堪忍袋=偏屈親爺の狷介録= -3ページ目

堪忍袋=偏屈親爺の狷介録=

アメンバー登録したら出来てしまったブログですので、ここには何も掲載しないと思います。←と言いましたが、私家版のブログにしました。タイトルも設定しました。

<荒川沖競馬場>


 荒川沖競馬場は大正13年5月、稲敷郡朝日村大字荒川沖に開設。茨城県には、県独自の競馬に関する規程が無かったようであるから、競馬規程(明治41年閣令第1号)に基づく競馬場であったらしい。当初の馬場は1周800m。地方競馬規則(昭和2年農林・内務省令)に基づく競馬場となるに際して1周1000mに改造。

 昭和3年4月3日から地方競馬規則に基づく競馬を開催。軍馬資源保護法の制定に伴い、昭和13年秋季開催をもって廃止された。

 現在地は不詳。


<高萩競馬場>


 高萩競馬場は、地方競馬規則に基づく競馬場として多賀郡高萩町に開設。昭和4年春季開催から競馬を開催。成績不振の故に昭和6年秋季開催をもって休止。昭和9年に至り水戸競馬場へ移転、廃止となった。


 馬場の規模、現在地ともに不詳。


<水戸競馬場>昭和21年6月26日撮影。USA-M177-A-7-26


堪忍袋=偏屈親爺の狷介録=-水戸競馬場


 水戸競馬場は地方競馬規則に基づく競馬場として高萩競馬場から移転、開設。昭和9年4月から競馬を開催。成績不振の故に昭和11年秋季開催をもって休止。昭和13年にいたり、古河競馬場に移転、廃止された。


 馬場の規模は不詳。現在地は水戸市水府町の茨城県職業人材センター。


<古河競馬場>

・旧古河競馬場。昭和16年3月31日撮影。C72-CA-13


堪忍袋=偏屈親爺の狷介録=-旧古河競馬場


 旧古河競馬場は、地方競馬規則に基づく競馬場として、水戸競馬場から移転開設。昭和13年10月29日から競馬を開催。軍馬資源保護法の制定に伴い、昭和13年秋季開催をもって、廃止された。


 馬場の1周は1000m。現在地は古河市桜町、長谷町の渡良瀬川堤防沿い


・新古河競馬場。昭和23年3月30日撮影。USA-R1199-27


堪忍袋=偏屈親爺の狷介録=-新古河競馬場


 新古河競馬場は、地方競馬法に基づく競馬場として昭和22年8月に開設。爾後、競馬法に基づく競馬を開催。昭和34年の開催をもって廃止された。


 馬場の規模は不詳。現在地は古河市北町の古河第6小学校周辺。道路の一部に馬場の形態を残している。
 廃止2年後の航空写真はMKT612-C33-8

 

<結城競馬場>


 結城競馬場は地方競馬規則に基づく競馬場として、結城郡結城町に昭和6年に開設。同年秋季開催から競馬を開始。成績不振で、一旦休場、再開したが、昭和10年秋季開催をもって取手競馬場に移転廃止。


 馬場の規模、現在地ともに不詳。


<取手競馬場>昭和16年4月1日撮影。A3-C1-2


堪忍袋=偏屈親爺の狷介録=-取手競馬場


 取手競馬場は地方競馬規則に基づく競馬場として昭和11年に結城競馬場から移転、開設。同年12月24日から競馬を開催。爾後、軍馬資源保護法、地方競馬法、競馬法に基づく競馬を開催。昭和24年の開催をもって廃止。


 馬場の規模は1周1000m。現在地は取手市白山6丁目、取手競輪場


 上の航空写真縮尺が小さい。同年撮影の縮尺の大きいものも、検索では表示されるが、画像が表示されない。廃止前年の航空写真はUSA-R1585-68


【追記】 その後、国土地理院ホームページの改修で昭和16年4月1日撮影の縮尺の大きいA3-CB小-2 も閲覧できるようになった。更に縮尺の大きいA3-CB大-3 は、全景が写っていない。




【付記】 いよいよ残すところ東北6県になったが、その前に、これまでの記述に大きな欠陥があったことが判明した。

 それは地方競馬法(昭和21年法律第57号)に基づく競馬のことである。この競馬が行われたことの遺漏がある競馬場がある。また、開設の根拠を地方競馬法と競馬法(昭和23年法律第158号)とを誤っている競馬場がある。

 この点について、これから各競馬場について追記を記載させて頂く。なお、これに先立って地方競馬法に基づく競馬が行われた競馬場の一覧を以下に記載する。


 北海道・・・・北見、岩見沢、帯広、旭川、室蘭     青森県・・・・八戸

 岩手県・・・・黄金(旧盛岡)、水沢    宮城県・・・・仙台

 秋田県・・・・大館   山形県・・・・上山、米沢    

 福島県・・・・福島、原ノ町   新潟県・・・・三条   

 茨城県・・・・古河、取手    栃木県・・・・宇都宮、足利

 群馬県・・・・高崎    埼玉県・・・・春日部、浦和   千葉県・・・・柏

 東京都・・・・八王子   神奈川県・・・・戸塚   

 山梨県・・・・玉幡(甲府)、富士   長野県・・・・上諏訪

 富山県・・・・高岡    石川県・・・・小松、金沢   福井県・・・・福井

 岐阜県・・・・笠松、北方   静岡県・・・・三島    愛知県・・・・岡崎

 三重県・・・・霞ヶ浦      滋賀県・・・・草津    京都府・・・・長岡

 大阪府・・・・春木       兵庫県・・・・園田、淡路

 奈良県・・・・奈良       和歌山県・・・・紀三井寺

 鳥取県・・・・米子(皆生)   島根県・・・・出雲大社、益田

 岡山県・・・・岡山       広島県・・・・五日市

 山口県・・・・小月(下関)、柳井、宇部    徳島県・・・・鳴門

 香川県・・・・徳島   愛媛県・・・・三津浜   

 高知県・・・・長浜(古高知)   福岡県・・・・福間   佐賀県・・・・佐賀

 長崎県・・・・諫早    熊本県・・・・荒尾    

 大分県・・・・別府、大貞(中津)    宮崎県・・・・宮崎

 鹿児島県・・・・鹿児島


 栃木県は那須駒の馬産地で、古くから競馬が行われていたらしい。明治10年には県の命令で競馬に関する布達があったという。その後も、明治13年に県の命令として「競馬取締規則」が制定され、明治43年にはその改正も行われたという。明治43年といえば、内閣の命令である競馬規程が既に制定されていた時期であるが、栃木県の競馬は、県独自の競馬として行われていたものと思われるが、何処にその競馬場があったのか定かでない。


<那須競馬場>

 那須競馬場は、昭和3年に地方競馬規則に基づく競馬場として那須郡大田原町に開設。同年春季開催から競馬を開始。しかし、経営不振の故をもって昭和7年春季開催をもって休止。そのまま小山競馬場に移転、廃止された。


 馬場の規模、現在地ともに不詳。


<小山競馬場>

 小山競馬場は、昭和9年、下都賀郡大谷村に那須競馬場から移転、開設。同年3月27日から競馬を開催。軍馬資源保護法の制定に伴い、昭和13年秋季開催をもって廃止。


 馬場の1周は1200m。現在地は不詳。


<足利競馬場>

・古足利競馬場(山辺競馬場)

 古足利競馬場は、地方競馬規則に基づく競馬場として昭和5年、足利郡山辺町に開設。同年8月25日から競馬を開催。軍馬資源保護法の制定に伴い、昭和13年秋季開催をもって廃止。



 馬場の1周は1000m。山辺は、旧足利市街から渡良瀬川の対岸になるが、航空写真から馬場の形状を認めることが出来なかった。現在地は不詳。



・旧足利競馬場。昭和33年2月20日撮影。KT588YZ-T25A-15


堪忍袋=偏屈親爺の狷介録=-旧足利競馬場

 旧足利競馬場は、競馬法に基づく競馬場として昭和23年、足利市伊勢町に開設。同年11月から競馬を開始。ただし、地方競馬史第1巻には同年1月に競馬場を新設とあることから、地方競馬法に基づく競馬を開催する意図で、競馬場の造成を行ったのかもしれない。


 渡良瀬川水害の影響を受け、また、その後の渡良瀬川改修工事により廃止。新足利競馬場に移転した。


 馬場の規模は不詳。現在地は足利市岩井町、伊勢南町、渡良瀬川河川敷の渡瀬緑地、渡瀬運動公園。


 上の航空写真は開設後の最も古い航空写真。開設年の航空写真USA-R1443-50 は、開設前の2月の撮影であるが、馬場が造成されているようにも見える。最も新しい航空写真はMKT662X-C14-10 。渡良瀬川の改修工事が、競馬場に迫っている。


【追記】 旧足利競馬場では昭和23年に1回の地方競馬法に基づく競馬が開催されていた。なお、地方競馬法に基づく競馬が行われたのは昭和21年11月から昭和23年7月までである。


・新足利競馬場。昭和48年5月12日撮影。MKT731X-C7-11


堪忍袋=偏屈親爺の狷介録=-新足利競馬場



 新足利競馬場は、昭和46年に旧足利競馬場から移転、開設。平成15年度の開催をもって廃止。


 馬場の規模は、1周1100m。船橋や荒尾と同じく、日本には珍しいスパイラルカーブのコースであった。現在地は足利市五十部町の五十部運動公園


 最古のカラー写真はCKT7419-C8-22 。廃止4年前の航空写真はCKT991X-C5-16 。廃止翌年の航空写真はMKT20041X-C5-18



<宇都宮競馬場>昭和16年4月11日撮影。C48-C1-31


堪忍袋=偏屈親爺の狷介録=-宇都宮競馬場


 宇都宮競馬場は、地方競馬規則に基づく競馬場として昭和8年、河内郡姿川村に開設。同年11月13日から競馬を開催。爾後、軍馬資源保護法、競馬法に基づく競馬を開催。平成17年度の開催をもって廃止された。地方競馬法に基づく競馬は開催されなかった。


 馬場の1周は1200m。現在地は宇都宮市西川田2丁目。



 上の航空写真は最古のもの。戦後撮影のUSA-R389-128 の方が鮮明。しかし、戦後の競馬法に基づく競馬が実施された時代の航空写真は、昭和36年撮影のMKT612-C11-18 まで無い。最古のカラー写真はCKT7418-C7-24 。廃止2年前の航空写真はMKT20032X-9-6



【追記】 宇都宮競馬場では昭和22年及び23年に、合計7回の地方競馬法に基づく競馬が行われていた。

<高崎競馬場>昭和17年3月23日撮影。R1-C1-32

堪忍袋=偏屈親爺の狷介録=-高崎競馬場


 群馬県では古くから祭典競馬が盛んであったらしいが、明治28年9月に高崎連隊主催で日清戦争戦勝祝賀競馬が初めて200間(約360m)の円形馬場を造成して競馬が開催されたという。明治44年9月には県令である競馬取締規則が制定されたというが、これが当時施行されていた競馬規程の施行細則であったのか、県独自の競馬法令であったのかは定かでない。

 ともあれ、大正12年にその後の高崎競馬場の所在地である高崎市外上佐野に1周800mの高崎競馬場が新設され、大正13年10月から競馬規程に基づく競馬を開催し、同時にその競馬は勝馬投票を行う競馬であったらしい。

 昭和2年にいたり、馬場を1周1000mに改造し、同年11月2日から地方競馬規則に基づく競馬を開催した。昭和9年には馬場を1周1200mに改造し、爾後、軍馬資源保護法に基づく競馬、競馬法に基づく地方競馬を開催し平成17年度の開催をもって廃止された。地方競馬法に基づく競馬は開催されなかった。

 上の航空写真はこの地域の最も古いもので、軍馬資源保護法時代のもの。競馬法時代のもっとも古い航空写真はUSA-R1847-A-28 。最古のカラー写真はCKT7418-C34A-6 。廃止翌年の航空写真はCKT20061X-C8-4

【追記】地方競馬法に基づく競馬は開催されなかったというのは誤りであった。昭和22年から合計8回の地方競馬法に基づく競馬が開催されていた。

<伊勢崎競馬場>昭和17年3月23日撮影。R3-C1-25

堪忍袋=偏屈親爺の狷介録=-伊勢崎競馬場


 伊勢崎競馬場は、昭和5年に地方競馬規則に基づく競馬場として開設。同年12月20日から競馬を開催。以後毎年春秋2季の開催を続けたが、軍馬資源保護法の制定に伴い、昭和13年秋季開催をもって廃止。


 馬場の規模は1周1000m。現在地は伊勢崎市新栄町、伊勢崎市外から広瀬川にかかる、その名も「競運橋」を渡った茂呂県営住宅を中心とした一帯。


 戦後の写真であるがUSA-R1250-7 が最も鮮明。 


<館林競馬場>撮影年月日不詳。R12-C2-13


堪忍袋=偏屈親爺の狷介録=-館林競馬場


 館林競馬場は昭和8年に地方競馬規則に基づく競馬場として開設。同年7月8日から競馬を開催。以後春秋2季の開催を続けたが、軍馬資源保護法の制定に伴い、昭和13年秋季開催をもって廃止。


 馬場の1周は1600m。現在地は館林市近藤町の第10小学校、アクロスショッピングセンター、藤村ヒューム管工場の一帯。


 上の航空写真は撮影年月日不詳だが、歪んだ画像のC29A-C1-15 と同時期の撮影と判断されるので、昭和17年頃の撮影と思われる。

 この地域の鮮明な画像である昭和22年撮影のUSA-R465-No1-178 や翌年撮影のUSA-R1030-3 では、馬場の痕跡がなくなりかけている。

 6/19に那須の地方競馬教養センターで行われた、南関東装蹄技術大会に行ってきた。

 何よりも驚いたのが、選手の手元や馬の脚元を見る装蹄師さん達の真剣な眼差しであった。

堪忍袋=偏屈親爺の狷介録=-装蹄技術大会1


 大会は、4人の選手が出場し、制限時間を設けて行われる。いわば時間との勝負でもあり、普段の実力が活かせないこともある。元々、火を使い、力仕事でもあるから、汗をかいているが、時間にせかされることも余計に汗をかかされているように思えた。


堪忍袋=偏屈親爺の狷介録=-装蹄競技大会2

                                 (残り58秒)


 大会は、装蹄判断競技25分。これは、実馬を観察して捉えた、その肢蹄の特性、歩様、装蹄方針ペーパーテストするものであった。


 次が、単独造鉄競技25分。これは棒鉄から標準タイプの蹄鉄を作成するものである。表彰式の講評で言われていたが、標準的な蹄鉄が製品化されている現在では、棒鉄から蹄鉄を作ることはなくなりつつあるが、装蹄の基本と言われていた。最早、伝説かもしれないが、シンザン鉄などは、その様な匠の技によって生み出されたのかもしれない。作品は↓


堪忍袋=偏屈親爺の狷介録=-装蹄技術大会


 最後が装蹄競技であるが、まず、20分間で整形済みの蹄鉄から、実際に装蹄する蹄鉄を作成する。次に45分間で、前肢、後肢各1脚を削蹄し、装蹄する。削蹄終了時と装蹄終了時にそれぞれ出来具合を見て採点していた。


 全て終了すると歩様検査を行う。選手も、その他の人々も真剣に見入っている。


堪忍袋=偏屈親爺の狷介録=-装蹄技術大会4

 今回の大会では無かったが、一昨年の大会では、審査委員長らしき人から、あの馬のあの脚の蹄鉄は、はずして打ち直すようにとの指示もされるような、厳しい大会である。


 装蹄師さん達の匠の技とプライドを見せつけられる大会であった。


 匠の技というと、テレビ番組の「劇的改造ビフォワーアフター」で建築士に対してこの言葉が使われているが、私は気に入らない。匠の技とは、職人魂を持った腕の冴えを誇る職人さんに対して使う言葉であろう。建築士に対して使う言葉とすれば゜、棟梁の腕と言うべきである。競馬に置き換えれば、棟梁は調教師であり、その意を十分に受け止めて技を発揮するのは、厩務員さんであり、装蹄師さんであろう。

 匠と棟梁。棟梁とは、言い換えればコーディネーターだと思う。本来、政治家はコーディネーターであろう。それを日本の政治家は、匠になろうとしているし、コーディネーターの意義も解っていないと思う。

 職員研修というと、リーダーシップ論が教えられる。しかし、実際の職場で本当に大事なのはメンバーシップだと思う。何かというと表にたちたがる日本人では、この先が思いやられると、偏屈な年寄りは思うのである。


 最後に、変な話をしてしまったが、当日は騎手候補生も見学していた。しかし、何時の間にやらいなくなったと思ったら、寝わら干し作業をしていた。

堪忍袋=偏屈親爺の狷介録=-装蹄競技大会5








<秩父競馬場>

 秩父競馬場は、地方競馬規則に基づく競馬場として昭和2年に開設されたらしい。昭和4年春季開催をもって川越競馬場に移転、廃止。

 現在地、馬場の規模等は不詳。


<熊谷競馬場>

 熊谷競馬場は、地方競馬規則に基づく競馬場として昭和2年に開設されたらしい。熊谷競馬は休催も多かったようであり、昭和4年秋季、6年秋季、7年は休催している。そのまま、昭和8年に至り、川越競馬場(第2次)に移転、廃止された。

 現在地、馬場の規模等は不詳。


<川越競馬場>

 川越競馬場は、川越市大字新宿に秩父競馬場から移転開設。昭和4年秋季開催から競馬を開催。昭和6年春季開催をもって、大宮競馬場に移転、いったん廃止された。

 昭和8年にいたり、熊谷競馬場から移転、再開設。第2次の川越競馬は昭和8年12月15日から競馬を開催。昭和13年秋季開催をもって、軍馬資源保護法の制定に伴い、廃止された。


 馬場の規模は1周1600m。

 現在地の詳細は不詳。川越市新宿は川越駅の南方であるが、昭和17年の航空写真B16-C8-63 等では当該地域は写真の端で暗くて見えない。戦後の航空写真USA-M68-A-6-1-127 (なお、この写真は上が南方)には、馬場の痕跡もない。


<大宮競馬場>

 大宮競馬場は、北足立郡大宮町大宮に川越競馬場(第1次)から移転、開設。昭和6年12月11日から競馬を開催。爾後軍馬資源保護法に基づく競馬を開催したが、戦争の激化とともに全ての競馬が休止となった昭和19年以降、競馬の開催がないまま消滅した。


 馬場の規模は1周1600m。

 現在地の詳細は不詳であるが、現在の大宮競輪場の場所に、昭和17年撮影のB16-C3-30 では馬場らしきものが認められる。しかし、1周1600mはどう見ても無い。しかし、大宮競馬場には幅10mの内馬場があったとのことであるが、同航空写真には内馬場らしきものも認められる。旧戸塚競馬場から軍馬資源保護法に基づく新戸塚競馬場への移転の際に馬場の縮小が行われていたから、大宮競馬場でも同様に馬場の縮小があったのかもしれない。

<粕壁(春日部)競馬場>昭和22年10月28日撮影。USA-R402-2

堪忍袋=偏屈親爺の狷介録=-春日部競馬場


 粕壁競馬場は軍馬資源保護法に基づく競馬場として昭和15年開設。爾後、地方競馬法に基づく競馬を開催したが、昭和22年の開催をもって浦和競馬場に移転、廃止。

 馬場の規模は1周1000m。現在地は春日部市小渕の米久工場周辺。


<浦和競馬場>昭和31年3月9日撮影。USA-M318-296


堪忍袋=偏屈親爺の狷介録=-浦和競馬場


 浦和競馬場は地方競馬法に基づく競馬場として春日部競馬場から移転。昭和22年12月に建設着手。翌23年4月に第1期工事完了と同時に地方競馬法に基づく競馬を開催。5月と7月に地方競馬法に基づく競馬を開催した後、競馬法に基づく地方競馬場として今日に至っている。


 馬場の規模は1周1200m。


 上の航空写真は、浦和競馬場が写っている最も古いものである。昭和22年撮影のUSA-R524-No1-71 では、馬場造成工事に着手しているようにも見える。

 最古のカラー写真はCKT7415-C13A-26 。最新の航空写真はCKT20071-C19-29

<九美上競馬場>昭和21年3月26日撮影。USA-M85-A-5VV-65


堪忍袋=偏屈親爺の狷介録=-九美上競馬場


 九美上競馬は、香取郡香取町九美上の馬産家の牧場の馬場で娯楽として行われたのが初めという。大正14年に至り、競馬規程に基づく競馬場として許可を受け、同年秋季開催から競馬を開催した。昭和2年地方競馬規則の制定により、同規則に基づく競馬場として競馬を開催したが、市川競馬場に移転し、廃止された。


 馬場の規模は不詳だが、上の航空写真からは、1周800m程度と思われる。但し、この地域の航空写真からは馬場らしき物が見つけられたのは、これだけであったことから、この画像を九美上競馬場と推定したのであって、誤りかもしれない。もし、正しければ、現在地は香取市九美上の清正公大神社佐原第3中学へ行く道と、返田へ行く道との分岐点の左側の畑地。


<市川競馬場>昭和11年9月25日撮影。B28-C7-116


堪忍袋=偏屈親爺の狷介録=-市川競馬場

 市川競馬場は、昭和6年九美上競馬場から移転開設。同年12月18日から競馬を開催。九美上競馬場から移転に関して紛争が続き、観覧席の建設ができず、野天競馬といわれたまま昭和13年秋季まで競馬を開催。軍馬資源保護法の制定に伴い、廃止された。


 馬場の1周は1600m。現在地は市川市大洲1,2,3,4丁目。


<椿森競馬場>

 椿森競馬場は、大正の末期に競馬規程に基づく競馬場として開設されたようである。昭和2年まで競馬を開催し、地方競馬規則に基づく競馬は柏に新競馬場を建設して行うこととし、廃止されたという。

 馬場の規模は不詳。現在地は、千葉市中央区椿森1~6丁目、弁天3,4丁目の辺りか?


<柏競馬場>昭和19年9月28日撮影。891-C1-21


堪忍袋=偏屈親爺の狷介録=-柏競馬場


 柏競馬場は、地方競馬規則に基づく競馬場として、昭和3年開設。同年5月8日から競馬を開催。爾後、軍馬資源保護法、地方競馬法、現行競馬法に基づく競馬を開催。昭和25年1月の競馬をもって船橋競馬場に移転廃止。

 馬場の1周は1600m。現在地は柏市豊四季台2,3,4丁目の住宅地。

 現行競馬法時代の航空写真は、USA-R522-23


<船橋競馬場>昭和32年3月29日撮影。KT572YZ-C1-15


堪忍袋=偏屈親爺の狷介録=-船橋競馬場


 船橋競馬場は、柏競馬場から移転開設。昭和25年8月24日から競馬を開催。馬場の1周は1400m。


 上の航空写真は、船橋競馬場が写っている最も古いものである。両だすき障害コースの障害は6年後のMKT636-C8-43 が鮮明。なお、内側のコースは、船橋競馬場に併設されていた船橋オートレース場のコースらしい。障害コースがそのコースを突っ切るということは、オートレースのコースは砂だったのか?



 昭和40年になると、競馬場の南側の海面が埋め立てられている(KT657Y-C3-22 。なお、この航空写真を高解像度で閲覧すると左上に中山競馬場も写っている。)。昭和45年になると、船橋オートレース場が船橋競馬場の外に移転している(MKT704X-C6-8 )。

 最古のカラー写真は、CKT7415-C28B-12 。障害コースが取り壊されており、かつてレースコースとしても使われていた内コースができている。なお、昭和45~50年の間の航空写真は、縮尺が小さく、馬場の変化が読み取れない。

 最新の航空写真は、CKT20064X-C6-15


<松戸競馬場>

 松戸競馬場は、明治39年の閣令第10号「競馬開催ヲ目的トスル法人ノ設立及ビ監督ニ関スル件」に基づき、設立された松戸の競馬会の競馬場である。明治40年9月22日から競馬を開催。

 大正8年、旧中山競馬場に移転、廃止。

 馬場の規模は不詳。現在地は、松戸市岩瀬の聖徳大学、松戸中央公園、千葉地裁松戸支部、千葉地検松戸支部、相模台小学校等。


 前に書いた、昔の競馬場=神奈川県その2=で、松戸競馬場→中山競馬場としたのは誤りであったようである。松戸競馬場→旧中山競馬場→新中山競馬場に訂正する。

 同じく、小倉の競馬会の競馬場→小倉競馬場も、正しくは小倉の競馬会の競馬場→戸畑競馬場→旧小倉(三萩野)競馬場→新小倉競馬場であったようである。


<中山競馬場>

・旧中山競馬場。昭和11年9月12日撮影。B2-C10-83


堪忍袋=偏屈親爺の狷介録=-旧中山競馬場


 旧中山競馬場は松戸競馬場から移転開設。大正9年3月12日から競馬を開催。かつての中山競馬場厩舎地区とその南方である。

 雲がかかっていて少し見づらいがB2-C10-84 は、200dpiで閲覧すると、端に新中山競馬場の4コーナーが僅かに写っている。


・新中山競馬場。昭和19年10月22日撮影。8912-C1-123


堪忍袋=偏屈親爺の狷介録=-中山競馬場

 新中山競馬場は昭和2年に旧中山競馬場から移転したという。


 上の航空写真は、最古のものであるが鮮明度にかける。戦後すぐのUSA-M372-136 の方が鮮明であり、大土塁も大竹柵もハッキリと見ることができる。しかし、当時は外回りコースが無かったようである。

 外回りコースは、昭和33年撮影のKT582YZ-A25A-8030 では未だ認められないが、昭和35年撮影のKT60ACZ-C5-74 に至って初めて外回りコースができている。

 最古のカラー写真はCKT7415-C25-72 。最新の航空写真はCKT20064X-C4-13


 前回、戸山学校競馬場の現在地を「現戸山公園辺りか?」と記述したが誤りであった。現早稲田大学理工学部の辺りである。また、三田育種場競馬場の現在地を不詳としたが、現在の港区芝3丁目のセレスティンホテルから西側一帯である。板橋競馬場の現在地も、板橋区氷川町、栄町、仲町の一帯である。いずれも、UG-2さんのホームページ↓

       http://www.geocities.co.jp/kikuuj/keiba/meguro/meguro.htm

から、ご教示を得た。私が古航空写真から昔の競馬場を探していることを、UG-2さんは、古地形図から探索されている。

 これまで発見できなかった競馬場、或いは航空写真からの判読が本当に正しかったか否か、是非とも古地形図を閲覧したいのであるが、国会図書館のマイクロフィルムなどの閲覧のいとまもない。残念。。。。


<目黒競馬場>昭和11年6月11日撮影。B8-C1-21


堪忍袋=偏屈親爺の狷介録=-目黒競馬場

 目黒競馬場は、明治39年の「競馬開催を目的とする法人の設立と監督に関する件」に基づき設立された目黒の競馬会の競馬場である。

 昭和8年東京競馬場に移転廃止。

 馬場の規模は不詳。現在地は目黒区下目黒5丁目、品川区小山台2丁目、1丁目。旧林業試験場の林試の森公園等。


<東京競馬場>昭和16年7月27日撮影。C24-C1-18


堪忍袋=偏屈親爺の狷介録=-東京競馬場


 東京競馬(府中競馬場)は、昭和8年に目黒競馬場から移転開設。

 上の航空写真は、この地域の最も古い航空写真と思われる(撮影年月日不明もあるが。その例としてはC16-C1-18 はある)が、競馬場全体が写っていない。鮮明で競馬場全体が写っているR9-C1-19 は、斜め方向からの画像で、馬場がゆがんでいる。それはそれとして、現在から見れば、当時の障害コースの特異さに驚く。

 戦後直後の航空写真はUSA-M449-138 。障害コースが再開されていないようである。障害コースの内側にも、練習コースなのか、いくつかの走路の跡が認められる。

 翌年撮影のUSA-M1121-A-66 では、今は無き片襷の障害コースに障害が設置されているが、これも、今は無き右回りの1200mコース(2000m発走地点を回って直線に入るコース)は無い。次の年代の航空写真、昭和31年撮影のUSA-M578-2-243 では不鮮明ながら、このコースが認められる(翌年のUSA-M1010R1-72 の方が鮮明であるが、高解像度で閲覧しないと全景を見ることが出来ない。)。


 最古のカラー写真はCKT7416-C32-35 、右下に多摩川競艇場も写っている。

 最新の航空写真はCKT20051X-C1-33


<馬事公苑競馬場>昭和19年10月16日撮影。8910-C1-27


堪忍袋=偏屈親爺の狷介録=-馬事公苑


 馬事公苑は、戦争の激化とともに全ての競馬が休止していた時代に、関係者のみで検定競走として日本ダービーを行った競馬場である。正式の日本ダービーではないから、その勝馬は日本ダービーの記録に載っていない。


<羽田競馬場>昭和11年6月11日撮影。B8-C5-87


堪忍袋=偏屈親爺の狷介録=-羽田競馬場


 羽田競馬場は、昭和2年に東京市蒲田区羽田町入船耕地に競馬場を新設して同年7月15日から4日間、東京府馬匹畜産組合連合会の主催で競馬を開催したのが初めという。地方競馬規則の公布は同年8月27日であるから、競馬規程に基づく競馬場として開設されたものと思われる。


 地方競馬規則に基づく競馬は、洲崎埋立地に移転して、城南畜産組合の主催で昭和2年秋季競馬、昭和3年春季競馬を開催したという。この洲崎競馬場の所在地等は不詳。一説に現江東区の洲崎というが、その洲崎は城南地区ではなく城東地区である。


 昭和3年に洲崎から再度移転し、東京府馬匹畜産組合連合会の主催で同年12月8日から昭和3年秋季競馬を開催。以後、全国1の売上げ規模を誇りつつ競馬を開催したというが、昭和12年秋季開催をもって、軍馬資源保護法の施行により廃止。


 馬場の規模は1周1600m。現在地は羽田空港B滑走路の南端周辺。


<八王子競馬場>昭和15年2月16日撮影。C0-C2-100


堪忍袋=偏屈親爺の狷介録=-八王子競馬場


 旧八王子競馬場は地方競馬規則に基づく競馬場として、昭和3年東京府南多摩郡小宮町字西中野に開設。同年11月17日から競馬を開催。

 昭和9年新八王子競馬場に移転。爾後、軍馬資源保護法、地方競馬法に基づく競馬を開催。そして現行競馬法に基づく競馬を昭和23年及び24年に開催し、昭和24年12月の開催をもって大井競馬場に移転廃止。

 跡地は、特別区競馬組合八王子牧場として大井競馬の抽せん馬の育成、休養馬の受け入れを行うとともに、関東地方競馬組合の騎手養成所となった。

 大井競馬がオーストラリアから購入した抽籤馬、いわゆる濠抽で、のちの天皇賞馬ミッドファーム、オパールオーキッド、タケシバオーの祖母ナイススター(クニビキ)、ハイセイコーの祖母ダルモーガンなどもここで育成された。

 昭和37年の競馬法改正により騎手の養成は地方競馬全国協会の所管となったため、関東地方競馬組合の騎手養成所は廃止。八王子牧場は小林牧場(現、大井競馬場小林牧場分厩舎。昭和40年開設)に移転した。


 馬場の規模は1周1600m。現在地は八王子市高倉町、日野市旭が丘。首都大学東京日野キャンパスを中心とした一帯。


 上の航空写真は新八王子競馬場の最古のものであるが、フィルムが傷んでいる。2年後の航空写真はB17-C1-22 。現行競馬法時代の航空写真はUSA-R1779-87 。小林牧場へ移転前年の航空写真はMKT646X-C1-7


<大井競馬場>昭和31年3月6日撮影。USA-M288-68

堪忍袋=偏屈親爺の狷介録=-大井競馬場


 大井競馬場は八王子競馬場から移転開設。昭和25年5月12日から競馬を開催。

 馬場の1周は、内回り1400m、外回り1600m。


 上の航空写真は、最古のもの。馬場の上に見えるコースは、伊勢崎オートの前身の大井オートレース場。左下は平和島競艇場。平和島の埋立て工事が始まっているが、競馬場の周りは全て海。右下に大森海苔の採集場が見られれる。

 今は無き両襷の障害コースの様子はMKT636-C14-18 が鮮明。昭和45年になると埋立てが進み、東京モノレールも、首都高速も走っているKT657Y-C5-17


 最古のカラー写真はCKT7415-C37-39 。障害コースが取り壊されているのはCKT893-C12-28 から。最新の航空写真はCKT20072-C6-1


<招魂社競馬場(靖国神社競馬場)>

 招魂社競馬は、日本人によって初めて行われた洋式競馬と言われる。明治3年9月に兵部省の主催で行われ、明治5年以降は陸軍省主催で年3回、神社例大祭に競馬が開催されたという。騎手は軍の将兵で勇壮な競馬であったという。場所の狭隘の故に、明治31年以降競馬は執り行われなかったという。

 この競馬場の馬場は1周約1マイル、コーナーがきつく多くの落馬があったという(萩原延壽「遠い崖-アーネスト・サトウ日記抄8」朝日文庫346ページ)。


 現在地は、千代田区九段北2丁目の靖国神社境内の大村益次郎の像辺りか。


<三田育種場競馬場>

 三田育種場は明治10年9月に開設され、その開場式として内務省勧農局が主催して競馬を行ったという。この競馬は勧農局主催で2~3年行われたらしいという。

 明治13年に至り「興農競馬会社」が設立され、同社は三田育種場を借りて5月15日、16日に競馬を開催したという。以後、春秋2回の競馬を開催したが、経営不振で明治23頃には消滅したらしい。


 馬場の規模は1周620間(約1100m)で、2頭だて~6頭だてで8レース、斤量は日本馬、日本雑種馬別に、年齢と尺寸(体高?)とで定めたという。現在地は不詳。


 <戸山学校競馬場>

 戸山学校競馬場は、明治12年に来日したグランド前アメリカ合衆国大統領の歓待のために、陸軍戸山学校に開設され、同年8月20日に競馬を開催したという。その後、「共同競馬株式会社」が設立され、同社により、11月30日に競馬が開催されたという。爾後、毎年春秋2期の競馬が開催されたが、交通不便の故をもって、明治17年に上野不忍池競馬場に移転、廃止。


 馬場は楕円形の中央部の1周731間(約1300m)。現在地は新宿区戸山2丁目の戸山公園辺りか。


<不忍池競馬場>

 不忍池競馬場は、明治17年に戸山学校競馬場から移転開設。爾後明治25年まで延べ27回の競馬を開催した。翌26年共同競馬株式会社は解散し、不忍池競馬場は廃止となった。


 馬場は、不忍池を巡って1周880間(約1500m)。


<池上競馬場>昭和11年6月11日撮影。B7-C3-89


堪忍袋=偏屈親爺の狷介録=-池上競馬場


 池上競馬場は、 池上競馬場では明治39年11月24日から競馬を開催した。いつしか廃止されているが、その年月日は不詳。


 馬場は、1周1マイルという。現在地は、大田区池上6~8丁目、徳持小学校、徳持寺、安方中学校、日体大荏原高校辺りが馬場の外周。


<板橋競馬場>

 板橋競馬場は、明治39年の「競馬開催を目的とする法人の設立と監督に関する件」に基づき設立された板橋の競馬会の競馬場である。


 競馬の開始年月日、廃止年月日、馬場の規模、現在地等、一切不詳。


【追記】 三田育種場競馬場、戸山学校競馬場、板橋競馬場については、誤りやその後判明した事項もあるので、東京都=その2=を参照されたい。 

<小田原競馬場>

 昭和6年春季に、地方競馬規則に基づく競馬を開催した。

 廃止年、現在地、馬場の規模等は不詳。


【追記】 小田原競馬場の所在地 は、現在の小田原市城山2丁目の谷津団地である。


<平塚競馬場>

 昭和6年秋季に、地方競馬規則に基づく競馬を開催した。

 廃止年、現在地、馬場の規模等は不詳。


<大船競馬場>

 昭和6年春季、昭和7年秋季、昭和8年春季に、地方競馬規則に基づく競馬を開催した。

 競馬場の跡地は松竹大船撮影所になったというのが通説である。その地鎮祭は昭和9年に行われたというから、廃止はそのころか。とすると、前回に述べた推測は、こと大船競馬場については、完全な誤りということになる。松竹大船撮影所の跡地は、現在、鎌倉女子大学等となっている。


<藤沢競馬場>

 昭和6年秋季、昭和7年春季に、地方競馬規則に基づく競馬を開催した。

 廃止年、現在地、馬場の規模等は不詳。


<戸塚競馬場>

=旧戸塚競馬場=

 旧戸塚競馬場は、地方競馬規則に基づく競馬場として、昭和7年5月に鎌倉郡戸塚町吉田に建設され、昭和8年12月7日から競馬を開催したという。昭和13年秋季開催をもって新戸塚競馬場に移転、廃止。

 馬場の1周は1600m。現在地であるが、昭和19年10月24日撮影のC36(8913)-C3-431 で現戸塚区吉田町の旧日立製作所横浜工場の周囲に馬場の痕跡が認められるようにも見えるが、判然としない。


=新戸塚競馬場=昭和19年10月24日撮影。C36(8913)-C3-433


堪忍袋=偏屈親爺の狷介録=-戸塚競馬場


 新戸塚競馬場は、軍馬資源保護法に基づく競馬場として、昭和17年4月に開設、競馬を開催した。爾後、所謂「ヤミ」競馬時代を経て、地方競馬法、現行競馬法に基づく競馬を開催。昭和25年の3回の開催をもって廃止された。通説では、戸塚競馬場は、川崎競馬場に移転廃止と言われるが、川崎競馬場は昭和25年1月25日竣工、直ちに競馬を開催とあることから、併存、開催していた期間もあるのでは無いかと思われる。


 馬場の規模は1周1000m。現在地は、横浜市戸塚区汲沢1丁目の汲沢団地からその南側の一帯。


 上の航空写真は軍馬資源保護法に基づく競馬が行われた馬場であるが、向こう正面が極端に凹んだ特異な馬場形態である。この土地は、西側の戸塚高校と東側の東汲沢小学校のある丘陵地に挟まれた谷戸であって、地形上このような形態の馬場が作られたものと思われる。

 この馬場は、「ヤミ」競馬時代にも同じであったよう(USA-R227-A-6-64 )だが、地方競馬法時代に凹みを少なくする改修が行われたよう(USA-M696-53 及びUSA-M736-14 )である。

 なお、現行競馬法時代の航空写真はUSA-R582-68


 <川崎競馬場>

=第1次川崎競馬場=

 第1次の川崎競馬場は、競馬開催ヲ目的トスル法人ノ設立及監督ニ関スル件(明治39年閣令第10号)に基づき川崎の競馬会が開設した競馬場である。その現在地、馬場の規模、廃止時期等いずれも不詳。

 

=第2次川崎競馬場=昭和11年9月12日撮影。B2-C1-2

堪忍袋=偏屈親爺の狷介録=-川崎競馬場1

 第2次の川崎競馬場は、地方競馬規則に基づく競馬場として川崎市大師河原字塩浜耕地に開設され、昭和7年4月9日から競馬を開催。軍馬資源保護法の制定に伴い、昭和13年秋季開催をもって廃止された。

 馬場の規模は1周1200m。現在地は、川崎市川崎区塩浜1丁目、日ノ出2丁目。

 なお、この川崎競馬場は大師競馬場とも呼ばれたようである。


=第3次川崎競馬場=昭和30年1月25日撮影。USA-M76-88


堪忍袋=偏屈親爺の狷介録=-川崎競馬場2

 第3次の川崎競馬場は、現行競馬法に基づく競馬場として昭和25年1月25日に竣工、競馬を開催した。馬場の規模は1周1200mである。

 上の航空写真は、最も古いものであるが、やや不鮮明である。翌年撮影のUSA-M324-381 の方が鮮明である。今は無い両襷の障害コースが認められる。パドックの位置は、現在と同じである。障害コースの画像は昭和41年撮影のMKT667-C1-11 が鮮明であり、高解像度で閲覧すると、合計五つの障害が認められる。

 最古のカラー写真はCKT7415-C43B-16 。障害コースがハッキリと認められなくなるのは、平成9年撮影のCKT972X-C9-18 からであるが、障害が撤去されたのは、昭和59年(CKT843-C22-28 )と平成元年(CKT893-C16B-2 )の間のようである。

 

 

 前回は、中央競馬場の系譜としての横浜競馬場について述べたが、その歴史の古さ故、長くなった。

 今回は、地方競馬場の系譜について述べるが、やや複雑である。


 地方競馬の源流である神奈川県の祭典競馬は古くから各所で行われていたらしい。足柄上郡の例は、地方競馬史によれば、次の通りという。

1.岡本村足形神社では、毎年1月15,16日競馬が開催され、長さ150m、幅6mの馬場が明治35年に開設された。

2.岡本村神明社では、6~700前から競馬が行われ、明治時代に長さ300m、幅6mの環状馬場が造成された。

3.岡本村馬頭観世音では、後北条氏の時代から競馬を行った。

4.南足柄村矢倉神社では、300年前の神社創立当時から競馬を行った。

5.山北町天川村室尾神社では、毎年10月31日、11月1日に競馬を行った。

6.福沢村福沢神社では、享保11年以来、毎年5月5,6日に競馬を行った。

7.中井村八幡神社では、鎌倉時代からの長さ200m、幅3の馬場で毎年4月20日に競馬が行われた。


大正12年に至り、神奈川県は関東大震災の復興のために県の「競馬規程」を制定し、県下8ヶ所に競馬場を新設して畜産組合が競馬を開催したという。その8ヶ所の競馬場が何処であるかは不詳。ここで、県の「競馬規程」と言うことは、神奈川県の「地方競馬」が、他の多くの県と異なり、独自の形で競馬が開催されたのである(既述の如く例えば石川県でも、独自の競馬があった。)。

 そもそも、明治41年の閣令第1号、競馬規程では、その第1条で「競馬ハ民法第34条ニヨリ設立シタル競馬会ニアラザレバコレヲ行ウコトヲ得ズ但シ祭典等ニ際シ専ラ娯楽ノタメニスルモノハコノ限ニオラズ」と規定し、明治39年の閣令第10号「競馬開催ヲ目的トスル法人ノ設立及ビ監督ニ関スル件」に基づき設立された競馬会のみが競馬を開催することができたのであるが、競馬規程(明治41年閣令第1号)は、明治43年に改正され、その第23条で産牛馬組合(大正10年の改正で畜産組合)も競馬開催できるようになった。


 この神奈川県独自の競馬は、昭和2年の地方競馬規則(農林・内務省令)の制定により、同規則に基づく競馬に改変されることとなり、8ヶ所の競馬場は、平塚競馬場、藤沢競馬場、小田原競馬場、大船競馬場に整理されることとなったが、地方競馬規則の神奈川県内2ヶ所との規定を受けて、川崎競馬場及び戸塚競馬場に統合されたという。しかし、県の「競馬規程」を根拠とする競馬はその後も開催され続けたのではないかと推測される。というのは、地方競馬史第1巻によれば、戦後の所謂「闇競馬」の時期に、神奈川県では「能力検定競励会」という競馬が、県内8ヶ所の競馬場で開催されたといい、突然に先の「8ヶ所」が甦るからである。また、同書に掲げている川崎競馬場と戸塚競馬場の年次成績の表では、その両場の開設前の成績として、昭和6年春季には、小田原・大船、秋季には平塚・藤沢、翌7年春季は藤沢、秋季は大船、8年春季は大船の成績が掲げられているが、各季の開催は2場に納まるようになっている。地方競馬規則の規定に適合させつつ、4競馬場は結果として存続しているのである。

 県の競馬規程がいつ廃止されたか明らかではないが、法的には大日本帝国憲法が廃止され、日本国憲法が施行(日本国憲法と同時施行の地方自治法施行)の日までは県の競馬規程は、廃止がなけれは県の規程は失効しない。


 前段が長くなったので、各地方競馬場の紹介は、次回に譲るが、一つだけ付言しおかなければならないことがある。

 というのは、川崎競馬場には、地方競馬場としての系譜につながる川崎競馬場と、中央競馬場としての系譜につながる川崎競馬場が、時期的に併存してはいなかったらしいが、別個に存在していたことである。中央競馬場としての川崎競馬場が何処にあったか、いつ廃止されたか、馬場の規模はどのくらいか等々は全く不詳である。

 なお、以下に中央競馬場の系譜につながる競馬場等について記載する。いずれも、先述の明治39年の閣令第10号「競馬開催ヲ目的トスル法人ノ設立及ビ監督ニ関スル件」に基づき、明治40年から41年にかけて設立された競馬会の競馬場であり、その数は15である。


・ 北海道

   札幌の競馬会の競馬場→札幌競馬場

   函館の競馬会の競馬場→函館競馬場

・ 栃木県

   小山の競馬会→法人は設立されたが、競馬を開催しないまま解散

・ 千葉県

   松戸の競馬会の競馬場→松戸競馬場→中山競馬場

・ 東京都

   池上の競馬会の競馬場→池上競馬場→何時の頃か廃止

   目黒の競馬会の競馬場→目黒競馬場→東京競馬場(府中競馬場)

   板橋の競馬会の競馬場→板橋競馬場→何時の頃か廃止

・ 神奈川県

   横浜の競馬会の競馬場→横浜競馬場(根岸競馬場)

   川崎の競馬会の競馬場→川崎競馬場→何時の頃か廃止

・ 新潟県

   新潟の競馬会の競馬場→新潟競馬場(関屋競馬場)→新潟競馬場

・ 静岡県

   藤枝の競馬会の競馬場→藤枝競馬場→福島競馬場

・ 京都府

   京都の競馬会の競馬場→島原競馬場→須知競馬場→淀競馬場

   (京都競馬場)

・ 兵庫県

   鳴尾の競馬会の競馬場→鳴尾競馬場→阪神競馬場

・ 福岡県

   小倉の競馬会の競馬場→小倉競馬場

・ 宮崎県

   宮崎の競馬会の競馬場→宮崎競馬場