戦前から名古屋は産業都市でありました。とりわけ零戦(ゼロ戦とも)と呼ばれる、わが軍における航空機の代表格であった零式艦上戦闘機の多くは名古屋でつくられていました。そのため、米軍による空襲の標的とされ、都内に次ぐ空爆に晒されることになりました。
幾度も大空襲に見舞われた名古屋市内において、80年前のきょう、昭和20年5月14日、、、
ごめんなさい、あえてここで「敵国の暦」たる西暦は記しません。
名古屋城、炎上。
国宝・名古屋城。
昭和5年に旧国宝保存法にもとづく国宝第1号のひとつとして指定された名古屋城は、のちに日本初の世界文化遺産となった姫路城よりも高い文化的価値が認められ、こちらよりも先に国宝指定を受けています。のち昭和17年には345枚に至る本丸御殿の障壁画も国宝に指定され、大政奉還の場として知られる二条城二の丸御殿と並んでわが国の城郭における二大御殿としての文化的価値が認められた矢先に………
もしも国宝が守られていたならば…
ありし日の国宝・名古屋城。
(名古屋市市政資料館(名古屋・東区)の展示より)
「誤爆」という説が強いのですが、同日未明に落下した焼夷弾により、まさにまちの誇りであった名古屋城は物凄い勢いで燃え盛り、そして灰燼に帰することになりました。
もし、この戦で名古屋城が「無事」であったなら。
昭和30年の文化財保護法のもとでの、現在の「国宝」に真っ先に指定されたことでしょうし、同大戦後に「白い街」などと揶揄された名古屋は、城によって日本随一の文化都市として君臨していたことでありましょう。これを申すと賛否を覚悟のうえですが、外国人観光客の注目度は高く、名古屋市を中心として南に伊勢・熊野、西に京都、北に飛騨という観光の中心地となっていた空想を描くとき、虚しさ、悔しさを晴らせない自分に気付かされます。
なくなったことで気付いたもの。
本丸御殿は緻密な設計図により忠実な再建がかなった。
しかしながら、「なくなった」ことが、「たいせつさ」を際立たせた、そうとも思えます。
私の「虚しさ」「悔しさ」は、このまちを………すなわち名古屋を、、、
国のチカラによることなく、各々の時代に生きた、そして、いま、生きているひとびとのチカラでつくりあげてきた名古屋を、大きく躍進させんという原動力につながっています。
なくなったもの以上に、
そのはるか、大きなものを、描こう。
この、かけがえのない、名古屋の地で。
(画像提供:名古屋市総務局)
このアメブロでは名古屋の面白いスポットや夢のある再開発計画などについて、noteでは松坂屋創業100年記念企画をはじめ、時を繋ぐ大名古屋ストーリーをお届けしてまいります。
※当面は不定期更新になりますこと、ご容赦ください。
■〈55Labo〉無料相談所■
・MD戦略
・出店戦略
・接客、サービスコーチング
・プロダクトの販路開拓
・空港、駅などの出店用地
・ブランディング方法
・OMO戦略(店頭×EC)
など、お困りごとはありませんか?
私ども〈55Labo〉はアパレル系ショップの総合コンサルティング業務を中心におこなっています。
無料のご相談だけでもぜひお気軽にお寄せいただければと思います。
■〈GO-chin〉講演・執筆依頼募集■
・最新マーケット分析
・ショップ運営ポイント、トレンド
・ブランド化に至るケーススタディ
・地域共創の中でのショップ運営
・スタッフのスキル、マインドUP
など、アパレル系の総合コンサルだからこそできる幅広い内容!
ブログを記している「GO-chin」が直接講演、執筆します!!
先日は日本の食品業界のトレンドについての社内講演をおこないました。
みなさまのニーズに沿ったご相談でも、ブログ記事を深掘りした内容でも対応いたします。
〈55Labo〉を、みんなのチカラに!
※24時間以内に返信を心がけますが、内容によっては返信いたしかねる場合がございます。
g.osada.55labo@gmail.com




