<横浜競馬場>
神奈川県の横浜は日本の「近代競馬」発祥の地である。文久元年(1861年)に英国居留民により、初めて競馬が開催されたという。
文久2年頃の記事として「居留地の背後は・・・・新しい埋立地になっていたが、そこには競馬場の走路のほかまだ何もなかった。」(アーネスト・サトウ「一外交官の見た明治維新(上)」岩波文庫23ページ)といい、「春秋の二期に競馬が開催され、時には「本物」の競走馬も出場した」(同26ページ)という。また、同年10月1日には競馬が開催されたが、サトウはその会員となっており、これを観戦しているが、或いは3頭立てのレースと言い、3周のレースと言っている(萩原延壽「遠い崖-アーネスト・サトウ日記抄1」、朝日文庫191ページ)。
その「近代競馬」の実態は、次のようなものであったと思われる。
まず、競馬は居留民で組織する団体が主催したらしい。
次に、出走馬のほとんどは居留民の所有する乗馬用の馬(前掲書に当時の居留民の多くが1,2頭の馬を所有していたという。)で、その多くは日本の在来種(前掲書の全体の諸処で、サトウはポニーを買った、或いは売ったといっているが、サトウの言うポニーとは、それらの記述から小格の日本馬である。なお、当時の日本馬は気が荒かったらしく、「馬という名の猛獣」とも言っている。)で、まれにヨーロッパ種の「本物の競走馬」も出走したのだと思われる。
騎手は、おそらく、それらの馬の所有馬である居留民の中の馬術に秀でたものであったろう。
馬場は、3周と言うことから、当時のヨーロッパの競走は長距離レースが主体であったことからして、2マイルのレースだとすると、馬場の1周は1000m~1200m程度であったろう。
その競馬場は、居留地の背後と言うが、外国人居留地は現在の横浜元町であるから、高速狩場線のかかっている堀割の北側、即ち、中華街の南側当たりであろう。
この競馬場は、何時しか根岸の地に移転したが、明治3年及び4年に明治天皇から馬場地ならし料、観覧席・垣根修繕料が下賜されたと言うから、根岸競馬場(横浜競馬場)の開設はそのころであったと思われる。明治8年には、居留民の組織する競馬団体は、日本人の出馬を許可し、明治13年には改組して日本人の入会を許可し、名称を日本レース倶楽部に改めた。また、明治21年には初めて英国式の馬券が発売されたという。
いずれにせよ、横浜競馬は、治外法権下の欧米人によって運営された競馬であったが、治外法権撤廃後の明治39年の閣令「競馬開催を目的とする法人の設立及び監督に関する件」に基づく競馬会が「日本レース倶楽部」という名称で設立され、横浜競馬を根岸競馬場で開催することとなった。
・横浜競馬場(根岸競馬場)昭和19年10月14日撮影。897-C6-70 。
横浜競馬場(根岸競馬場)では、明治初年から連綿として競馬が開催されたのであるが、戦争の激化とともに全ての競馬が休止となった昭和18年後には、競馬が開催されないまま、平成に至り、競馬法の改正によって宮崎競馬場とともに廃止された。
現在地は、横浜市中区根岸台の根岸森林公園。往事の観覧席の建物も残され、日本中央競馬会の馬の博物館も設置されている。
馬場の規模は不詳。
【追記】根岸競馬場の開設は、慶応2年(1866年)という。

























