目覚めたとき、
胸が痛くなくて、安心した。

今日は、そんなに、好きが強くない…。

今日は、穏やかな1日になるかな、と。

もうどうしょもない、なんて思う恋愛…

そんなの、
愛だ、恋だ…には、なくなるんだろうな、
と漠然と悟った、35歳を迎えるくらいのとき。



恋愛なくして、生きられなかったんじゃないかと思うくらい、小学生のころから、ずっとずっと、恋愛してた。いつだって、本気で大好きな人が、大好きで、まっすぐに好きって、伝えて生きてきた。
どの時代のときの友人に会っても、きっと必ず、わたしの恋愛話を知ってると思う。

10代も、20代前半・周りの友人がコンパしたり、飲み会とか企画がいっぱいあったころも、いつも好きだって気持ちだけがわたしの真実で、デートできなくてもたとえ会えなくても、好きだった。
20代後半、幾人もの結婚式に参加して、その数分の、その数分以上の、ハッピーエンドを横で見て、
次は、もしかしたら、わたしかもしれないって、密かに声には出せなかったけど、願うように、祈るように帰り道を何度も歩いてた。何気ない出会いの始まりが、ゴールインしてhappyendになった結婚式も、まるで結ばれるために出会ったような2人も見てきた。
たくさんの奇跡を信じてた20代後半の恋愛だった。

30代前半…もう奇跡を信じようなんて気持ちは、気が付けばなくなっていて、奇跡を信じるより、確かに心にある好きと思う気持ちを、痛みも抱えながら、好きも苦しいも感じる、確かな恋の重みが確かな存在感でわたしの恋愛の真実になってた。
奇跡じゃない、小さな心の中の真実。
奇跡をもう待つことができなくて、小さくとも、真実が欲しくなってた。

それでも、35歳を迎えるころ…
そんな小さな真実すら、大切する意味がなんだかわからなくなってきた。
気が付いたら、好きを好きと叫ぶチカラも言葉にするのも、空気に溶けていってしまうだけのようで、考えないようにし始めてた。
子供や家族や…実態のあるもが周りに増えて、空気の中で風を必死に握りしめているようで、本当に疲れてしまったときがある。

それで、なんとなく…
もうどうしょうもない恋なんて、しないんだろうな、って思った。空気の中で風を掴もうとしたら、苦しいから、風には、吹かれている方が楽だと、わかったから。だから、どうしょもない、なんてこと、恋愛ではもうないって、あったとしても、その重さがわかるから、わたしは、誰よもりもそれを選ばないな、って。
どうしょもない、なんてこと望まない、と。


オトナになると、都合がいいことがたくさんあって、
縁、ご縁という言葉があって、それは願いや祈りを超えたところに存在する。行き着くとこは、ご縁の道。
それは、叶わない好きを諦めるのに、空気の中で風を掴もうとする不毛な日々に、とても自然な終わり方を指し示してた。かしこいオトナに…。ナル。

そりゃ、なりたいよ。

そこまでわかったから、恋愛ばかりしてたわたしが、ちゃんとお見合いだってしたし、出会いも探した。



それでも、まるでバカみたいに…
信じたくない想いが胸を痛め…
できたら、嘘だっていいよ…と言ってしまいたい程、
できるだけ、かしこいオトナ的な処理を…しょうと、
結構、必死でするほどに…

5年前から好きを忘れらない人を思って、胸が痛い。

降参しちゃえばいいのかもしれない、
好きなら好きで、いいじゃない、

でも、それを選ぶしかないとしても、
そんな簡単には…
わたしには、選べない想いがある。

だから、
なるだけたくさんの、新しい人に出会う。
絶対に比べないように、ありのままの姿をちゃんとみるようにしてる。

でも、
結果が出てないから、忘れられない?
2人が付き合わないから、ダメにもならない…
だから、わすれようもない。
そうかもね。
フラれたなら、またちがったかもね。

でも、それすら、今。

奇跡も信じず、祈りも捨てて、
だれが、彼とのことを、教えてくれるのだろう。

一体…。


彼への想いが、愛だと知ったとき…
素直に思いを言葉にしてみようとおもいました。
気休めじゃない、答えを探そうとすることは、
でも、やっぱり、風を掴もうとしてるだけなのかもしれないけど。気がすむまで好きでいればいいとか、そんな無責任なこと、わたしは、わたしに言えない。だから、こんなに、真剣に文章を書きました。



大好きな人は、わたしの憧れの人。

その人の、前に向かって進んでいる日々はいつだって素敵で、

出会ったころのその人も、今と変わらず、目標に向かう現実の中で

生きていた。

久々に連絡をとったら、その姿に変わりはなくて、素敵でした。

そういう人が、わたしは大好きです。

そして、そういう人を生涯愛するのだと思うんです、きっと。

 

その視線で、自分を見てみると、、、

自分の中途半端さが、自分を飽き飽きさせているんだと、わかりました。

だって、最近のわたしは、何を隠そう、自分に飽きていたから。

楽しいことを外側に求めようとして数週間を過ごしました。

でも、それは、映画を見ているような感覚とあまり変わりがなくて

実感的な楽しさと、少し違って感じたし、何よりものごとに対して

主体性のない、無責任がゆえの発言が自分に目立っていたんです。無責任というのは、実につまらないものです。

 

無責任の楽さという年代は、もう過ぎているので、

やっぱり責任の中で成し遂げ得るものに、充実感やおもしろさを感じます。ちょっとしたことですが、ここ数年仕事をそうして頑張る機会を頂いて、そのせいが、プライベートは楽でいいって、思ってたんです。だから自分のプライベートは、楽さを優先させていました。

 

でも、ちょっと、本気が必要になりそうです。

自分の人生の「たのしい」の分野に、本気を投入するときがきました。

仕事の分野は、好きじゃないのに、本気でやって「充実」を得たから、

自分の一度りきの人生に、責任もって、取り組もう!

 

 

憧れの人は、いつも、わたしの人生の一番星です。

 

と思う、今日であります。


生涯愛せる人と
共に生きる人生を、進んで、選ぼう。

物書きになりたい…

そんなものになれる、人生経験はない。
だから、裏付けはない。

でも、夢だから…自由だ!

そんなわたしが、そのとき買った本。
なんか、物書きもいろいろあるんだろうけど、
わたしが好きなのは、こんな感じなんだ!と自分を知る、そんなきっかけの本。

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わたしは、小さな頃から本を読まない。
馴染みがなかった。
本を読むのは、苦手意識があったように思う。

絵本を読んでもらった記憶は、だった一度だけある。おじいちゃんの妹で、王子のおばあちゃん、と呼んでいた。そのおばあちゃんが読んでくれた

ノンタンシリーズの「ノンタンおねしょ」
みたいな、タイトルだったかな。
今も鮮明に残ってる。小さいながらその時間がとても嬉しかったのか、その記憶は、わたしの中から一度も消えたことはない。

本への苦手意識とこの記憶に関係性はないんだろうけど、なぜか、思い出す。笑

話は変わって…
あまり本を読まない私が、読んだことがある数少ない中で、いくつか大好きな本や一場面がいくつかある。
久々に、1つ読み返してみた。

デットエンドの思い出
 P213. 10行〜  の一節


やっぱり、好きだった。

当時、この一節を初めて読んだとき…
ずっと小さい頃から抱えてた、誰にも言えなかった胸のつかえが、すーと流れて落ちていって、涙がたくさん溢れて、安心して、ほっとした記憶がある。

そのとき感じたあったかさを、今も読み返すと感じます。

物語…記憶…=宝物


18歳くらいから…
何も変わっていないような感覚で、
36歳を今、生きている。

ただ現実には、確かに「大人」になっている。
だってその証拠に…
仕事もかつてよりずっと出来るようになって、
自分も大切にできるようになっていたり、
日々は、穏やかに平和に過ぎている。
深い哀しみもないし、悲劇のヒロインにもならない。
自分人生は、happyな主役を生きること。
そういうこと…。

それでもね、「大人」にも、
荒ぶる感情にはならないとしても、
ただ、ただ…強く感じる思いが、ときにあるものなんだね。
それは、哀しみの理由にもならないし、悲劇のヒロインの台本にもならない。

ただただ、純粋な思いがね、心を超えてしまう。

それは、「大人」っていう、別に賢くまとめた理由ではなくて、
唯一理由らしきを言えば、
「わたし」という存在の「証」。

ただ、ただ、会いたいだけ。
真実をしりたいだけ。

哀しみの理由のためじゃなく
幸せの根拠のためでもなく…。

Thaiに旅行に出掛けたとき、旅の理由は2つあった。

1つは、休暇。

もう1つは、会いたい人に会いに行く。

 

意外と仕事が好きで、取り掛かると手が抜けないタイプで旅にでる前までも完全燃焼ぎみに仕事をしてた。

だから、行きの飛行機も旅先の初日から数日は、ほんとに良く寝てた。お蔭でカラダの指先・足先・あたまのてっぺんまでもに新鮮なエネルギーが満ち渡るのを感じた。

 

今在る、等身大の自分を感じて、妙な安心感があった。

安心感を感じれたことが、私にとって貴重な体験。

 

あと1つ、会いたかった人。

*****毎日、会えた*****

会うたびに心がいろんな感情に出会って、そういうこと全ても幸せを感じた。とても大切な存在になった。

 

 

旅を終えて、日常に戻って・・・

キラキラな思い出を抱えて、日々の中に邁進していく。

同時に、

宝物が色褪せていくような感覚が、心の底で実は漂っている。

妙な苦(クル)しみと、ささやかな苦(ニガ)み。

 

たとえ宝物でも、それをずっと手放せなくなってしまったり、すがってしまったり、前に進むことを恐れてしまったりしているのだとしたら、

それは、「今」というのと、少しだけ違ってくる。

「今」っていうのは、ほんとうにリアルにわたしにあるもの。

宝物は、「今のわたしの感覚の一部にちゃんとなっている」

そう思えることで、色褪せていく、という感覚はなくなる気がする。

 

 

会いたい人に会いにいったけど、

今はすこしだけまた、違う空の下。

幸せを願いながら、祈りながら・・・

わたしも自分の幸せの道を歩んでいく。

 

強気な発言なんて、特別する気はない。

心を寄り添い合える時間を一緒に過ごしてみたかたった。

遠くても、わたしはそれはできるって、小さなころから、そう思ってた。

 

でも、大切なのは何より「自分自身」

そのことを、36歳で知って、

 

大切でも「別々なこと」が、ある。

それを、受け入れる。

 

もしかしたら、これからもずっと「違う空の下」なのかもしれない。

でも、また会えるかもしれない「この大きな空の下」。

 

もっと素敵な未来がちゃんとあるんだとしても、

大切な人に向かう心の中の複雑な気持ちを、涙を流しながら整理する

何も終わってないのに、涙が流れるのはなぜだろう。

心のカダブタかしら?!

 

いゃ、ちがうな。。

遠い空の下の大切な人へ届けたい「願いと祈り」、

でも届かない「声」がきっと、「涙」になってる。

 

 

きっと、大切なあの人も同じ思いでいるような、気がします。

 

 

 

***今日も、単なる「memo blog」***