素浪人、伏見に行くの噺 壬生浪士組 | 面白きコトも無き世を面白く…するのは自分の心意気
~清河八郎~

前回紹介した

寺田屋騒動

がきっかけで幕末にはある特殊な集団が誕生します。

その名は

新撰組

幕末を知らない人でも名前くらいは聞いたことがあるかと思う。この組織に関係する人物をモチーフにしたアニメや漫画、また映画や最近では大河ドラマにもなったりしています。

実はこの集団が生まれるきっかけが前回の薩摩藩士同士の惨劇となってしまった寺田屋での事件だったのです。

倒幕を目指す寺田屋に集まった一部の過激な薩摩藩士。
その面々に同調し、共に行動を起こそうとしていた人物が各地にいました。
その中の一人に
清河八郎(きよかわはちろう)
と言う人物がいます。
庄内(現・山形)藩士。学問に秀で、二十五才にして私塾を持つ才人であり、北辰一刀流免許皆伝と言う腕の持ち主。

清河は京都で倒幕の兵を挙げる薩摩藩士らと共に行動をするつもりだったようです。が、諸事情により決起する直前、寺田屋には居ませんでした。

その頃寺田屋では倒幕の計画を相談するために集まった薩摩藩士らが島津久光公の命によりそれを止めに来た同じ薩摩藩士らと対立、結果同士討ちと言う悲しい出来事に発展してしまいます。清河は偶然にもその難から逃れることになりました。

しかしこの事件により清河の計画もまた頓挫する事になります。
しかし清河は外国を打ち払う攘夷を、朝廷主導の国造りを諦めません。

寺田屋騒動の翌年1863年、
将軍徳川家茂公
が京都に上洛することになり、その警護が必要であると幕府に進言、警護を担う浪人を江戸で集める許可を得ます。

学問など秀でていた者を重用し、犯罪者であろうがこれに参加するものは罪を赦され、農民だろうが浪人だろうが身分にとらわれず、年齢も問わず雇用する、当時としては画期的な集団、
浪士組
が結成されます。

ただ、この浪士組、表向きは将軍警護の集団でしたが、清河はこの集団を京で
幕府の代わりに攘夷を実行する集団
へと変えるつもりだったのです。

本来の目的を清河は京都で浪士組の面々に伝えます。
そして弁の立つ清河の意見に浪士組の多くが賛同します。

その中でごく少数ではありますが、これに異を唱え、本来の目的である将軍警護をすべきとする者達が現れます。

武州多摩から浪士組に参加した近藤勇を筆頭とする試衛館(しえいかん)組もそのごく少数の中の面々でした。

清河に賛同した者達は京から再び江戸に戻ることになります。その者達は後に新徴組と呼ばれます。

清河に賛同せず京都に残った面々は、その後、攘夷を掲げる過激な浪人達から京都の治安を守る役目を担うことになります。
この少数派の集団が
壬生浪士組、後に新撰組
と呼ばれる事になります。 

江戸に戻った清河はさっそく行動を始めようとします。
ところが、すでにその動きを怪しんでいた幕府に先手を打たれます。
幕府の刺客であった佐々木只三郎らに暗殺されるのです。

倒幕を目論み、攘夷のために清河が集めた浪士組。
その中から生まれた
壬生浪士組(新撰組)
は彼の目論みとは全く違う、最後の最後まで幕府を守る集団になります。

また清河の命を奪った
佐々木只三郎
が率いることになる
京都見廻組
もこれからの事件に深く関わる事になります。

寺田屋事件(騒動)から幕末の次なる事件、池田屋事件へのつながりはこうしてうまれました。

次回、池田屋事件とは?と言う噺に続きます(^-^ゞ