堪忍袋=偏屈親爺の狷介録= -4ページ目

堪忍袋=偏屈親爺の狷介録=

アメンバー登録したら出来てしまったブログですので、ここには何も掲載しないと思います。←と言いましたが、私家版のブログにしました。タイトルも設定しました。

<横浜競馬場>


 神奈川県の横浜は日本の「近代競馬」発祥の地である。文久元年(1861年)に英国居留民により、初めて競馬が開催されたという。


文久2年頃の記事として「居留地の背後は・・・・新しい埋立地になっていたが、そこには競馬場の走路のほかまだ何もなかった。」(アーネスト・サトウ「一外交官の見た明治維新(上)」岩波文庫23ページ)といい、「春秋の二期に競馬が開催され、時には「本物」の競走馬も出場した」(同26ページ)という。また、同年10月1日には競馬が開催されたが、サトウはその会員となっており、これを観戦しているが、或いは3頭立てのレースと言い、3周のレースと言っている(萩原延壽「遠い崖-アーネスト・サトウ日記抄1」、朝日文庫191ページ)。


 その「近代競馬」の実態は、次のようなものであったと思われる。

 まず、競馬は居留民で組織する団体が主催したらしい。

 次に、出走馬のほとんどは居留民の所有する乗馬用の馬(前掲書に当時の居留民の多くが1,2頭の馬を所有していたという。)で、その多くは日本の在来種(前掲書の全体の諸処で、サトウはポニーを買った、或いは売ったといっているが、サトウの言うポニーとは、それらの記述から小格の日本馬である。なお、当時の日本馬は気が荒かったらしく、「馬という名の猛獣」とも言っている。)で、まれにヨーロッパ種の「本物の競走馬」も出走したのだと思われる。

 騎手は、おそらく、それらの馬の所有馬である居留民の中の馬術に秀でたものであったろう。

 馬場は、3周と言うことから、当時のヨーロッパの競走は長距離レースが主体であったことからして、2マイルのレースだとすると、馬場の1周は1000m~1200m程度であったろう。

 その競馬場は、居留地の背後と言うが、外国人居留地は現在の横浜元町であるから、高速狩場線のかかっている堀割の北側、即ち、中華街の南側当たりであろう。


 この競馬場は、何時しか根岸の地に移転したが、明治3年及び4年に明治天皇から馬場地ならし料、観覧席・垣根修繕料が下賜されたと言うから、根岸競馬場(横浜競馬場)の開設はそのころであったと思われる。明治8年には、居留民の組織する競馬団体は、日本人の出馬を許可し、明治13年には改組して日本人の入会を許可し、名称を日本レース倶楽部に改めた。また、明治21年には初めて英国式の馬券が発売されたという。

 いずれにせよ、横浜競馬は、治外法権下の欧米人によって運営された競馬であったが、治外法権撤廃後の明治39年の閣令「競馬開催を目的とする法人の設立及び監督に関する件」に基づく競馬会が「日本レース倶楽部」という名称で設立され、横浜競馬を根岸競馬場で開催することとなった。


・横浜競馬場(根岸競馬場)昭和19年10月14日撮影。897-C6-70


堪忍袋=偏屈親爺の狷介録=-根岸競馬場

 横浜競馬場(根岸競馬場)では、明治初年から連綿として競馬が開催されたのであるが、戦争の激化とともに全ての競馬が休止となった昭和18年後には、競馬が開催されないまま、平成に至り、競馬法の改正によって宮崎競馬場とともに廃止された。

 現在地は、横浜市中区根岸台の根岸森林公園。往事の観覧席の建物も残され、日本中央競馬会の馬の博物館も設置されている。

 馬場の規模は不詳。


【追記】根岸競馬場の開設は、慶応2年(1866年)という。 

 

 

<新発田競馬場>

 新発田では、明治29年頃から越佐馬匹改良会という団体が毎年競馬を開催し、明治37年には閑院宮がご覧ぜられたという。その馬場の規模、現在地は不詳であるが、明治39年に競馬開催を目的とする法人の設立及び監督に関する件に基づき、この越佐馬匹改良会が中心となって越佐競馬会を設立して、新潟競馬場(関屋競馬場で)で開催許可を受けたという。

 新潟競馬場に移転、廃止という形態であったと思われる。


 馬場の規模、現在地ともに不詳。


<見附競馬場>

 見附競馬場は、大正13年10月から新潟県令に基づく競馬を毎年春秋2回開催したという。その開催主体は南蒲原郡畜産組合であったというが、昭和2年施行の地方競馬規則に基づく競馬を新潟県畜産組合連合会が三条競馬場で実施するに当たり、廃止されたという。

 馬場の規模、現在地ともに不詳。


<三条競馬場>昭和22年9月24日撮影。USA-R219-67


堪忍袋=偏屈親爺の狷介録=-三条競馬場


 三条競馬場は、地方競馬規則にに基づく競馬場として南蒲原郡大島村に開設され、昭和3年6月14日から競馬を開催した。爾後、軍馬資源保護法、地方競馬法、競馬法に基づく競馬を開催。最終的に廃止されたのは平成14年度の開催をもってであるが、廃止直前には新潟1場体制で経営立て直しを図るとして、休催された年もあった。

 馬場の1周は1000m。現在地は三条市上須頃の信濃川河川敷内とその堤防沿い(馬場は河川敷内、スタンド等は最終的に堤防外)。


 上の航空写真の次の年代の航空写真は、昭和37年撮影のMCB622-C6-17 。堤防外にスタンドが認められる最初の航空写真は昭和47年撮影のMCB721X-C2-9 。最古のカラー航空写真は、CCB7511-C4-22 。廃止直前の航空写真はCB20016Y-C1-6


<柏崎競馬場>昭和23年8月17日撮影。USAwide-R355-48


堪忍袋=偏屈親爺の狷介録=-柏崎競馬場


 柏崎競馬場の前史は明治26年に遡るという。刈羽郡には300年来の歴史を持つ家畜市場あり、その関係者が毎年1回観音競馬(?)を開催したという。そして、大正9年にその関係者中で「中越乗馬会」を組織して競馬を続行したという。「中越競馬会」の競馬が、競馬規程に基づく競馬なのか、それとも見附競馬場のように県の命令に基づく競馬なのかは不明である。

 昭和2年の地方競馬規則施行に伴い、昭和4年に中越乗馬会は解散し、新潟県畜産組合連合会の主催する地方競馬規則に基づく競馬を開催するため、刈羽郡西中通村大字悪田砂浜に柏崎競馬場の建設を開始し、昭和6年7月3日から競馬を開催した。以後、昭和12年秋季開催を除き、競馬を開催し続けたが、軍馬資源保護法の制定に伴い、昭和13年秋季開催をもって廃止された。


 馬場の1周は1000m。現在地は柏崎市北園町、新花町


<新潟競馬場>

・旧新潟競馬場(関屋競馬場)昭和21年10月29日撮影。USA-M302-A-9-54


堪忍袋=偏屈親爺の狷介録=-関屋競馬場


 関屋競馬場では、明治41年9月6日から競馬開催を開始した。

 昭和18年に戦争の激化とともに、全ての競馬が休止された以降、関屋競馬場では、国営競馬も中央競馬も再開されず、休止扱いとなっていたが、地方競馬場としては、昭和24年に新たに指定され、新潟県営競馬が開催された。

 昭和40年、新新潟競馬場に移転、廃止。

 馬場の規模は不詳。現在地は、新潟市中央区信濃町、文京町。

 上の航空写真は、この地域の最古のものであるが、高解像度で閲覧しないと全景を見ることができない。次の年代の航空写真は昭和28年撮影のUSA-M169-2-54 。移転3年前の航空写真は、MCB621-C15A-4


・新新潟競馬場=昭和50年10月26日撮影。CCB7510-C5-16


堪忍袋=偏屈親爺の狷介録=-新潟競馬場1


 新新潟競馬場は、昭和40年に旧新潟競馬場(関屋競馬場)から移転開設。中央競馬場としては、同年8月1日から開催開始。約20年ぶりの中央競馬再開であったという。

 地方競馬場としては同年8月14日から競馬を開催したが、平成14年度の開催をもって廃止された。


 上の航空写真は、馬場の大改造前の最古の航空写真である。馬場は、右回りで芝の内コースは1周1600m。外コースは1800m。ダートは1464m。上の航空写真の上部の馬場並びにその内側及び周囲の厩舎は、地方競馬の新潟県競馬組合の厩舎(現大井競馬の場外発売所「オフト新潟」)、左側の厩舎は中央競馬の厩舎である。


 次の航空写真は、馬場大改造完成翌年の航空写真。CB20025X-C3-9 。新潟県競馬組合の厩舎の馬場が移転している。


堪忍袋=偏屈親爺の狷介録=-新潟競馬場2


 最新の航空写真は、CB20061X-C2-7 。地方競馬としての新潟競馬は廃止され、新潟県競馬組合のトレーニングセンターの馬場が取り壊されている(改修前のオフト新潟の駐車場として使用されていた。)。


【余談】  私は、改造前の新潟競馬場の2コーナーポケットから発走する外回り1600mのレースが大好きであったし、大井の1200mと並んで、日本で最も面白いレースが見られるコースだったと思っている。新潟1600mの向こう正面は直線800m、コーナー400m、最後の直線400m。大井の1200mは向こう正面500m弱、コーナー300m余、最後の直線400m弱である。そして、どちらも平坦コース。

 スタート後の長い直線で行く馬はガンガン行く。コーナーがきついのでここでは順番があまり変わらない。勿論、駆け引きはあるが。そして、最後の直線が長く、逃げ切るのか、差されるのか、追い込まれるのかという、醍醐味のあるレースが多い。芝、ダートのこの位の距離だと、一気に言った逃げ残りも多い。しかし、少しでもオーバーペースになると、差される。追い込まれる。ドキドキハラハラ、目を離せないレースが演じられやすいと思っている。そこに自分の馬券の対象馬が絡む。弥が上にも興趣が増す。それが競馬の醍醐味であると思っている。

 かつての新潟外回り1600mは、日本レコードが出やすい馬場でもあった。


<松本競馬場>


・古松本競馬場

 古松本競馬場は、大正14年に競馬規程に基づく競馬場として松本市笹部に開設された。その後、地方競馬規則制定により同規則に基づく競馬を開催したが昭和5年秋季開催をもって、旧松本競馬場に移転、廃止となった。

 馬場の規模、現在地は不詳。


・旧松本競馬場

 旧松本競馬場は、昭和6年古松本競馬場から移転、東筑摩郡本郷村に開設。同年6月7日から競馬開催。軍馬資源保護法の制定に伴い、昭和13年秋季開催をもって廃止。

 馬場の1周は1100m。現在地であるが、東筑摩郡本郷村というと、現松本市の浅間温泉の地域である。航空写真(例えば、USA-R459-No2-25 )からは、松本市水汲から美須々にかけての現在の松本文化会館及び総合体育館周辺と思われるのであるが、同写真に写っている野球場(現市営球場)とほぼ同じ規模であることから、判断できない状況にある。


・新松本競馬場。昭和30年9月5日撮影。USA-M1147-N-20


堪忍袋=偏屈親爺の狷介録=-松本競馬場

 新松本競馬場は、現行競馬法に基づく地方競馬場として、昭和25年に開設。昭和31年の開催をもって廃止。長野県の競馬法に基づく競馬では、県営競馬が一番早く昭和26年度に撤退した。新松本競馬場における競馬は、その後、高家村営競馬として開催されたものと思われる。


 馬場の規模は不詳。現在地は、安曇野市豊科高家のたつみ原団地。


<岩村田競馬場>

 岩村田競馬場は、昭和2年に地歩競馬規則に基づく競馬場として、北佐久郡三井村大字新子田に開設。翌3年春季開催から引き続き競馬を開催、昭和5年秋季開催をもって、軽井沢競馬場に移転、廃止。

 馬場の規模、現在地は不詳。


<軽井沢競馬場>昭和22年8月13日撮影。USA-M407-70


堪忍袋=偏屈親爺の狷介録=-軽井沢競馬場

 軽井沢競馬場は、昭和6年に、岩村田競馬場から移転、開設。同年8月1日から競馬を開催。成績不振により昭和11年秋季開催をもって廃止。
 馬場の規模は1周1600mと、大きな競馬場であった。現在地は、軽井沢町発地の軽井沢72ゴルフ東コース


<富士見競馬場>昭和22年12月23日撮影。USA-R718-51


堪忍袋=偏屈親爺の狷介録=-富士見競馬場


 富士見競馬場は地方競馬規則に基づく競馬場として開設され、昭和4年春季開催から競馬を開催。昭和7年秋季開催をもって、上諏訪競馬場に移転のため開催を休止し、廃場となった。

 馬場の規模は不明。現在地は、諏訪郡富士見町富士見のJマート周辺。


<上諏訪競馬場>昭和22年10月2日撮影。USA-R238-No1-19


堪忍袋=偏屈親爺の狷介録=-上諏訪競馬場



 上諏訪競馬場は、富士見競馬場から移転、開設。昭和9年5月15日から競馬を開催。爾後、軍馬資源保護法、地方競馬法、現行競馬法に基づく競馬を開催。昭和35年の開催(昭和32年は休催)をもって廃止。

 なお、地方競馬史第1巻では、上諏訪競馬場は現行競馬法に基づく地方競馬を全国で一番最初に開催した競馬場で、その日は昭和23年8月13日とある。しかし、同年7月13日公布の競馬法は施行されていたが、競馬法施行令が施行されていなかったため、3日開催した時点で中止命令がなされたとある。若干信じがたい。競馬法の施行日は公布の日から60日を超えない範囲で政令で定めると規定されているが、その政令が手持ち資料では見つけられなかった。一方競馬法施行令は、同年8月19日公布施行であるが、一部規定は遡及適用されており、法律の施行が政令の施行よりも早かった可能性もある。現在では信じがたいことではあるが、戦後の混乱期、そんなこともあったのかもしれない。


 上諏訪競馬場の馬場の規模は、1周1000m。現在地は諏訪市清水3丁目の清水町野球場、諏訪中学、諏訪実業高校。

 上の航空写真は、最も古いものであるが、画像がやや不鮮明。翌年の航空写真はUSA-R1230-53 。廃止2年後の航空写真はMCB6211X-C1-12


【追記】競馬法の施行日は昭和23年7月19日であった。

 山梨県では大正の末頃に、競馬規程に基づく競馬場として、南北の都留郡、南北の巨摩郡、西八代郡、中巨摩郡、甲府市・西山梨郡の畜産組合がそれぞれ競馬を運営したとある。その詳細は不明である。これらの競馬場は、地方競馬規則の制定とともに整理統合され、甲府競馬場と富士競馬場になったという。


<甲府競馬場(玉幡競馬場)>

 甲府競馬場は、地方競馬規則に基づく競馬場として、中巨摩郡玉幡村字西八幡に開設され、昭和3年11月26日から競馬を開催したが、昭和10年以降、成績不振に陥り、昭和12年秋季開催をもって廃止された。


 昭和21年にいたり、地方競馬法に基づく競馬場として、玉幡競馬場の名称で再開設され、昭和21年に1回4日間の競馬を開催したが、22年、23年は休催。昭和23年に制定の新競馬法に基づく競馬場としても指定されたが、競馬を開催することなく、自然消滅した。


 馬場の1周は1000m。この地域の古い空中写真は、縮尺が小さく、また不鮮明のため、現在地は不詳。

 

<富士競馬場>昭和21年2月15日撮影。USA-M46-A-5VTI-2


堪忍袋=偏屈親爺の狷介録=-富士競馬場


 富士競馬場は、地方競馬規則に基づく競馬場として昭和6年に開設。同年4月24日から競馬を開催。昭和10年秋季開催をもって、上野原競馬場に移転することとして、開催を休止した。しかし、上野原競馬場は建設工事中に軍馬資源保護法の制定により、建設を中止。移転は取りやめとなった。

 昭和23年に至り、現行競馬法に基づく地方競馬場として競馬を再開したが、同年、県営競馬1回を開催したのみで廃止された。


 馬場の1周は1600mと、大きい競馬場であった。現在地は、南都留郡忍野村忍草、山中湖村山中の旧鎌倉往還とファナック工場との間の林・自衛隊梨ヶ原駐屯地の北西。


 上の空中写真は、積雪があり、鮮明さに欠ける。廃止後の写真であるが昭和26年撮影のUSA-M31-R-4-97 を高解像度で閲覧した画像の方が鮮明である。


【追記】富士競馬場の再開は昭和22年であり、上記記載は誤りがある。即ち、富士競馬場は地方競馬法に基づく競馬場として再開され、昭和22年から23年に地方競馬法に基づく競馬いういしを4回開催、ついで昭て、和23年に競馬法に基づく地方競馬を1回開催して、消滅に至った。

 なお、山梨県の競馬場について、自然消滅と記したのは、昭和30年代に至っても山梨県の地方公共団体は競馬場を廃止せず法制上は主催者たる地位を継続していたからである。


<藤枝競馬場>

 藤枝競馬場は、明治39年の閣令「競馬開催を目的とする法人の設立及び監督に関する件」により設立された藤枝の競馬会が競馬開催をした競馬場であり、中央競馬の源流の競馬場の一つである。

 しかし、経営不振により、福島競馬場に移転廃止となった。移転認可は大正6年、福島競馬倶楽部の発足は大正7年という。

 馬場の規模、現在地とも不詳


<焼津競馬場>

 焼津競馬は、志太郡相川付近で行われていた競馬が源流という。大正9年にこの競馬場を焼津町弁天公園に移転し、翌10年2月から競馬を開催したというから、競馬規程に基づく競馬場として開設されたのであろう。

 昭和2年の地方競馬規則制定にともない、同規則に基づく競馬場として翌3年2月4日から競馬を開催し、軍馬資源保護法の制定により、昭和14年の春季開催をもって廃止された。

 なお、弁天公園の競馬場は、昭和4年頃焼津駅から1丁の地に移転したという。

 馬場の規模は1000m。現在地は不詳。


<長岡競馬場>

 長岡競馬場は、地方競馬規則に基づく競馬場として、昭和9年に開設された。同年春季開催から翌10年の秋季開催まで競馬を開催したが、馬匹輸送の便、成績不振により廃止し、三島競馬場に移転した。

 馬場の規模、現在地とも不詳


<三島競馬場>昭和16年4月1日撮影。29181-C6-84


堪忍袋=偏屈親爺の狷介録=-三島競馬場


 三島競馬場は、長岡競馬場から駿東郡長泉村大字竹原に移転開設。昭和12年10月13日から競馬を開催。

 爾後、軍馬資源保護法、地方競馬法、現行競馬法に基づく競馬を開催。昭和30年の開催をもって廃止。

 馬場の規模は1周1200m。現在地は、駿東郡長泉町竹原の三島高校周辺。


 現行競馬法時代の航空写真は、USA-R440-25 。廃止3年前の航空写真はUSA-M204-2-23

 愛知県の競馬は、津島神社と豊川稲荷古くから祭典競馬が行われたという。特に、豊川稲荷では常設馬場も造成されていたという。


<豊橋競馬場>

 豊橋競馬は、大正10年に競馬規程に基づく競馬として歩兵11連隊練兵場で春季開催が行われたのが初めという。この競馬は連続して行われた否かは定かでないが、大正14年には豊橋競馬場が新設されたという。その後、地方競馬規則に基づく競馬を開催したが、昭和6年に岡崎競馬場に移転、廃止された。

 馬場の規模、現在地ともに不詳。


<一宮競馬場>

 一宮競馬は、大正11年秋に競馬規程に基づく競馬として開催されたという。その競馬場は、大正14年には新設された競馬場に移転したという。

 昭和2年に地方競馬規則が制定されたことに伴い、愛知県の競馬は、豊橋競馬場と新設の名古屋競馬場(第1次)に統合されることとなったというが、一宮競馬場は、地方競馬史第1巻に、昭和5年12月末日に自然廃止とあることから、何らかの形で、或いは根拠のない闇競馬として、続けられていたのかもしれない。

 馬場の規模、現在地ともに不詳


<豊川競馬場>

 豊川競馬場は、競馬規程に基づく競馬場として大正13年に開設された。昭和2年、地方競馬規則の制定に伴い廃止された。

 馬場の規模、現在地とも不詳。


<岡崎競馬場(第1次)>

 第1次の岡崎競馬場は、大正12年に競馬規程に基づく競馬場として、岡崎市の愛知県種畜場で開催されたという。翌13年には種畜場に常設馬場も設置されたという。しかし、昭和2年、地方競馬規則の制定に伴い廃止された。

 馬場の規模、現在地とも不詳。


<岡崎競馬場(第2次)>昭和20年4月6日撮影。97J10-C2-56


堪忍袋=偏屈親爺の狷介録=-岡崎競馬場


 第2次の岡崎競馬場は、昭和6年に地方競馬規則に基づく競馬場として豊橋競馬場から移転、岡崎市羽根町に開設された。同年10月9日から競馬を開催し、爾後、軍馬資源保護法、地方競馬法、現行競馬法に基づく競馬を開催したが、昭和28年の開催をもって中京競馬場に移転、廃止された。跡地は育成馬場となった。その育成場がいつまで続いたのかは不詳である。この地域の次の年代の空中写真は、昭和34年撮影のKK593YZ-A27A-9159 であるが、直線走路が既に壊されているようにも見える。2年後の空中写真MCB616-C1-8295 では、更に明瞭である。


 馬場の1周は1200m。現在地は岡崎市羽根町小豆坂。地方競馬法時代の空中写真はUSA-R851-9


<名古屋競馬場(第1次)>

 ・川中競馬場

 第1次の名古屋競馬場は、昭和2年に地方競馬規則に基づく競馬場として西春日井郡川中村に同年12月に開設され、翌3年春季開催から競馬を開催した。その馬場の規模及び所在地は不詳。

 この名古屋競馬場(川中競馬場)は、昭和6年に名古屋市稲永新田に移転した。


 ・稲永競馬場。撮影年月日不詳。B23-C3-65 。現在地は名古屋市港区一州町

堪忍袋=偏屈親爺の狷介録=-稲永競馬場


 稲永競馬場は昭和11年に丹羽郡岩倉町に移転、廃止となった。

 

 ・岩倉競馬場。昭和20年4月5日撮影。97E5-C4-86 。現在地は岩倉市の岩倉中学校周辺。


堪忍袋=偏屈親爺の狷介録=-岩倉競馬場


 岩倉競馬場は、平成13年秋季開催をもって、軍馬資源保護法の制定に伴い廃止された。なお、地方競馬史第1巻では、稲永競馬場から岩倉競馬場への移転を「再び」と記述している。理解に苦しむが、一宮競馬場がこの地にあったことを言っているのかもしれない。

 岩倉競馬場の馬場は1周1400mと思われる。(地方競馬史では第1次の名古屋競馬場の馬場を1周1400mとしているが、それが、稲永なのか岩倉なのかは明示されていないが、空中写真からその様に推定した(川中は、記述の全体から見て、対象外と思われる。)


<名古屋競馬場(第2次)>昭和24年10月21日撮影。USA-R3264-2 。、


堪忍袋=偏屈親爺の狷介録=-名古屋競馬場

 第2次の名古屋競馬場は、昭和23年施行の現行競馬法に基づく地方競馬場として開設され、昭和24年から開催を始めた。

 馬場の1周は1100m。上の空中写真は、最も古いものであるが、高解像度閲覧しないと上部がカットされていて見ることはできない。

 次の年代の空中写真である昭和34年撮影のKK593YZ-A27A-9113 では、今は無い片襷の障害コースが認められる。この障害コースは、平成2年撮影のCB902-C9A-8 までは、障害の映像まで認められるが、平成4年撮影のCB915X-C4-5 では障害が撤去され、障害コースの一部に植栽されているように見え

る。最新の航空写真は、CCB20072-C27-58


<中京競馬場>昭和33年5月28日撮影。CB581YZ-P30C-12


堪忍袋=偏屈親爺の狷介録=-中京競馬場


 中京競馬場は、昭和25年の競馬法改正により、それまでの中央競馬場(当時は国営競馬場)11場以内が12場以内と改正されたことにより、候補地選定が始まった。当時の11場とは、札幌、函館、福島、新潟(関屋)、中山、東京、京都、阪神、小倉と戦後開催された実績のない横浜(根岸)、宮崎である。なお、現在の競馬法では10場以内となっている。

 そして、中央競馬場としての中京競馬場は昭和28年8月22日から競馬が開催された。

 同時に、地方競馬場としての中京競馬場も岡崎競馬場から移転開設され、同28年から地方競馬も開催された。地方競馬場としての中京競馬場では、近年、地方競馬の開催実績は無いが、地方競馬場としての指定は継続されており、中京競馬場所在地の豊明市は、競馬場所在区市町村として開催権を持ち、愛知県競馬組合の構成員となっている。

 馬場の1周は1600m(芝)。ダートは現況1418m。最新の空中写真はCCB20072-C19-71

【追記】

 その後の競馬法の改正で、現在は中央競馬場は「8場以内」となっている。

 なお、平成23年の馬場改修後の航空写真は未だ無い。


<阿漕ヶ浦競馬場>

 三重県では、明治25年頃から津市内の結城神社境内に長さ200mの馬場が作られ、毎年、例大祭に競馬が行われたという。この馬場はその後、隣接する津市八幡町2498番地に移転し、昭和2年の地方競馬規則施行とともに競馬開催許可を受け、同年11月2日から、阿漕ヶ浦競馬場として地方競馬規則に基づく競馬が開催された。しかし、開催成績が上がらず、昭和13年の春季開催をもって廃止になった。

 馬場の1周は1000m。現在地は不詳。


<霞ヶ浦競馬場>昭和20年4月5日撮影。97E5-C1-43


堪忍袋=偏屈親爺の狷介録=-霞ヶ浦競馬場


 霞ヶ浦競馬場は、昭和4年に地方競馬規則に基づく競馬場として開設され、同年9月12日から競馬を開催。

 爾後、軍馬資源保護法、地方競馬法、現行競馬法に基づく競馬を開催したが、昭和26年の開催をもって廃止された。

 馬場の1周は、1000m。現在地は、四日市市羽津の四日市ドーム、四日市競輪場等の四日市緑地。

 上の航空写真は、最古のものであるが、昭和23年撮影のUSA-R1721-A-19 の方が鮮明である。

<中津競馬場>昭和23年5月21日撮影。USA-R1447-24


堪忍袋=偏屈親爺の狷介録=-岐阜県中津競馬場


 中津競馬場は地方競馬規則に基づく競馬場として、恵那郡中津町駒場西山に建設され、昭和2年の春季開催から昭和8年の秋季開催まで競馬が開催された。しかし、成績不振から、昭和9年に羽島郡八剣村に移転することとし、同年の開催をもって、中津競馬場は廃止された。しかし、この移転は許可を受けものの、同地から更に同郡笠松町に移転することとして、昭和10年に至り、笠松競馬場に移転した。

 馬場の規模は不明。現在地は中津川市駒場の中津商高の西側の畑地。


<笠松競馬場>撮影年月日不詳。97U(C)3-C1-29


堪忍袋=偏屈親爺の狷介録=-笠松競馬場


 中津競馬場から移転、開設。昭和10年9月10日から、地方競馬規則に基づく競馬を開催。爾後、軍馬資源保護法、地方競馬法(昭和22年から開催)、現行競馬法に基づく競馬を開催し、今日に至っている。

 馬場の規模は1周1100m。上の航空写真は、撮影年月日不詳であるが、帝国陸軍撮影の戦前の航空写真である。現在の1600mスタート地点は見られない。地方競馬法時代の航空写真は、昭和23年撮影のUSA-R1132-53

 以後この地域の航空写真は、昭和36年撮影のMCB614-C10-2237 までない。昭和44年撮影のMCB698X-C6-15 には、4コーナーと3コーナーに、現在は無いスタート地点が認められるとともに小規模な円城寺厩舎も認められるようになる。

 現在の1600mスタート地点は、昭和48年撮影のMCB735X-C9-4 に至って、初めて認めることができる(工事中のようにも見えないではないが)。

 最新の航空写真はCCB20082-C18-50


<高須競馬場>

 地方競馬規則に基づき、海津郡高須町の大江川畔に開設され、昭和2年春季から昭和5年まで競馬を開催。成績不振の故をもって、売却する形で各務ヶ原競馬場に移転、廃止された。

 馬場の1周、現在地は不詳。終戦直前に、帝国陸軍が撮影したこの地域の空中写真(97L24-C2-21 等)でも、馬場の痕跡が認められない。


<各務ヶ原競馬場>撮影年月日不詳。97F16-C2-27


堪忍袋=偏屈親爺の狷介録=-各務ヶ原競馬場


 昭和6年高須競馬場から移転し、稲葉郡鵜沼村に開設。同年10月24日から競馬を開催。軍馬資源保護法の制定により、昭和13年の開催をもって廃止。

 馬場の1周は1600mと大きい競馬場であったが、これは、宮崎競馬場を買収しようとの計画もあったと言われる故と思われる。現在地は各務ヶ原市鵜沼各務ヶ原町3,4,5丁目辺り。

 上の空中写真は帝国陸軍撮影の戦前の航空写真で画像が荒い。戦後撮影のUSA-R1186-1 の方が画質は良い。


<養老競馬場>昭和20年4月5日撮影。39A1-C4-86


堪忍袋=偏屈親爺の狷介録=-養老競馬場


 養老競馬場は地方競馬規則に基づき昭和13年開設。同年12月18日から3日間の秋季開催を行ったが、軍馬資源保護法の制定に伴い、その3日間開催のみで廃止された。

 馬場の1周は1200m。現在地は養老郡養老町柏尾、養老の老人ホーム白鶴荘の辺り。

 上の航空写真は、最古のものであるが、昭和23年撮影のUSA-R1854-52 の方が周辺は鮮明。


<北方競馬場>昭和23年11月1日撮影。USA-R2008-151


堪忍袋=偏屈親爺の狷介録=-北方競馬場


 北方競馬場は、昭和21年頃に闇競馬場として開設されたようである。それも、地元の有力者や馬主による、いわば完全なヤミ競馬であったらしい。

 その後、昭和23年からは地方競馬法による競馬(馬匹連合会の主催する競馬)を2回開催し、同年7月の現行競馬法の制定により、県営競馬が始められた。その後、開催と休催(昭和25,26,28年は休催)を繰り返したが、昭和29年の開催をもって廃止された。なお、最後まで県営競馬であったか否かは定かでない。昭和27年度は、真桑村営競馬であったようである。

 馬場の規模は不明。現在地は本巣市上真桑、仏生寺辺り。

 富山県の競馬は、上新川郡船崎村、中新川郡利田村、釜ヶ淵村、北和積村、射水郡小杉町などで祭典競馬が行われたという。

 大正13年9月13日からは、富山県五福歩兵第35連隊練兵場で競馬規程に基づく競馬が開催された。以後、この競馬は毎年継続され、昭和2年からは地方競馬規則に基づく競馬として、引き続き、同所で競馬開催が行われた。昭和7年に至り、初めて常設の競馬場として八尾競馬場が建設され同所において地方競馬規則に基づく競馬が継続されることとなったが、同時に、同年に富山県の2つめの競馬場として富山競馬場が開設された。



<八尾競馬場>昭和23年5月6日撮影。USA-M958-36


堪忍袋=偏屈親爺の狷介録=-八尾競馬場


 八尾競馬場は、それまで仮設馬場で行われていた地方競馬規則に基づく競馬を、常設馬場で行うため婦負郡保内村に建設されたものである。昭和5年4月27日から競馬を開催した。昭和11年秋季開催をもって高岡競馬場に移転、廃止された。

 馬場の規模は不明。現在地は、航空写真と2万5000分の1地形図との比定から、富山市八尾町保内1,2,3丁目ではなく、富山市八尾町福島の八尾中学、八尾高校の辺りと思われる。


<高岡競馬場>昭和21年11月6日撮影。USA-M320-A-10-53 。なお、この写真は上が西であるため、下の写真では、これを補正した。


堪忍袋=偏屈親爺の狷介録=-高岡競馬場


 高岡競馬場は昭和12年に八尾競馬場から移転、開設。同年7月24日から競馬を開催。引き続き、昭和14年からは軍馬資源保護法に基づく競馬を開催したが、戦争の激化により、全ての競馬の休止とともに、いったん閉鎖された。

 その後、地方競馬法に基づく競馬場には指定されず、昭和23年に至り、現行競馬法に基づく地方競馬場として再開設されたが、昭和25年の開催をもって廃止された。

 馬場の1周は1000m。現在地は高岡市下黒田の高岡市地方卸売市場。


【追記】 地方競馬史第1巻の高岡競馬場の項の記述から地方競馬法に基づく競馬は行われなかったと判断したのであるが誤りであった。同書の地方競馬法に基づく開催成績の表では昭和22年に4回、23年に1回の開催が行われている。従って、高岡競馬場は途中閉鎖されることなく地方競馬規則、軍馬資源保護法、地方競馬法、競馬法に基づく競馬を連綿として開催したことになる。



<富山競馬場>昭和21年7月22日撮影。USA-M203-A-7-26


堪忍袋=偏屈親爺の狷介録=-富山競馬場


富山競馬場は、地方競馬規則に基づく競馬場として、上新川郡浜黒崎村に開設された。昭和7年7月15日から競馬を開催し、軍馬資源保護法の制定に伴い、昭和13年秋季開催をもって廃止された。

 馬場の1周は1000m。現在地は富山市浜黒崎の浜黒崎キャンプ場周辺。