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堪忍袋=偏屈親爺の狷介録=

アメンバー登録したら出来てしまったブログですので、ここには何も掲載しないと思います。←と言いましたが、私家版のブログにしました。タイトルも設定しました。

 石川県の競馬は、競馬規程その他の競馬法令に基づく競馬と、別個の競馬として、明治28年の県令8号「興行取締規則」により行われていたようである。その記録として、大正14年度には松任、辰ノ口、津幡、高浜、和倉で競馬が行われたとある。これらの競馬がいつまで行われたかは定かでないが、地方競馬規則制定年である昭和2年にも開催されたとのことである。

 これらの競馬の性格を、どのように捉えるべきであろうか。法律その他中央官庁等の命令、即ち「法令」に基づかない競馬と言うことであれば、「闇競馬」と言うことになるのであろうが、当時の日本は大日本帝国憲法下の王国であり、統治権は王権そのものであり、王権の行使に当たる行政各部は王の官吏がこれを行う体制であった。そして、県知事=地方長官も王の官吏であったのである。従って、当時の県令は、閣令や省令と同じで、王の官吏である県知事を長とする一つの行政各部の発した王権に基づく命令であって、法令の根拠の無い競馬とは言えないものであり、「闇競馬」と言うことは適当でないであろう。

 このことは、後に神奈川県の項でも述べたいが、ポツダム勅令(勅令という王権に基づく王の直接的命令で、法律さえも廃止できた。独立命令という法概念そのものの発令)で軍馬資源保護法が廃止され、地方競馬法が制定されるまでの間行われた競馬を、競馬の歴史について記述する諸文献では、「闇競馬」と言うが、日本国憲法公布前の地方競馬法制定時までの日本は、大日本帝国憲法による王国だったのであり、他にも県規則等によって開催された形跡もあることから、それらの競馬が全く何らの法令に基づかずに行われた競馬であるか否かは、各地でバラバラであったろう。「闇競馬」という言葉は、適切では無いと思量する。


 とまれ、石川県における競馬規程に基づく競馬は、大正14年に金沢市の野原練兵場で行われたとする。翌年は羽咋の千里浜海岸で開催されたというが、いつしか消滅したらしい。昭和6年にいたり、地方競馬規則に基づく競馬が2カ所で開催され、以後、引き続いて競馬が開催された。


<金沢競馬場>

・旧金沢競馬場。昭和21年11月19日撮影。USA-M323-A-6-75


堪忍袋=偏屈親爺の狷介録=-旧金沢競馬場


 地方競馬規則に基づく金沢競馬そのものは、昭和3年5月15日から3日間、陸軍の練兵場の仮設馬場で行われた。その後休止。昭和6年にいたり、石川郡戸板村に常設馬場を建設し、昭和6年の春季開催から昭和13年の秋季開催まで、地方競馬規則に基づく競馬を開催したが、軍馬資源保護法の制定に伴い、いったん廃止。

 昭和22年に至り、前年制定の地方競馬法に基づく競馬場として再開設。昭和48年、現在の(新)金沢競馬場に移転、廃止。

 馬場の1周は1000m。現在地は金沢市新神田1丁目の高岡中学校、新神田小学校、新神田団地。

 上の空中写真は、最古のものであるが、再開設前の写真である。再開設直後の昭和22年の空中写真USA-M632No2-128 もあるが、昭和23年のUSA-M958-25 の方がやや鮮明である。

 縮尺の大きい写真は、昭和37年撮影のMCB625-C8-10 まで無い。

 移転年の昭和48年5月25日撮影のMCB734-C8-9 では既にスタンドが取り壊されている。縮尺は小さいがスタンドが見られる空中写真は昭和41年撮影のMCB661X-C5-6


・新金沢競馬場。昭和48年5月25日撮影。MCB734-C2-6


堪忍袋=偏屈親爺の狷介録=-新金沢競馬場


 現在の金沢競馬場である。昭和48年に旧金沢競馬場から移転、開設された。馬場の1周は1200m。上の空中写真では競馬場敷地の全体が写っていないが、高解像度iで閲覧すると、全景を見ることができる。

 最も古いカラー写真はCCB7522-C3-9 。最新の空中写真はCCB20076-C9-7


 

<羽咋競馬場>昭和22年11月13日撮影。USA-M644-1-48


堪忍袋=偏屈親爺の狷介録=-羽咋競馬場


 羽咋競馬場は、地方競馬規則に基づく競馬場として昭和6年9月10日に施行許可。同年秋季開催から競馬を開催したが、不振の故に翌7年の春秋2回の開催を行った後は休止。そのまま再開されず、小松競馬場に移転、廃止となった。

 馬場の規模は不明。現在地は羽咋市大川町。上の空中写真でも、馬場の痕跡と思われるものが、かろうじて見られる程度であるが、全体が写っていないとはいえ、より縮尺の大きいUSA-R580-24 でも、馬場の痕跡らしきものが認められるため、現在地を、このように推定した。


<小松競馬場>昭和21年10月10日撮影。USA-M283-A-11-146


堪忍袋=偏屈親爺の狷介録=-小松競馬場



 小松競馬場は、昭和12年に羽咋競馬場から移転、開設。昭和12年6月13日から、地方競馬規則に基づく競馬が開催された。同年秋季開催は休止、翌13年春季開催から、再開され、爾後、軍馬資源保護法、地方競馬法、競馬法に基づく競馬が開催されたが、昭和24年の開催をもって廃止された。

 馬場の1周は1000m。現在地は小松市末広町の小松運動公園。

<福井競馬場>昭和23年7月10日撮影。USAwide-MF294(185F294)-52

堪忍袋=偏屈親爺の狷介録=-福井競馬場

 福井競馬場に関する地方競馬史第1巻の記述は、誤植か否か、やや混乱している。

 福井競馬場は、昭和3年に、足羽郡東安居村水越一足羽川放水路付近で開催したというが、年次成績の表では昭和4年春季開催からとされ、本文の別の項では、第1回開催を昭和3年10月16日からとするが、翌年の開催を「翌昭和5年」と記載している。ともあれ、当時の馬場は仮設馬場であったらしく、昭和7年に至って、市内下北野町に常設競馬場を建設したという。

 地方競馬規則に基づく競馬場として昭和13年秋季開催まで競馬を開催したが、軍馬資源保護法に基づく鍛錬馬競走の競馬場としては指定されず、いったん廃止された。

 昭和22年に至り、地方競馬法に基づく地方競馬場として再開設し、競馬を開催し、引き続き競馬法に基づく競馬を開催したが、昭和36年の開催をもって廃止された。馬場の1周は1000m。現在地は福井市大宮1丁目の幾久公園。

 上記よりも縮尺が小さいが、最古の空中写真はUSA-M283-A-11-6 。廃止3年前の空中写真は、縮尺が極めて小さいがCB583YZ-A30B-6566 (この写真は上が南) 。廃止翌年の航空写真はMCB626-C13B-4


<北郷競馬場>

 北郷競馬場は、大正14年9月に大野郡北郷村小舟戸に開設された地方競馬規程に基づく競馬場である。馬場は1周800mの円形馬場、投票所以外は仮設で競馬を開催したという。

 北郷競馬場では、引き続き地方競馬規則に基づく競馬を開催したが、昭和6年秋季開催をもって廃止、大野競馬場に移転した。

 現在地は不詳であるが、勝山市に北郷の地名と九頭竜川にかかる小舟戸橋がある。その近辺か?


<大野競馬場>昭和22年11月21日撮影。USA-R586-51 なお、この写真は高解像度で閲覧しないと全景をみることができない。


堪忍袋=偏屈親爺の狷介録=-大野競馬場


 昭和7年、北郷競馬場から移転開設。爾後、軍馬資源保護法、現行競馬法に基づく競馬を開催。昭和25年の開催をもって、廃止された。地方競馬法に基づく競馬は開催されなかったようであるが、地方競馬史第1巻の既述では、昭和22年7月11日に施行許可を受け翌23年から県営競馬が行われたとある。22年は確かに地方競馬法の時期であるが、地方競馬法による競馬の主催者は、馬匹連合会であって地方公共団体ではない。また、別に記載されている地方競馬法による競馬実施競馬場の一覧では「福井」となっている。もっとも、福井競馬場の項にも地方競馬法による競馬を開催したとの記述は無いが、福井県内における地方競馬法による競馬実施競馬場は「福井競馬場」と推定する。

 馬場の1周は1000m。現在地は、福井県大野市奥越ふれあい公園。

 

<草津競馬場>昭和22年9月27日撮影。USA-R510-1-7


堪忍袋=偏屈親爺の狷介録=-草津競馬場


 草津競馬場は地方競馬規則の制定とともに開設。昭和2年秋季開催から競馬を開催した。 もっとも、当初の草津競馬場は、大津の歩兵第9連隊の練兵場に仮設馬場を設けて行われていた。

 昭和6年にいたり、栗太郡治田村大字渋川に1周1000mの常設馬場を建設し、名実ともに草津競馬場となった。爾後、軍馬資源保護法、地方競馬法、現行競馬法に基づく競馬を引き続き開催し、昭和26年の開催をもって、廃止された。

 上の空中写真は、地方競馬法時代の写真である。廃止の翌年の空中写真はUSA-M3-17-2-48

 現在地は、草津市西渋川1丁目、草津駅西口のディオワールド一帯。

<紀三井寺競馬場>昭和23年4月11日撮影。USA-M906-A-3

堪忍袋=偏屈親爺の狷介録=-紀三井寺競馬場


 紀三井寺競馬場は、明治41,42年頃、競馬規程に基づく競馬場として開設されたという。当時の馬場は不正楕円形の1周800m。大正15年から昭和2年に至り、1周1000mに拡張し、地方競馬規則に基づく競馬を引き続き開催した。軍馬資源保護法の施行により、昭和13年秋季開催をもって、いったん廃止された。


 昭和21年の地方競馬法施行により、再開設。昭和23年に同法に基づく競馬を2回開催。同年には現行競馬法に基づく競馬も2回開催。前回の地方競馬危機のさなかであった昭和62年度の開催をもって廃止された。

 現在地は、和歌山市紀三井寺の県立医大。道路に馬場形態を残している。

 上記写真の前年に撮影されたUSA-R506-4-33 には、地方競馬規則時代の馬場の痕跡が見られる。

 上記空中写真の次の年代の写真は、昭和28年撮影のUSA-M66-11 であるが、高解像度で閲覧しないと全景をみることができない。

 昭和30年代の空中写真は、昭和36年撮影のMKK619-C11-6 。最も古いカラー写真はCKK749-C24-5 。廃止2年前の危機のさなかにあった時代の空中写真はCKK852-C29-6



<奈良競馬場>昭和22年9月23日撮影USA-M496-20


堪忍袋=偏屈親爺の狷介録=-奈良競馬場

 奈良競馬場は、地方競馬規則に基づく競馬場として昭和4年に開設。同年10月20日から競馬を開催。

 爾後、軍馬資源保護法、地方競馬法、競馬法に基づく競馬を開催し、昭和25年の開催をもって廃止された。


 馬場の1周は1000mの釣り鐘型。現在地は奈良市山陵町、秋篠町。馬場部分は水田、それ以外の部分は、現奈良競輪場。なお、空中写真は、翌年撮影のUSA-M85-1-145 の方が鮮明である。

<長岡競馬場>昭和21年7月24日撮影。USA-M205-A-8-71


堪忍袋=偏屈親爺の狷介録=-長岡競馬場


 長岡競馬場は、昭和4年開設。元来は、昭和2年の地方競馬規則制定とともに開催許可を受けたが、中央競馬の京都競馬場を借り受けて競馬を開催する予定であったところ、許可がおりず、京都府乙訓郡神足村大字友岡小字北谷に競馬場を建設し、昭和4年10月1日から競馬を開催したという。

 爾後、軍馬資源保護法、地方競馬法、競馬法に基づく地方競馬を開催し、昭和32年の開催をもって廃止。


 馬場は、1周1000m。現在地は長岡京市竹の台及び友岡1丁目の竹の台団地及び乙訓高校。竹の台団地の外周道路に馬場の形態を残している。


 廃止の前年の空中写真は、USA-M303-19


<京都競馬場>昭和21年年7月24日撮影。USA-M205-A-8-82


堪忍袋=偏屈親爺の狷介録=-京都競馬場

 京都競馬場は、明治39年に制定された閣令「競馬を目的とする法人の設立及び監督に関する件」に基づき設立された京都競馬会により、開催された競馬場である。明治41年に京都市の島原に開設され、大正2年に船井郡須知町に移転。大正13年に現在地に再移転されたという。

 上記写真では、2コーナーに現在の外回り1800mのポケットがない。それ以外は、障害コースも含めて、現状と変わりない。
 昭和61年撮影のKK614YZ-C1-157 (なお、その前年はKK601YZ-1-6925 )に至って、初めて2コーナーのポケットが見られるが、外回り芝1800mのスタート地点というよりも1600mのスタート地点のようである。ただし、ダート1400mのスタート地点は、未だ見ることができない。それらしきものが初めて見られるのはMKK723X-C10-1

 最古のカラー写真はCKK-7414-C20B-26

 平成2年撮影の空中写真KK903X-C15B-1 で初めて、芝外回り1800mのスタート地点を工事している様子が見られる。最新の空中写真はCKK20083-C31-5

 

<大阪競馬場>

・旧大阪競馬場

 旧大阪競馬場は、昭和2年12月26日に地方競馬規則に基づく競馬施行許可を受け、翌3年1月に大阪市港区(後の大正区)の鶴巻に仮設馬場を設け、1月7日から3日間の競馬を開催したのが始まりという。

 しかし、同年の秋季開催は馬場を得られずに休催。翌4年の春秋開催は大阪城東練兵場に仮設馬場を設けて開催し、昭和5年に至り、河内郡八尾町に常設競馬場を設けて開催したという。軍馬資源保護法の制定に伴い、大阪競馬場は昭和13年の秋季開催をもって廃止された。

 馬場の1周は1000m。現在地は不詳。


・新大阪競馬場(別名:長居競馬場)昭和23年11月13日撮影。USA-R443-No2-24


堪忍袋=偏屈親爺の狷介録=-大阪競馬場


 新大阪競馬場は、大阪市の現長居公園内に建設され、競馬法に基づき昭和23年10月から競馬を開催。昭和34年の開催をもって廃止された。

 馬場の規模は不詳。


 上の空中写真よりも古いUSA-M84-1-138 もあるが、これは建設中の写真と思われる。

 なお、昭和27年撮影のUSA-M-1-22-4-3 では見られないが、次の年代の空中写真である廃止翌年の昭和35年撮影のKK605YZ-C3-137 では、障害コースが見られる。


<春木競馬場>昭和21年6月6日撮影。USA-M157-A-6-143 なお、この写真は上が南であるため、下の写真では補正した。


堪忍袋=偏屈親爺の狷介録=-春木競馬場


 春木競馬場は、昭和3年地方競馬規則に基づく競馬場として開設、同年11月3日から競馬を開催。以後、軍馬資源保護法、地方競馬法、競馬法に基づく地方競馬を開催し、昭和48年度の開催をもって廃止。

 馬場の1周は1250m。現在地は岸和田市西之内町の中央公園。


 上の空中写真の次の年代の空中写真は、昭和31年撮影のUSA-M342-2-125 には障害コースが見られる。

 廃止された昭和48年撮影の空中写真は、MKK735X-C3-3

<淡路競馬場>

=淡路競馬場(第1次)

 淡路地方の競馬は、大正3年頃から行われていたという。昭和3年にいたり、地方競馬規則に基づく常設競馬場の建設を始め、翌4年4月10日から競馬が開催された。この淡路競馬場は、昭和5年春季開催をもって廃止され、園田競馬場に移転した。その所在地は三原郡らしいが、次に述べる「第2次」淡路競馬場と同一の場所であったか否かは不詳である。

=淡路競馬場(第2次)

 昭和22年に至り、地方競馬法に基づく競馬場として、三原郡市村青木(現在地は南淡路市市青木の淡路三原高校の南方)に第2次の淡路競馬場が開設された。


堪忍袋=偏屈親爺の狷介録=-淡路競馬場


 上の空中写真は昭和22年10月1日撮影のUSA-R512-4-27 である。馬場の1周は1,000m。

 この淡路競馬場では、引き続き現行の競馬法に基づく地方競馬も開催されたが、昭和24年に1回開催した後、姫路競馬場に移転、廃止となった。


<園田競馬場>昭和22年10月4日撮影。USA-M527-28


堪忍袋=偏屈親爺の狷介録=-園田競馬場


 園田競馬場は、昭和5年に淡路競馬場(第1次)から移転開設。同年12月19日から競馬を開催した。爾後、軍馬資源保護法、地方競馬法、競馬法に基づく競馬を開催し続け、現在に至っている。馬場の1周は当初1,000m、現況は1,051m。

 上の空中写真よりも古い同年4月26日撮影のUSA-M265-30 もあるが、画像が荒く判別しづらい。次の年代の空中写真は、昭和36年5月22日撮影のMKK612-C8-18

 当初1,000mであった馬場が、いつ頃1,051mの馬場に改造されたのか明らかではないが、平成11年1月撮影のCKK982XC3--10 と同年5月撮影のCKK991X -C2-1とを見比べると、この間に改修があったのではないかと思われる。なお、最新の空中写真は、平成19年7月27日撮影のCKK20071-C21-14


<姫路競馬場>昭和36年6月7日撮影。MCG611A-C6-9585


堪忍袋=偏屈親爺の狷介録=-姫路競馬場


 姫路競馬場は昭和24年に淡路競馬場(第2次)から移転開設。同年3回の競馬を開催し、今日に至っている。

 馬場の1周は1200mである。

 上記空中写真では、障害コースが認められる。この障害コースは昭和45年撮影のMKK705X-C6-1 まで認められるが、昭和48年撮影のMKK733X-C6-13 では無くなっている。

 最新の空中写真はCKK20042X-C3-4


<明石競馬場>

 昭和2年の地方競馬規則制定とともに開催許可を受け、兵庫県明石郡林崎村藤江に開設され、昭和3年5月13日から競馬を開催した。以後、昭和8年春季まで各季3日間、昭和8年秋季からは各季4日間の開催を続けた。

 軍馬資源保護法の制定に伴う鍛錬競馬の競馬場指定は受けられず、昭和13年秋季開催をもって廃止された。

 馬場の規模は1周1000m。現在地は不詳。


<鳴尾競馬場(旧阪神競馬場)>

 鳴尾競馬場(別名:阪神競馬場)は、明治39年に制定された閣令「競馬を目的とする法人の設立及び監督に関する件」に基づき設立された鳴尾競馬会により、開催された競馬場である。昭和18年に全ての競馬が休止された以降は、開催されず、現在の阪神競馬場に移転廃止された。

 その馬場の規模は、一説に1周1800mと言う。また、その所在地は、戦時中に軍に接収されたとの説もあることから、USA-M417-43 に見られる滑走路の跡地の辺りにあったものと思われ、現在の鳴尾浜公園の周辺に所在したものと思われる。


<阪神競馬場>昭和35年12月11日撮影。KK605YZ-C1-24

堪忍袋=偏屈親爺の狷介録=-阪神競馬場


 (新)阪神競馬場競馬場は昭和24年に開設され、同年12月3日から競馬が開催された。

 上記の空中写真は、不鮮明であるが、この地域で競馬場が写っている最古のものである。鮮明な写真で最古のものは昭和39年撮影のMKK643X-C3-8 。最も古いカラー写真はCKK748-C6A- 7 。最新の外回りコースが完成した後の空中写真はCKK20071-C19-2


<米子競馬場=別名:皆生競馬場>昭和23年8月31日撮影USAwide-R371-21



堪忍袋=偏屈親爺の狷介録=-米子競馬場

 米子競馬場は、地方競馬規則に基づく皆生競馬場として開設され、昭和4年5月3日から開催したが、昭和12年春季開催をもって休催し、一旦、自然消滅。

 戦後、地方競馬法に基づく米子競馬場として再開設され、昭和22年から競馬を開催した。引き続き競馬法に基づく地方競馬を開催したが、昭和25年の開催をもって休場し、廃止となった。

 馬場の1周は1000m。現在地は、皆生温泉1,4丁目。

 最も古い空中写真は、前年撮影のUSA-M515-6-33

<松江競馬場>昭和22年11月3日撮影。USA-M524-1-39


堪忍袋=偏屈親爺の狷介録=-松江競馬場

 松江競馬場は、地方競馬規則に基づき4年開設。同年10月18日から開催し、昭和12年春季開催をもって廃止された。

 馬場の1周は1000m。現在地は松江市浜乃木1丁目の住宅地。馬場の形態が道路にそのまま残っている。


<浜田競馬場>

 浜田競馬場は、地方競馬規則に基づき島根県那賀郡浜田町に4年開設。同年10月11日から開催し、昭和12年春季開催をもって廃止された。

 馬場の1周は1000m。現在地は不祥。


<出雲大社競馬場>昭和22年11月1日撮影。USA-M628-2-217


堪忍袋=偏屈親爺の狷介録=-出雲大社競馬場

 出雲大社競馬場は、昭和21年11月20に公布、施行された地方競馬法に基づき競馬場の建設を開始、翌22年から競馬を開催した。引き続き、現行競馬法に基づく競馬を開催したが、昭和25年は休催。翌26年に出雲市営競馬1回6日間の開催をもって廃止された。

 馬場の1周は1000m。現在地は出雲市松寄下町の自衛隊出雲駐屯地周辺。空中写真は縮尺と画像が悪く、上のものしかない。前月撮影の空中写真USA-R514-4-57 は建設中のものと思われ、馬場がはっきりとは見られない。


<益田競馬場>昭和39年10月26日撮影。MCG6413X-C6A-7


堪忍袋=偏屈親爺の狷介録=-益田競馬場


 益田競馬場は地方競馬法に基づき開設され、昭和22年から競馬を開催、引き続き現行競馬法による競馬を開催したが、島根県の撤退により、昭和25年の開催をもって一旦廃止。昭和27に益田町営の競馬場として再開設された。

 しかし、平成14年度の開催をもって廃止された。馬場の1周は1000m


 上の写真は、益田競馬場の最も古い空中写真である。

 なお、昭和22年10月3日撮影のUSA-R514-5-30 は建設中らしき馬場が見られる。翌年撮影のUSA-M875-78 は、縮尺と画像が悪く競馬場の判別が困難であるが、微かに馬場らしきものが認められる。廃止前の空中写真のうち最も最近のものはCG20024X-C6-5