維新の道の噺⑤ | 面白きコトも無き世を面白く…するのは自分の心意気
~中岡慎太郎~

幕末の話をすると坂本龍馬の名前は知っているが、中岡慎太郎は知らないと言う方が以外に多くてビックリしている。

司馬遼太郎先生を始めとした様々な小説、映画、マンガなどで描かれる坂本龍馬は、その描かれ方や残した逸話から自由に奔放に幕末を生きた
のような人物
で、今を生きる我々の心を掴む魅力に溢れています。

その海の様な人物の陰にどうしても隠れてしまっていますが、その行動は坂本龍馬を越えると言っても過言ではなく、幕末にこの人物が居なければ恐らくまた違った形の時代になっていたのでは、と言う活躍をしたのがこの中岡慎太郎と言う人です。

幕末の嵐の流れに乗り、奔放に突き進んだのが坂本龍馬なら、幕末の嵐に吹き飛ばされないように毅然と立ち、風雨に耐えて進んだ
大地(陸)のような人物

この中岡が生まれたのも龍馬と同じ高知県でしたが、生家は大分離れています。
つまり、彼らもまた幕末と言う時代でなければ関わりを持つこともなかったかもしれません。

2011年に高松空港に到着した私と相棒はレンタカーを借りて城跡、史跡、幕末巡りを開始します。
初日は香川県の城跡に立ち寄り、午後には高知県に向け徳島を通過していました。
(徳島県はいずれまたじっくり回りたいと切実に思っています。)
夕方、我々は高知県の東部奈半利町の宿に一泊します。
宿に着く頃にはすっかり日も暮れ、荷物を部屋に置くとすぐ夕食。
今後の一週間の旅の行程を確認しつつ、土佐の地酒に舌鼓を打っていました🍶

翌朝、この旅二日目の一番の楽しみがこの奈半利から北に進んだ場所
高知県安芸郡北川村柏木地区
にある
中岡慎太郎館
でした。

中岡の生家があった地域に今は記念館が建っています。

中岡は大庄屋の家に生まれました。
幼い頃から向上心が高かったそうで、7歳の頃から家から片道90分の学問所まで通い、14歳ですでに講師代理を務めていたと言われる秀才でした。
その時学問所まで歩いた道(正確には山道)がいまも
向学の道
として残っています。正直、道と言うよりは軽い登山となるかと思いますのでもしその道を歩いてみたいと言う方はしっかり準備をしてから挑んでください(^_^;)

青年期、庄屋を切り盛りしていた父が病に倒れると、その父の代理、庄屋見習いとして働きだします。
当時、地震・台風・伝染病の流行などで困窮していた村民に近隣から借り入れた米などを配給したり、土佐藩に村の窮状を伝え800両と言う大金を借り入れたと言う記録が残っているそうです。

諸説ありますが、急速な物価高が起こっていた幕末の貨幣価値は
一両=だいたい八万円くらい
だったそうなので、中岡が村を困窮から救うべく藩に陳情し、引き出したお金は大いに役立った事でしょう。
それが二十歳を過ぎたばかりの青年中岡が政治、世の中の形に直接触れる最初の機会となったのではと言われています。

以前もこのブログで書いたように、土佐には独特の、戦国時代からの負の遺産とも呼べるような身分制度がありました。

坂本龍馬もそうでしたが、中岡もまた大庄屋の、比較的土佐でも裕福な家に生まれるものの、その身分は郷士と呼ばれる虐げられる身分の生まれでした。

黒船の来航により、徳川の築いてきた江戸時代と言う平和な時代が揺らぎはじめます。
同時に平和な時代の中で生まれ、積み重なってきた歪みに対する鬱憤も幕府へと向けられる時代がやって来ます。

土佐藩でも幕府の在り方を正そうとする動きは郷士と呼ばれる身分の者達を中心に高まりはじめ、やがて中岡も身を投じる事となります。

最初は上士VS郷士の式図で幕末への関わりが始まりますが、次第に日本を取り巻く状況は身分云々をとやかく言ってる場合ではなくなります。
そんな中、中岡慎太郎の存在は坂本龍馬にも負けない輝きを放つ事になります。

残念ながら知名度はまだまだ龍馬には及んでおりませんが、少しでも興味を持たれた方は是非調べてみてください。

中岡慎太郎館に行ってみようと思っている方、現在こちらでは



上記の写真展が開催されているとの事。


こちら↑をチェックして夏休み中チャンスがあれば足を運んでみてくだされ♪

次回に続く