<八戸競馬場>
・旧八戸競馬場(天女ヶ窪競馬場)
八戸地方では、八戸競馬会という団体が組織され、道路を利用して競馬が行われていたという。明治42年に至り、馬産関係の有力者が自己の放牧地である三戸郡鮫村大字浜通り天女ヶ窪に1周1マイルの馬場を作り、八戸競馬会がこれを借り受けて観覧席、厩舎等の施設を建設して、明治43年6月に第1回の競馬を開催したという。
明治45年からは青森県産馬畜産組合連合会の主催になったと謂うから、このときから競馬規程に基づく競馬場となったのであろう。
昭和2年に地方競馬規則が制定されたが、天女が窪競馬場において地方競馬規則に基づく、昭和2年の春秋開催が行われたようである。地方競馬史第1巻の記述は明快さを欠くが、この開催をもって新八戸競馬場に移転、廃止されたと思われる。
現在地は不詳であるが、鮫村は現在の八戸市鮫町。浜通りというとその海岸側であろうが天女が窪という地名は現在使用されていない。ただ、現在のタイヘイ牧場、西村牧場はこの地域の戦争直後の航空写真、例えばUSA-M656-2-5 、USA-R272-93 に写っており、これを200dpiで閲覧すると、タイヘイ牧場の馬場に延長して、現在の八戸南高校まで外コースが認められる。この外コースは1周1600mはありそうである。この辺の地名には現在、先祖ヶ久保という地名がある。このタイヘイ牧場がかつての天女ヶ窪競馬場であったのではないか推測している。
【付記】 タイヘイ牧場ではかつて競馬が行われたとの話(ただし、信憑性は分からない。その話の記事には「御陵牧場」との記載もあるが、これは誤りであろう。) もある。
また、地方競馬史第1巻には、新八戸(根城)競馬場について、高低差のほとんど無い理想的な競馬場として移転した旨の記述があるが、これは旧八戸(天女ヶ窪)競馬場と比較しての記述であると思われるところ、タイヘイ牧場馬場の最も低いところから八戸南高校までは、地形図で見ると20m以上の高低差がある。
・新八戸競馬場。昭和22年11月17日撮影。USA-M656-1-1
(新)八戸競馬場は、昭和2年6月、株式会社八戸競馬倶楽部が組織されて建設されたという。昭和3年1月に八戸畜産組合が競馬場を譲り受け、昭和3年7月1日日から地方競馬規則に基づく競馬を開催。軍馬資源保護法の制定に伴い、昭和13年秋季開催をもって一旦廃止。
地方競馬法の制定をうけて再開設。昭和22,23年に同法に基づく競馬を6回29日開催。引き続き競馬法に基づく競馬を開催したが、昭和26年の開催をもって廃止。
馬場の1周は1600m。現在地は、八戸市根城3,4,5,6丁目。
上の航空写真は最古のものであるが、翌年撮影のUSA-R272-114
の方が縮尺が大きい。廃止翌年の写真はUSA-M175-49
<金木競馬場>昭和23年5月10日撮影。USA-R1406-27
金木競馬は大正元年7月8日(旧暦6月1日。この日を、この地方では農村安息日と言っていたようである。)に、後の金木競馬場の地である町有地を借りて、行われたのが初めという。その後毎年1回、旧暦6月1日に金木町協賛会及び商工会の協賛によって競馬を開催したというから、競馬規程上の祭典競馬として、競馬が行われたのであろうし、常設の競馬場施設があったのか否か定かでもない。
昭和2年に至り、地方競馬規則の制定をうけて青森県産馬畜産組合が競馬施行許可を受け、昭和3年7月17日から競馬を開催。以後、毎年春季開催2日を開催し続けたが、昭和13年は休催。そのまま軍馬資源保護法の制定によって、廃止された。
馬場の1周は1600m。現在地は、五所川原市金木町の金木高校の東方200~300mの畑地
<野辺地競馬場>
上北郡野辺地町では、明治39年から昭和初期まで競馬が行われていたが、昭和6年に馬場が閉鎖されたという。
それ以外は一切、不詳である。
<青森競馬場>
青森競馬場については、以下に述べるとおり解釈に苦しむことが多い。留保付きの記述であることをおことわりしておく。
・古青森競馬場
(古)青森競馬場は、野辺地競馬場の閉鎖を受けて、青森市造道に青森競馬倶楽部が創設され、昭和7年8月8日から競馬を開催したという。ただ、主催者が畜産組合、畜産組合連合会ではないので、地方競馬規則上は勝馬投票の的中者に景品券を交付できない競馬であったのであろうと思われるが、地方競馬史第1巻の青森競馬場の項には、昭和7年の入場券発売高が記録されている。当時の入場券は、勝馬投票券が付けられているので、真相は分からないとしか言いようがない。
ともあれ、この造道競馬場は昭和7年の春秋開催のみで以後休催し、昭和9年には青森競馬倶楽部は解散したという。
馬場の規模、現在地ともに不詳。
・旧青森競馬場。昭和23年5月15日撮影。USA-M1011-80
(旧)青森競馬場は、青森競馬倶楽部の解散をうけて、青森県産馬畜産組合連合会が、東津軽郡横内村大字田茂木野字大沢に競馬場を建設し、昭和10年春季、11年春秋、12年秋季の競馬を開催。以後休催したまま、軍馬資源保護法の制定に伴い、この田茂木野競馬場は廃止された。
馬場1周は1600mと思われるが、地方競馬史の記述は新青森競馬場の1周かもしれない。現在地は青森市横内田茂木野大沢の東奥学園高校総合グランド周辺。
上の航空写真は最古のものである。方角が270度ずれているが、3ヶ月後に撮影されたUSA-M1147-65 を高解像度で閲覧した方が見やすいかもしれない。
・新青森競馬場。昭和23年5月15日撮影。USA-R1429-2
(新)青森競馬場は競馬法に基づく地方競馬場として開設。昭和24年から競馬を開催。昭和26年の開催をもって廃止。
馬場の規模は不詳。現在地は、青森市佃2,3丁目。馬場の形状が道路として残されている。
上の航空写真を競馬法に基づく地方競馬が開催された(新)青森競馬場と推定し、現在地を比定したのであるが、この写真の撮影年月日は競馬法に基づく青森競馬が開催される前年の写真である。しかし、青森競馬場の所在地としてこの地をあげるものが多いから、建設中の写真として斯様に推定したのである。もしかすると、これは古青森競馬場であるかもしれない。この地の地名は現在の青森市佃であるが、古青森競馬場の所在地と思われる造道の現在の地名は、この地のすく北側の海岸付近であるから、当時はこの地の地名も造道であったかもしれない。
とすると、(新)青森競馬場は、(古)青森競馬場であったのか、(旧)青森競馬場であったのか、疑問が残る。
この地域の航空写真には、戦前のものはなく、最も古いものは昭和22年撮影のUSA-M638-2 であるが、雲がかかり、且つ、画像が荒くて判然としないが、高解像度で閲覧すると、この馬場写っているようにも見える。そうとすると、上の航空写真は建設中の写真とは言えなくなる。そして、この地域の航空写真は、以後昭和37年のMTO621X-C8-15 まで無く、ここでは馬場がだいぶ壊されている。一方、旧青森競馬場も、その後の航空写真は昭和37年のMTO621X-C10-17 まで無い。この写真にも、だいぶ壊されているが馬場の痕跡が写っている。競馬法に基づく地方競馬が行われた青森競馬場はどちらであったのか、判然としない。
以上で、全47都道府県の競馬場の紹介を終えるが、あと2回ほど番外編を記述したい。
最後にご紹介しておきたいのは、帝国馬匹協会が作成した全国地方競馬場写真貼という冊子があるらしいということである。その写真がUPされているホームページ がある。同ページの管理者は昭和13,14年の撮影と考証されているが、これは間違いないところであろう。
<盛岡競馬場>
・古盛岡競馬場(黄金競馬場)
古盛岡競馬場は、明治35年に産馬組合連合会が主体となって競馬会を組織して、翌36年に盛岡市仁王大字上田に競馬場を開設し、同年11月3,4日に落成記念の第1回競馬を開催したという。そして同月30日に開催した臨時競馬をご覧ぜられた閑院宮殿下により、「黄金競馬場」と名付けられたという。この明治36年は、馬券黙許のもとに明治39年に開設された池上競馬場よりも古いものであり、競馬の根拠法令も未整備の時代である。古盛岡競馬場よりも古く、その後も存続していた競馬場は、横浜、札幌、函館だけだと思われる。
この古盛岡競馬場では以後毎年、春秋2季の競馬が開催し続けられたという。この間、明治39年には閣令9号で競馬開催を目的とする法人の設立及び監督に関する件が制定され、その後の中央競馬の源流となったが、盛岡ではこの閣令に基づく競馬会は設立されなかった。また、明治41年に制定された競馬規程は、明治43年の改正により産牛馬組合も競馬を開催することが出来ることとなった。古盛岡競馬場はこの時点で競馬規程に基づく競馬場となったのであろう。
明治45年には馬場の拡張と施設の整備が行われたという。
昭和2年に至り、地方競馬規則の制定とともに同規則に基づく競馬場としての許可を4月9日に受け、5月21日から地方競馬規則に基づく競馬を開催。昭和7年秋季開催をもって所在地の耕地整理のために付近の毛無森に移転したという。
馬場の規模は不詳。現在地の詳細は不明。
・旧盛岡競馬場(黄金山競馬場)=昭和23年5月15日撮影。USA-R1428-104
旧盛岡競馬場は古盛岡競馬場の名称を受けて黄金競馬場とも呼ばれたし、黄金山競馬場とも呼ばれていた。ともあれ、旧盛岡競馬場では、昭和8年秋季開催から地方競馬規則に基づく競馬が開催された。軍馬資源保護法の制定に伴い、昭和13年秋季開催をもって一旦廃止。
昭和22年に至り、地方競馬法に基づく競馬場として再開設。同年に4回20日の競馬を開催。引き続き競馬法に基づく競馬を開催。平成8年に新盛岡競馬場に移転、閉鎖。
馬場の1周は1600m。現在地は盛岡市上田毛無森、上田堤頭、上田上堤頭、上田庚申窪、上田黒石野平、上田下黒石野平。
上の航空写真は高解像度で閲覧しないと馬場の全部が見られない。縮尺は小さいが全景が写っている航空写真はUSA-M1022-26 。最古のカラー写真はCTO766-C3C-6 。移転前の最も新しい写真は平成6年撮影のTO941-C4-19
・新盛岡競馬場=平成9年10月22日撮影。CTO972X-C5-10
新盛岡競馬場は、旧盛岡競馬場から移転、平成8年4月1日開設。
馬場の1周は1600m。最新の航空写真はCTO20082-C3B-5
<水沢競馬場>
・旧水沢競馬場=昭和22年11月1日撮影。USA-M621-136
水沢競馬は、明治45年(大正元年)から半マイルの馬場で、駒形神社の祭典の余興として、春秋2回開催されたという。大正11年に至り、馬場を東上町の南接の地に移転し、1周1600mとし、投票所等も設置したと言うから、この頃からこの前後から競馬規程に基づく競馬を開催したのであろう。
但し、競馬規程では産牛馬組合の行う競馬に於いては馬券発売は認められていなかったのであるが、投票券付き入場券を発売し、的中者に景品を渡すという脱法行為は競馬規程時代の「地方競馬」では広く行われていたらしい。地方競馬規則に於いては、これが制度化されたのである。
昭和2年の地方競馬規則制定をうけ、胆沢郡産馬畜産組合は翌3年4月2日に競馬施行許可を受けて同年5月3日から競馬を開催。軍馬資源保護法の制定に伴い。昭和13年春季開催をもって、一旦廃止。
昭和22年に至り、地方競馬法に基づく競馬場として再開設。同年と翌23年に合計4回22日の競馬を開催。引き続き競馬法に基づく競馬を開催し、昭和39年に新水沢競馬場に移転、閉鎖。
馬場の1周は地方競馬規則の時代までは1周1600mであるが、以下に述べるように再開設時に距離が短縮されているようである。現在地は奥州市水沢区中上野町の水沢公園
上の航空写真は最古のものであるが、より縮尺の大きい翌年撮影の写真はUSA-R1424-8 。この写真を高解像度で閲覧すると外回りコースらしきものが見られる。これがかつての1600m馬場であろう。しかし、この写真の次に撮影された移転2年前のMTO625X-C3-8 には、外回りコースは見ることができない。
・新水沢競馬場=昭和41年8月30日撮影。TO664Y-C5-1
昭和39年4月に旧水沢競馬場から移転開設。馬場の1周は1200m。
上の航空写真の左端には旧水沢競馬場の一部が移っている(リンク先の画像を高解像度で閲覧しないと見ることができない。)。
最古のカラー写真はCTO7610-C19-24 。1600mの発走ポケットは昭和60年撮影のTO852X-C9-12 で初めて認めることができる。最新の写真はTO20052X-C2-23
<花巻競馬場>昭和22年11月1日撮影。USA-M621-273
花巻競馬場は大正競馬規程に基づく競馬場として、大正15年(昭和元年)5月1日に稗貫郡産馬畜産組合が施行許可を受け、同年10月23日から競馬を開催。引き続き、地方競馬規則に基づく競馬を春秋各1回開催したが、昭和8年は春季のみ、翌9年は秋季のみの開催となり、10,11年は休催。12年春季開催が行われた後は開催が行われず、消滅した。
馬場の1周は1600m。現在地は花巻パーキングエリアの東方、花巻市南諏訪町、諏訪、大谷地。
上の航空写真は最古のものであるが、翌年撮影のUSA-R1424-44 が、縮尺も大きく鮮明。
今回、たちあがれ荒尾競馬で、貴方の写した荒尾競馬ベストショットを募集しています。応募いただいた作品は12月1日と荒尾の最終日に配布予定の「あらおけいばかわら版vol9」に掲載予定です(応募多数の場合は、掲載できない場合もあります。)。
皆様の荒尾挽歌を奏でて下さい。
詳しくはこちらの10月13日記事からご覧下さい。
↓
http://ameblo.jp/araokeiba-fan/
宮城県では古い昔から神社の祭礼に馬を連れて参拝する風習があり、神社には200m程の直線馬場が在って、参拝後に競走が行われたという。
明治17年8月頃に県の命令と思われる乗馬飼養令が発布されてからは、仙台市青葉下、宮城ノ原、川内追廻練兵場、栗原郡築館町伊豆野原などで競馬会が開かれたという。
明治44年に至り仙台産牛馬組合が常設競馬場を計画中に行幸があり、宮城ノ原練兵場で組合主催による展覧競馬を開催したという。そして、明治45年春季から大正4年秋季までは、宮城ノ原あるいは川内追廻練兵場で毎年1,2回ずつ競馬を開催したという。この競馬は、産牛馬組合主催競馬ということから、競馬規程に基づく競馬であったと思われる。
<蛇田競馬場>
蛇田競馬場は、それまで練兵場を借りて行われていた競馬を常設競馬場で行うために、牡鹿郡蛇田村に開設された競馬規程に基づく競馬場である。
蛇田競馬場では大正5年春季開催から大正14年秋季開催まで、競馬が行われたという。
馬場の1周は800m。現在地は不詳であるが、後の石巻競馬場の可能性もある。
<吉岡競馬場>
吉岡競馬場は、黒川郡吉岡町場内に開設された競馬規程に基づく競馬場である。
吉岡競馬場では大正6年秋季開催から競馬が行われたが、翌7年秋季開催をもって廃止された。
吉岡競馬場廃止後の大正8年春季開催は、仙台市の川内追廻練兵場て開催された。
馬場の1周は800m。現在地は不詳。
<色麻競馬場>
色麻競馬場は、加美郡色麻村の宮城県産馬畜産組合種馬育成所に開設された競馬規程に基づく競馬場である。
色麻競馬場では大正13年春季開催が行われた。
馬場の1周は800m。現在地は不詳。
<鳥矢崎競馬場>
鳥矢崎競馬場は栗原郡鳥矢崎村駒崎に開設された地方競馬規程に基づく競馬場である。
鳥矢崎競馬場では大正13年秋季開催から昭和2年春季開催まで競馬が開催された。
馬場の1周は800m。現在地は不詳。
<愛子競馬場>
地方競馬規則の制定をうけ、上記の各競馬場は廃止され、地方競馬規則に基づく競馬は、第2師団宮城ノ原練兵場の仮設馬場で行われることとなり、昭和3年春秋及び昭和4年秋季開催は、同仮設馬場で行われた。
昭和4年秋季にいたり宮城郡広瀬村上愛子に競馬場を建設して、地方競馬規則に基づく競馬を開催した。しかし、成績不振で昭和6年秋季開催をもって廃止。小牛田競馬場へ移転した。
馬場の1周は1200m。現在地は不詳。
<小牛田競馬場>
小牛田競馬場は、愛子競馬場から移転、遠田郡小牛田町字石神囲に開設。昭和7年4月30日に競馬場竣工5月6日から競馬を開催。冷害凶作と日中事変の影響を受け、昭和12,13年は春季開催のみ。軍馬資源保護法の制定により廃止。
馬場の1周は1200m。現在地は不詳。
<石巻競馬場>昭和27年10月31日撮影。USA-M180-2-141 なお、この写真は高解像度で閲覧しないと全景を見ることが出来ない。。
石巻競馬場は地方競馬規則に基づく競馬場として昭和6年、牡鹿郡蛇田村字水神に開設。同年5月22日から競馬を開催。昭和11年に至り、競馬場敷地の半分以上が第2師団の工兵演習地として買収されたため、同年秋季開催をもって廃止された。
昭和23年に競馬法に基づく地方競馬場として再開設。昭和34年の開催をもって廃止された。
馬場の1周は1200mというが、地方競馬規則時代と競馬法時代が同一か否かは不詳。また、上の航空写真の現在地は石巻市雲雀野町1丁目の雲雀野公園であるが、地方競馬規則時代と同一場所であるか否かも不詳。というのは、地方競馬史第1巻に掲載されている石巻競馬場平面図に記載されている方位と上の航空写真及び現在地地図の方位とが一致しない。むしろ、地方競馬規則時代の石巻競馬場と競馬法時代の石巻競馬場とは、別個の競馬場であった可能性の方が高いと思う。
<仙台競馬場>昭和22年10月31日撮影。USA-R433-63
。
仙台競馬場は地方競馬規則に基づく競馬場として昭和6年、仙台市郡山字新々田に開設。同年5月23日から競馬を開催。軍馬資源保護法の制定に伴い、昭和13年秋季開催をもって一旦閉鎖。なお、宮城県内では軍馬資源保護法に基づく競馬は行われなかった。
昭和22年に至り、地方競馬法に基づく競馬場として再開設。同年に4回、翌23年に2回の地方競馬法に基づく競馬を開催。引き続き、競馬法に基づく競馬を開催したが、昭和34年の開催をもって廃止された。
馬場の1周は1200m。現在地は仙台市太白区東郡山1丁目、2丁目。
上の航空写真は最古のものであるが、昭和27年撮影のUSA-M174-360 の方が鮮明。
<八橋競馬場(旧秋田競馬場)>
八橋競馬場は、秋田郡寺内町八橋の種畜運動場に秋田県畜産組合が馬場を建設して大正3年から競馬を開催したというから、当初は競馬規程に基づき開設された競馬場であったのであろう。昭和2年に至り新たに制定された地方競馬規則に基づく競馬場としての競馬施行許可を同年9月26日に受け、昭和3年5月5日から、同規則に基づく競馬を開催したという。
しかし、地方競馬史の八橋競馬場の年次成績の表には、昭和2年の春季開催の成績も記載されている。春季開催、秋季開催といっても、他の競馬場の表を見ても、実際には、季節としての春秋には関係ないようではあるが、年の違いはあり得ないと思われるので、昭和2年の春季開催とは、競馬規程に基づく春季開催であろうか?
ともあれ、昭和3年春季開催をもって一旦休場し、昭和9年春季開催から復活。以後、毎年春季開催1回を行った。昭和13年には春秋2開催を行ったが、軍馬資源保護法の制定に伴い、八橋競馬場は整理され、廃止された。
馬場の規模は1周1000m。現在地は不詳。
<後三年競馬場>昭和22年11月1日撮影。USA-M621-261
後三年競馬は、大正3年に後三年顕勝会なる団体が競馬を開催したのが初めという。と同時に、仙北郡の長野村川口、六郷町冀北、金沢西根村で秋季に行われていた娯楽競馬が後三年競馬に統合されたという。
大正12年からは、後三年競馬の経営は秋田県畜産組合に移管され、同年10月13日に第1次競馬を開催したというから、ここから競馬規程に基づく競馬場となったのであろう。
そして、昭和2年10月22日から地方競馬規則に基づく競馬を開催し、以後同規則に基づく競馬を毎年1回開催し続けたが、軍馬資源保護法の制定に伴い、整理され、廃止された。
馬場の規模は1周1600m。現在地は仙北郡美郷町飯詰東西法寺、南西法寺。馬場の北半分程度が現在も道路として残されている。
上の航空写真は最古のものであるが、翌年撮影のUSA-R270-91 の方が縮尺が大きい。
<大上競馬場>昭和23年5月20日撮影。USA-R270-66
大上競馬は大正6年から、県南競馬会という名で平鹿郡館合村の土田農場で競馬を開催してきたという。昭和7年に至りその経営が秋田県畜産組合に移管されたことから、地方競馬規則に基づく開催許可を受け、同年11月10日から地方競馬規則に基づく競馬を開催したという。
軍馬資源保護法の制定に伴い、昭和13年秋季開催をもって廃止された。
馬場の1周は1600m。現在地は横手市大雄、雄物川町薄井の堤防内。
【付記】 地方競馬史は大上競馬場の所在地を平鹿郡阿気村字藤巻中島(藤巻は上の航空写真の右下に写っている集落)とする。とすると、舘合村にあったという当初の大上競馬場は、そのご移転が行われたのであろうか。しかし、一方では大上競馬場の施設は土田荘助氏所有で開催中のみ借り受けとも記載されている。
舘合村と阿気村、よく分からないと言うしかない。なお、舘合は、上の航空写真をリンク先でみていただくと、一番下方に見える道路の湾曲した集落に舘合郵便局がある。
<秋田競馬場(新秋田競馬場)>昭和37年9月15日撮影。MTO628-C22-5
秋田競馬場は、競馬法に基づく地方競馬場として開設され、昭和23年から28年まで延べ14回の秋田県営競馬が開催された。昭和29年12月15日付で正式に廃止された。
馬場の規模は1周1000m。現在地は秋田市八橋大道東の全域。
この地域の航空写真は、廃止後8年の写真の上記航空写真前の写真は秋田競馬場開設前の昭和23年5月16日撮影のUSA-M1022-3 まで無い。しかも、縮尺が小さい。しかし、ほぼできあがった馬場があるようにも見える。
【追記】 なお、写真の秋田競馬場の右下に陸上競技場や野球場が写っている場所が八橋であって、ここに旧秋田競馬場(八橋競馬場)が在ったのかもしれない。
<大館競馬場>昭和23年5月14日撮影。USA-R1416-32 。なお、この写真は上が南になっているため、下の写真では補正した。
大館競馬場は地方競馬法に基づく競馬場として昭和23年に開設。同法に基づく競馬を1回開催した後、競馬法に基づく秋田県営競馬を昭和28年まで延べ13回開催。昭和29年12月15日付で正式に廃止された。
馬場の1周は1200m。現在地は大館市根下戸新町の市立城西体育館周辺。
<酒田競馬場>昭和22年11月13日撮影。USA-M541-2
酒田地方では明治時代から花競馬(意味は不詳)なるものが開催されていたという。大正9年に至り、酒田競馬倶楽部なるものが組織され、大正14年からは光が丘運動場で春秋2回の花競馬が開催されたという。地方競馬史の記述は、やや混乱しているが大正11年に、地方競馬場としての認可申請(年代からすれば競馬規程にに基づく地方競馬場か?)を行ったが、狭隘さと施設不備で却下されたというから、光が丘運動場以外の場所で競馬が行われていたのかもしれない。
昭和2年に至り、光が丘の杉林に専用競馬場を建設し、地方競馬規則に基づく酒田競馬場として開設され、翌3年9月1日から競馬を開催。途中休催の年もあるが、昭和13年秋季開催まで競馬を開催し、軍馬資源保護法の制定に伴い、廃止された。
馬場の1周は1000m。現在地は酒田市光ヶ丘5丁目。なお、上の航空写真の馬場の南方に写っているのは光が丘運動場。
【付記】 地方競馬史第1巻には、「花競馬」のほかにも「観音競馬」なる語が出てくる。いずれも説明が無く使われているので、意味が不明である。「祭典競馬」なる語も同様かもしれないが、こちらは競馬規程に根拠を有す用語であるということは、今日でも推察できるが、「花競馬」「観音競馬」は解らない。想像をたくましくすれば、「観音」は馬頭観音をまつるという名目で行われた祭典競馬、「花競馬」はハナという言葉の使われ方して賭博競馬ということであろうか?
稚内競馬場の項で、地方競馬史第1巻の用語をそのまま用い、「自然消滅」と記述したところ、驚きのコメントをいただいた。その後、同書の他の記述を見ていて、「自然消滅」とは、次のような意義ではないかと推察した。
地方競馬規則に基づく競馬場は、地方競馬規則が廃止され、軍馬資源保護法が制定された際に、多くが整理され、閉鎖された。その際、各競馬場では整理計画が策定され、残存資産等について補償がなされたのであるが、稚内競馬場は整理計画が策定されていない。ということは、それ以前に稚内競馬場は競馬場としての実態の消滅(経営主体の精算解散あるいは施設等の朽ち果て等)が進んでいたということでは無かろうか。そのことを指して「自然消滅」との記述がなされたのでは無かろうか。
しかし、同書全体からそのように推察されるのであって、当該部分の記述としては丁寧さに欠けるといわざるを得ない。「観音競馬」、「花競馬」の用語の使い方も同じである。どちらかといえば、おざなりな作成だと思われる地方競馬史を読む際には注意が必要である。
<新庄競馬場>昭和21年4月23日撮影。USA-M113A-5-128
新庄競馬場は、昭和3年、地方競馬規則に基づく競馬場として最上郡新庄町十日町字八幡原に開設。同年11月3日から競馬を開催。昭和12年開催及び13年春季開催を除き、競馬を開催し続けたが、軍馬資源保護法の制定に伴い、昭和13年秋季開催をもって廃止された。
馬場の1周は1000m。現在地は新庄市十日町の山神社東北の泉田川の段丘上の水田。
<上山競馬場>昭和22年11月13日撮影。USA-M646-No1-22
上山競馬は、上山競馬倶楽部という団体が堀田村大字金瓶に馬場を作って競馬を行っていたのが始まりというが、それが何時の頃からかは不詳。ただ、その様な団体が競馬を行うことが出来たのは、競馬規程上の祭典競馬、地方競馬規則上の的中者に景品券を発行しない競馬としてでは無かろうか。とすると、上山競馬場は、競馬規程の時代から現行競馬法の時代まで、同一地で競馬を施行し続けた全国でも希有の地方競馬場ということになる。
昭和11年にいたり、山形県畜産組合連合会が経営主体として地方競馬規則に基づく競馬施行許可を受け、同年10月18日から競馬を開催。爾後、軍馬資源保護法、地方競馬法、競馬法に基づく競馬を開催したが、平成16年度の開催をもって廃止された。
馬場1周は当初1000m、後1050m。現在地は上山市金瓶湯坂山のニュートラック上山等。
上の航空写真の翌年撮影のUSA-R1910-A-28 の方が縮尺は大きい。
最古のカラー写真はCTO7619-C10A-50 。なお、この写真に見える3コーナーの1500m発走地点のポケットは、この写真では工事中の様であり、完成形はTO804-C18-5 。廃止前の最新の写真はTO983X-C10-13 。廃止3年後の写真はCTO20073-C19-117
<米沢競馬場>昭和23年6月8日撮影。USA-R1501-26
米沢競馬場は地方競馬法に基づく競馬場として昭和22年に開設。昭和22年及び23年に同法に基づく競馬を各1回開催。次いで競馬法に基づく地方競馬場として昭和23年に1回の競馬を開催。以後休催し、昭和29年3月11日に正式に廃止された。
馬場の規模は不詳。現在地は米沢市万世町牛森、万世町堂森、八幡原1丁目・5丁目一帯。
福島県の競馬は、明治20年春信夫山招魂社祭典に当たって、山麓に4ハロンの馬場を新設して競馬を行ったのが初めという。
この競馬は、明治30年頃までは春秋2回の開催が引き続き行われたが、明治35年頃には消滅したという。
<郡山(開成山)競馬場>昭和16年4月11日撮影。C48-C1-71 。
開成山競馬場は、安積郡桑野村開成山に建設され、明治37年4月24日から競馬を開催したという競馬規程制定前から競馬を開催していた競馬場である。昭和2年の地方競馬規則の制定を受け、投票所等の建物を整備し、翌昭和3年3月21日から地方競馬規則に基づく競馬を開催した。引き続き軍馬資源保護法に基づく競馬を開催したが、昭和19年、全ての競馬の休止とともに閉鎖され、一旦消滅。
昭和24年に至り、競馬法に基づく郡山競馬場として再開設。昭和31年の開催をもって廃止された。
馬場の1周は1100m。現在地は郡山市開成1丁目の開成山公園。
上の航空写真は最古のものであるが、戦後撮影のUSA-R357-34 の方が鮮明。
<原町(雲雀ヶ原)競馬場>昭和22年9月17日撮影。USA-M485-137 。
原町競馬場は、相馬野馬追い宵乗り競馬等の競馬が行われていた雲雀ヶ丘に、地方競馬規則に基づく競馬場としての許可を受け開設された競馬場である。従って、法制的には昭和2年開設とされ、同年10月28日から地方競馬規則に基づく競馬が開催された。昭和12年秋季開催をもって休止。軍馬資源保護法の制定に伴い、いったん廃止。昭和22年に至り、地方競馬法に基づく競馬場として再開設。昭和23年の開催をもって廃止された。
馬場の1周は1200m。現在地は、南相馬市原町区牛来、中太田の雲雀ヶ原競馬場。
原町競馬場は、地方競馬法の廃止に伴い、競馬法に基づく地方競馬場としては開設されることなく廃止されたが、相馬野馬追いの甲冑競馬、神旗争奪戦の行われる雲雀ヶ原競馬場として現在に至っている。現在の馬場が写っている最古の航空写真は、下のものTO6313X-C3-8
である。
雲雀ヶ原競馬場の最古のカラー写真はCTO7530-C15A-43
。最新の航空写真はTO20003Y-C2-7
。
<会津(若松)競馬場>昭和21年撮影。USA-R298-A-6-23
会津競馬場は、地方競馬規則に基づく競馬場として昭和4年に北会津郡一箕村大字上蚕養に開設。翌5年5月6日から競馬を開催。爾後、昭和12年秋季開催を除き、競馬を開催し続けたが、軍馬資源保護法の制定に伴い、昭和13年秋季開催をもって、一旦、閉鎖。
昭和24年に競馬法に基づく地方競馬場として、若松競馬場の名称で再開設。昭和25年の開催をもって廃止された。
馬場の1周は1200m。現在地は会津若松市山見町、一箕町大字亀賀。
<福島競馬場>昭和22年撮影。USA-R416-2
福島競馬場は、大正7年に静岡県の藤枝競馬場から移転開設された中央競馬場である。
地方競馬場としては、昭和22年に地方競馬法に基づく競馬場として設置許可を受け、翌23年まで合計6回36日間の競馬が行われたが、競馬法に基づく地方競馬場としては指定されなかった。
当時の馬場は1周1609m(芝と思われる。)。現況は芝1600m。ダート1446.6m。
最古のカラー写真はCTO7529-C9-23 。両襷の障害コースは昭和62年撮影のTO874X-C1-7 までは存在しているように見えるが、平成4年撮影のTO921-C3A-10 では取り壊されているように見える。
最新の航空写真はCTO20071-C9-11























