場>

 女満別は、網走市の隣村であるが、その地域の敗戦直後の空中写真からは、競馬場の痕跡が認められず、所在地は不明である。或いは、鳴尾競馬場と同様に飛行場とされたのか、現在の女満別空港は昭和22年撮影の空中写真でも認められる。

 とまれ、女満別競馬場では、昭和3年6月8日から同7年春季競馬まで、地方競馬規則に基づく競馬が9回27日の競馬が開催された後、経営不振らより野付牛競馬場へ移転廃止となった。


<野付牛競馬場>

 野付牛競馬場は、地方競馬規則に基づく競馬場として、女満別競馬場から移転、開設。昭和7年秋季競馬から昭和13年秋季競馬まで11回39日、競馬が開催され、地方競馬規則の廃止により、同競馬場は軍馬資源保護法に基づく競馬場に指定されず、閉鎖された。

 野付牛の地名は、現北見市街の北に野付牛公園の地名がある。また、地方競馬史第1巻には、所在地は常呂郡野付牛町上常呂原野とある。上常呂の名は、北見市街の南に現存するが、女満別競馬場と同様に、その地域の古い空中写真からも競馬場の痕跡は認められなかった。

 馬場の1周は1600m。


<北見競馬場>

 北見競馬場は、昭和22年に地方競馬法に基づく競馬場として開設された。

=旧北見競馬場=昭和22年10月20日撮影。USA-M588-29

 現在地は、北見市の東陵公園である。馬場の規模は1周1600m。ばんえい馬場は200m。

 なお、新北見競馬場移転直前の航空写真では(MHO712X-C8-14 )では、既にばんえい競馬専用競馬場となっている形状が見られる。

堪忍袋=偏屈親爺の狷介録=-旧北見競馬場

=新北見競馬場=昭和52年9月28日撮影。CHO7724-C13-19 。現在地は北見市若松の若松温泉の向かい側の岡の上である。

堪忍袋=偏屈親爺の狷介録=-新北見競馬場

 新北見競馬場は、ばんえい競馬専用の競馬場として建設したものであるが、当時の競馬法の規定(施行令17条)では、競馬場は1周1000m以上とのみ規定されていたことから、周回馬場もあるように建設せざるを得なかったと、関係者から聞いている。


 北見競馬場は、平成18年度をもって開催を終了し、廃場となった。


【追記】 平成18年度もって廃場と書いたが、競馬場としての指定取り消しが何時であったかは調査していない。以下、最終開催が18年度と言うことと、解されたい。実際、中京競馬場は、未だ地方競馬場として指定されており、豊明市は競馬場所在市として開催許可を得ているが、中京競馬場では、ここ暫く地方競馬の開催がない。


 






<稚内競馬場>

  昭和22年9月2日撮影。国土地理院ホームページ、地図・空中写真閲覧サービスの写真名「USA-M456-17 」。以下、写真名のみ記す。

堪忍袋=偏屈親爺の狷介録=-稚内競馬場


 稚内競馬場は、昭和3年6月6日、地方競馬規則(昭和2年農林・内務省令第?号。同年8月27日公布、施行)に基づく許可を受けて開設され、第1回競馬は、昭和3年6月13日から3日間開催された。


 同競馬場では昭和3年から8年まで延べ8回20日間、競馬が開催された。その後は、自然消滅した。


 馬場の1周は1000m。現在地は、稚内市栄2丁目、3丁目付近である。

【追記】

 「自然消滅」という用語について、コメントを頂いた。この用語は「地方競馬史第1巻」で使われている用語である。その意味を、私は次のように解している。

 即ち、地方競馬規則に基づく競馬場の指定は最後まで取り消されなかったが、競馬開催は行われなかった。そして、地方競馬規則の廃止により競馬場として消滅したと云うことでは無いかと解釈している。蓋し、軍馬資源保護法の制定により廃止された地方競馬規則に基づく競馬場に対しては、残存施設等に対して補償措置がとられているが、稚内競馬場に対しては補償がされていないことが、地方競馬史第1巻から読み取られるからである。廃止競馬場に対する補償措置がとられた当時には、稚内競馬場のかつての諸施設は腐朽、朽ち果てていたのではないかと考えられる。また、地方競馬規則では、地方競馬場は北海道の場合、各支庁管内に一つ開設できるのであるが、稚内競馬場のあった支庁管内には、後にも先にも他の競馬場はなかったからである。


<羽幌競馬場> 昭和22年8月29日撮影。USA-M454-59



堪忍袋=偏屈親爺の狷介録=-羽幌競馬場



 羽幌競馬場は、昭和4年6月17日、地方競馬規則に基づく許可を受けて開設され、第1回競馬は、同年6月22日から2日間開催された。

 同競馬場では、昭和4年から13年まで、12回27日間、競馬が開催された。平成14年、地方競馬規則が廃止され、軍馬資源保護法(昭和14年法律第76号)に基づく鍛錬馬競走の競馬場には、指定されず、廃場となった。

 荒尾と同じく、炭坑の町の競馬場であった。


 馬場の1周は1000m。現在地は、北海道苫前郡羽幌町南町から栄町の羽幌高校及び老人ホームの辺り。


【追記】

 写真をクリックすると若干は拡大する。また、写真番号は国土地理院ホームページの当該写真にリンクさせてある。適宜、+ボタンを押して閲覧されたい。

 なお、リンク先は写真のみである。撮影年月日その他の情報は、国土地理院ホームページ、地図・空中写真閲覧サービスの空中写真検索で、整理番号、コース名、写真番号に記事中に記載した写真名を入力して検索されたい。









 私は、地図を見るのが好きである。地図を見ていると、行ったことも無い場所でも、現地に居る気がしてくるからであり、そこに何らかの新しい発見を仮想現実として体感できる気がするからである。


 そんなことから、国土地理院のホームページ にある2万5千分の1地図を眺めることを楽しみにしている。このホームページには、その後、「国土変遷アーカイブ」として航空写真もアップされるようになった。当初は、戦後すぐに占領米軍が写した写真ばかりであった。しかし、その写真から、古い競馬場の航空写真を探し出して見る楽しみに暫くはまっていた。

 その後、日本が独立して徐々に航空管制権を取得してからの航空写真もアップされるようになり、米軍撮影の航空写真では見つけることの出来なかった古い競馬場の航空写真も見ることが出来るようになった。


 そこで、毒のないことで申し訳ないが(前段の表現には毒があるか?)、見つけた昔の競馬場の航空写真を北から順次照会したいと思う。

 なお、旧競馬場という時の「地方競馬場」については、地方競馬全国協会発行の地方競馬史第1巻に掲載されている「地方競馬場」を指すこととする。というのは、そこに記載されていないが、馬場らしきものが看取される航空写真が存在するからである。それは、所謂「闇競馬」が行われた競馬場かもしれず、乃至は単に調教施設であったのかもしれない。それは、その際に注記することとする。


 ところで、一つだけ、ハッキリさせて置かなければならないのは、「地方競馬場」の歴史については、帝国馬匹協会が昭和14年に発行した「地方競馬沿革誌」が、ほぼ唯一の典拠らしいと言うことである。そして、「地方競馬場」について記述されている殆どの文献は、「地方競馬史第1巻」も含めて、「地方競馬沿革誌」からの子引き孫引きの可能性が高いと思われることである。このような場合には、歴史学研究における「史料批判」の如き態度が不可欠である。文献にあるからといって、そのまま事実として受け入れる前に、真に事実であるか否かを検証することを怠ってはならない。以下、必要に応じて、その様な史料批判という回りくどい記述をするかもしれないことをお断りしておく。



次回以降、北から順次、昔の競馬場をご紹介させて頂く。



[追記] 国土地理院ホームページの国土変遷アーカイブには、戦前に帝国陸軍が撮影した航空写真(昭和11年~20年)も追加された。が、しかし検索条件にその年が入力できない。何たることか。←現在は改善されている。

 なお、航空写真では見つけることができなかった競馬場の所在地については「古地図で巡る消えた競馬場 」を参照した。また、昭和14年頃に撮影された競馬場の写真が掲載されているホームページ「全国地方競馬場写真帖 」を紹介させていただく。