戦場伝説(キスカの奇跡編) | ローライダー

 春だってのに寒いな〜、これが花冷えっていうのかな?

 日曜日は朝から雨も降ってるし、外に出る気力もなくなってしまい、娘たちもそれぞれ一週間前からディーラーに預けたままなので、この土日の連休はボケッとヲタ部屋で、ブログの更新やら映画鑑賞やらで過ごしているドテチンでございます。

(`・ω・´)ゞ

 そんなわけで、こうしてブログの更新なんぞしているんですが、今回のテーマはどうしようかと考えて毎回悩んでしまうのですよね~ww。

 遊びに行ければ、それについて書けるし、何か変わったものでも食べれば食レポも書ける。

 また面白い人がいれば、そいつについて面白おかしく書けるのだが…

 あ、いや面白い人は沢山いるのだが、ここで書いていいのかどうか迷うような人が多いんですよね~www。

 ってことでネタが何もないので、今回はちょっと面白くないんだけど、戦場伝説の中でも史実にもちゃんと記録されているのだが、少し不思議なお話をさせていただきたいと思います。

 

 

 その名も「キスカ島撤退作戦」についてです。

 

 キスカ島撤退作戦とは、1943年(昭和18年)7月29日に行われた日本軍の北部太平洋アリューシャン列島にあるキスカ島からの守備隊撤収作戦のことである。

 キスカ島を包囲していた連合軍に全く気づかれず日本軍が無傷で守備隊全員の撤収に成功したことから「奇跡の作戦」と呼ばれる。

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(キスカ富士〜晴天時)


 この作戦に先立ち行われた、アッツ島の戦い1943年(昭和18年)5月12日にアメリカ軍11,000名のアッツ島上陸作戦によって、山崎保代陸軍大佐の指揮する日本軍のアッツ島守備隊2,500名は上陸したアメリカ軍と17日間の激しい戦闘の末に玉砕し、制空海権を完全に奪われてしまったことから、キスカ島に駐留していた日本軍キスカ島守備隊約5,800名の救出が急務となり実施された。 

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 当初アメリカ軍の包囲下にあったキスカ島に近づくのは自殺行為だとして、潜水艦による撤退作戦が行われたが、これが不調に終わったために立案された水雷戦隊による撤退作戦ではあった。

 しかし、正面から堂々と作戦を行っていたのでは、当然キスカ島近辺で警戒任務に当たっているアメリカ艦隊との戦闘は避けられない。

 そこでこの地方特有の濃霧に紛れて高速でキスカ湾に突入、素早く守備隊を収容した後に全速力で離脱を図る、という計画が立てられた。

 この作戦の成否を決める要素は2つあった。

・ 視界ゼロに近い濃霧がキスカ島近辺に発生していること。

・ 日本艦隊に電探及び逆探を装備した艦艇がいること。

であったが、キスカ島周辺の濃霧については、潜水艦を先行させて現地の天候について偵察させ、また電探及び逆探装備の艦艇についても、最新鋭高速駆逐艦「島風」の参加により解決した。

 指揮官は、第一水雷戦隊(以下一水戦)司令官 木村昌福少将である。

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(木村昌福海軍少将)

 

 しかし、作戦が発動された7月10日から同月15日までの間に4度も突入を図ったが、キスカ島に接近すると霧が晴れてしまい、断念せざるを得なくなった。

 木村少将は、自らの経験から航空隊の護衛もない艦隊は、敵航空部隊に狙われたら、ひとたまりもなく全滅する危険性さえあるということを知っていたので

 「帰れば、また来られるからな」

と言い、燃料補給のため部隊を一旦幌筵へ帰投させた。

 帰投後の木村少将への批判は凄まじかったといいます。

 直属の上司である第五艦隊司令部は元より、連合艦隊司令部や大本営から

「何故突入しなかったのか、今すぐ作戦を開始し、突入せよ」

なんて無茶振りも交えて批判された。

 確かに、霧が晴れる8月までに撤収作戦を完了しないと、アメリカ軍による上陸作戦が行われると予想されていたし、更に備蓄している燃料も枯渇しかけていたこともあり、上層部は焦っていたのだ。

 だが、そんな批判も木村少将は全く意に介しておらず、巡洋艦阿武隈で釣りをしながら濃霧が発生するのを待っていたという。

 そしてとうとう7月22日、気象台から

「7月25日以降、キスカ島周辺に確実に濃霧が発生する」

との予報が出されたのである。

 一水戦と督戦のためと称して、第五艦隊司令部も付いて来て再出撃した。

 作戦決行日となった7月28日、キスカ島周辺の気象状況は、前回と同じような状況だったため、第五艦隊司令部としては、いざとなると突入命令の判断を逡巡していた。

 一方、一水戦では気象観測の潜水艦及びキスカ島守備隊からの通報で、濃霧発生が裏付けられたとして、司令官の木村少将は突入を決意していたのだ。

 かくして、キスカ島守備隊5,800名の撤収は、たった55分で完了し、全速力で離脱することに成功したのだった。

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 この間アメリカ軍は、8月15日に予定されていたキスカ島上陸作戦に向けて着々と準備を進めており、戦艦2、重巡洋艦4、軽巡洋艦1、駆逐艦9を中心とした艦隊で、キスカ島の海上封鎖及び艦砲射撃を行っていた。

 そんな中、7月23日にアメリカ軍飛行艇のレーダーが、アッツ島南西海上200海里に7隻の船を捕捉し、米艦隊司令長官キンケイド中将はこれを日本艦隊と判断し、直ちに戦艦を含む強力な艦隊を編成し迎撃に向かわせた。

 7月26日、濃霧の中戦艦ミシシッピーのレーダーが日本艦隊を捕捉、その他アイダホ、ウィチタ、ポートランドの各艦から同様の報告を受けたキンケイド中将は、直ちにレーダー射撃を命じ、約40分後にレーダー反応は消失した。

 しかし、日本艦隊はその位置には存在しておらず、現在ではレーダーの誤反応だったということになっている。

 7月28日(撤収作戦決行日)、敵艦隊を撃滅したと確信したキンケイド中将は、弾薬補給のため、一時海上封鎖の艦隊を哨戒用の駆逐艦まで含めて撤収させてしまったのである。

 第五艦隊及び一水戦は、偶然にもアメリカ艦隊が海上封鎖を解いたタイミングで撤収作戦を実施し、翌29日には作戦を終了したことになる。

 アメリカ艦隊は、30日には補給を終え、日本軍が既に撤収してしまったとは知らずに、海上封鎖を再開し、誰もいない島に向かって艦砲射撃やら空襲を再開した。

 

 8月15日、アメリカ軍は艦艇100隻、兵力約34,000名をもってキスカ島に上陸を開始した。

 先に実施されたアッツ島での上陸作戦で、日本軍守備隊の果敢な攻撃を体験していたアメリカ軍将兵は、極度の緊張状態だった。

 このため、濃霧の中ちょっとしたことで各所で同士討ちが発生した。

 アメリカ軍は誰もいない島で、死者100名、負傷者数十名を出してキスカ島を占領した。

 また、お茶目な日本軍の軍医がいたずらで

「ペスト患者収容所」

と書かれた立て看板を兵舎前に設置したため、上陸部隊は一時パニック状態になったというおまけつきである。

 

 この作戦には、いくつかの不思議なことがあったという。

 その一つは、突入後濃霧のため視界不良で座礁する危険性があったが、日本艦隊周辺だけが一時的に霧が晴れたこと。

 霧が晴れたおかげで、約5,183名もの守備隊将兵をたった55分という早さで撤収させることができた。

 また、アメリカ軍の飛行艇のレーダー及び迎撃部隊の複数の艦艇のレーダーに、いないはずの日本艦隊が映り込み、アメリカ軍艦艇の36センチ砲弾118発、20センチ砲弾487発を何もない海に撃ち込ませて40分後には消えてしまったことだ。

 更に濃霧の上、極度の緊張状態にあったとはいえ、誰もいない島で100名の死者を出すほどの同士討ちがあったというのは、普通は考えられないことだ。

 

 このキスカ島撤退作戦については、戦後までキスカ島守備隊将兵の多くの方々が生き延びていたことから、これら将兵が執筆した多くの書籍が書かれ残されているが、複数の方が

「アッツ島で玉砕された方々のご守護によって内地の土を踏むことができた」

と書いておられる。

 『キスカ戦記』~キスカ会によれば

「キスカ島突入前夜、敵艦隊のレーダーに映り、その弾薬と燃料の消費を強いたのも、山崎部隊の霊魂が創り出した、幻の日本艦隊」

という件がある。

 また

「撤退の際、アッツ島沖合を通過するときにアッツ島の方から『万歳・万歳』と叫んでいる声が聞こえた」

と書いている方もいらっしゃる。

 

 もしかしたら、本当にアッツ島で玉砕された将兵が霊魂となってキスカ島守備隊将兵を救ったのかも知れますんね。

 全て偶然だと片付けるのには、ちょっと無理があると思うのです。

 だって、そう考えた方がロマンチックでしょwww。