エセ左翼の跋扈(1) | 子や孫世代の幸せを願って

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エセ左翼の跋扈(1)

 

ネット空間では「パヨク」「ネトウヨ」の聞くに堪えない誹謗中傷合戦が繰り広げられていますが、そもそも左翼、右翼をそれぞれどのように理解されているのでしょうか。

 

左翼、右翼というのは、もともとは、フランス革命時の議会の座席配置で、議長席から左側に「革新派:旧体制否定」が座り、右側に「保守派:旧体制擁護」が座ったところから来ている」と言われています。

 

そのフランス革命は、いわゆる「市民革命」の代表例であり、絶対主義、封建的身分制度や土地制度を解体し、民主的、資本主義的社会を実現しようとしたものとして知られています。

 

その後、今度は中産階級(ブルジョワ)が牛耳るその「資本主義社会」を、被搾取階級である労働者(プロレタリア)が打倒し、格差、貧困の無い平等な「社会(共産)主義社会」(生産手段を私有から社会所有に)を樹立しようとする動きになっていきました。

 

このような歴史過程で、抑圧、格差、貧困のない、自由で平等な社会を創ろうと活躍してきた人々が「左翼」ということになります。

 

しかし、左翼が目指した共産主義国となったかつての「ソ連」や現在の「中国」などを見る限り、左翼の理想は実現しなかったということになるのでしょう。単に「支配者が、王侯貴族、ブルジョアから『赤い貴族』に替わっただけ」であり、そのまま抑圧、格差、貧困に晒された社会となっているからです。

 

現状の理不尽を撲滅し、理想社会を実現するとの崇高な志も、下剋上を果たせば、今度は自身が支配者となり、欲望、理不尽の限りを尽くすというのが、悲しいかな人の世界の現実かもしれません。

 

それはともかく、左翼思想の根本にあるのは「人の理性や知性により、理想の社会を創ることができる」という考え方です。

「理不尽な旧弊を打破し、新しい世界を創る」といった格好様さや正義感も手伝い、インテリが好みやすい思想でもあります。

 

一方の右翼思想は「歴史や伝統を蔑ろにしては理想の社会は築けない。それらには人の理性や知性だけではカバーできないものがある」という考え方です。理性、知性は大事だが、ひとは間違いを犯すものであり、おのずと理性、知性に基づく正しさにも限界がある。それゆえに今日まで紡がれてきた歴史や伝統に謙虚に向き合うべきだということです。

 

左翼思想を抱く人は、得てして理性、知性を過信し、正しいのは俺たちの描く理想、そうあるべきとその実現に向け一直線に動きがちです。理想と大きくかけ離れた現実が目の前にあれば、ひと際過激な現状破壊に走り、「改革」、「革新」を遂げようとします。

 

右翼思想の人は、人の理性や知性を信じ切るのではなく、説明できなくても、これまで先人が守って来た歴史や伝統には、社会秩序を保つ上でなんらかの意味や理由があるとし、社会の在り様を直す必要があっても、なんとかそれらと折り合いをつけていこうとします。その意味で漸進的で穏健な「改善」に動きます。

なんとなく、右翼と言えば、黒塗り街宣車を想起し、乱暴な印象がありますが、本来、思想や行動は左翼の方が過激なのです。(黒塗り街宣車も実は左翼の偽装との話もあるようです)

 

左翼思想は「ひとの理性や知性の確からしさ」を信じるので、突き詰めれば「理想社会」は万国共通のものになるとし、「国」や「国境」にこだわらない「世界主義」「国際主義」「普遍主義」「無政府主義」につながります。

 

一方右翼思想は「歴史や伝統」を大事にすることから、理想の社会も民族、地域、国によってそれぞれとし、よって「民族主義」「国家主義」ということになるのだと思います。

 

さて、私の「左翼、右翼」観は、こんなところですが、そうした目線で現状を見れば、マスコミを含め昨今の日本の左翼と呼ばれている大半の人たちの言動は、前述の理解とは程遠く、その主張に理性や知性、理想の社会を創り出そうとの信念などを感じさせるものは殆どありません。単なる「反日」、あるいは「私益」、または「利敵」目的で国民を騙すことに終始しているように見えてしまいます。

日本人の安寧を脅かされていると感じた人が、真っ当な批判をしても、すべて「ネトウヨ」と侮蔑レッテルを張る。「パヨク」はそうした遣り取りの「買い言葉」に過ぎません。総じて日本の左翼と言われている人たちに問題多しと思っています。