2008年4月、曜日時間帯変更とともに、番組名が変更された。

放送時間帯が番組名を引き継ぐスタイルは好きだった。

そして後半で流れるスタジオ収録された楽曲「BINGO!」で、ついに始まってしまった。

番組名にも匂わせたこの楽曲に、完全にロックオンされた。
「ど真ん中に命中!」されたのは私の方だ。

スタジオ収録、選りすぐりのメンバー、計算されたカメラワーク。

当時妹キャラで人気を博していた、小野恵令奈と渡辺麻友が2トップになり、その周辺を固める、エースや選抜メンバー。その後ろでチラ見える、お姉さんメンバー。

オオオッ!
これはまさに夕ニャン時代の“うしろゆびさされ組”の構図ではないか!

ちょっと頼りない未完成な高井麻巳子と岩井由紀子のユニットを、他のメンバーがバックでサポートする。

当時の私の認識では、うしろゆびは2名のユニットでは無くて、2名をセンターに置いたおニャン子クラブの全体曲であると定義づけていた。

おニャン子クラブがいなければ、うしろゆびは絶対に成立しないのだ。

ヤバい、楽しい、可愛い!

もっと曲を知りたい。
秋元先生ありがとう!

ついに旅が始まってしまったのだ。

ではでは。
AKB1じ59ふん!

何故か初回放送を“ながら観”していた。

でもこれは須く観るように仕込まれたとしか言いようがない。

仕事の関係もあり、やっと落ち着ける時間帯である平日ど深夜に、私自身が何かを探し続けていたのかもしれない。

この日から、レールの上に乗っかってしまったのだろう。

この番組は意図的に観ることになり、予約録画もすることになった。

だがこれ以上の情報を取得しようとは思わなかった。

深夜の気まぐれはしばらく続く内に、知らず知らずメンバーから平日を生き抜く活力を授かっていたのだろう。

ではでは。



2007年の紅白。

アキバ枠として揶揄されていたため、冷やかし半分で視聴。

特に強い印象は無く、好意も抱く事は無かった。

だが、ひと月もしない内にハマり出すとは。。。

ではでは。

おそらく2007年の冬の終わり。

 
深夜にTV CMで初めてAKB48という名称の認知と楽曲の認知を同時にした。
 
この頃はまだまだアイドルマインドは低く、現実社会に翻弄されていた。
 
それから完全にロックオンされるまで、1年以上かかるとは。。。
 
ではでは。
おそらく2005年の事。

秋元康氏が秋葉原でアイドルプロジェクトを始めるとか始めないとか。。。ぐらいの記憶しかない。

非常に後悔しているとともに、その頃の私にはアイドル対するマインドは低かった事は否めない。

自分自身の環境が整っていなかったので、仕方のない事。

ではでは。
1997春、1997夏。
代々木の杜は狂気と感涙の渦に支配されていた。
そのとき既にタイムスイッチは、図らずとも動き出していたのかもしれない。

それから20年。
スタートのスイッチが入った。

まさに「偶然は用意されたシナリオ」かのごとく、必然であったのかもしれない。

おニャン子クラブの残像を消す事が出来ない人間にとって、待ち焦がれていた世界が始まったのだ。

さぁ、想い出の総ざらいだ!

ブログタイトルを元に戻して、感謝の気持ちを込めて。

ではでは。


10年経つのも早いのだから、半年なんか超加速度的に過ぎ去ってしまう。

地味な1ファンとして、何ができるかと考えてみたが、結論には至らず、何がしたいかを考えてみた。

やはり劇場に行き高橋みなみの姿を見る事と、自分自身の8年間の想い出をこのブログに残す事をノルマにしたいと思う。

次回のエントリーから始める事にしよう。

ではでは。

バイク歴20年にして訪れる瞬間。

セカンドオーナーではあるが、この最高の相棒に、前オーナーよりも強く深くそして長く記憶を刻み込む。

それが出来て初めて本当のオーナーと言えよう。

喜びよりも決意が勝る瞬間は明日。

ではでは。
『河田町から秋葉原へ』~
アラフォーのおニャン子世代が、20年の時を経てAKBを応援する件について、時々更新するブログ。~

以上のブログタイトルとコンテンツを変更することにした。

現在取り巻く環境と心境では継続が不可能と判断。とはいうものの、何かしら残しておきたいとう願望から、このような対処をした。

ではでは。

用あって表参道に向かう途中、代々木第一体育館をとおり過ぎた。


今まさに週末の公演に向けた設営の最中であろう、大型車が何台も連ねていた。


今日はじめて気づいたのだが、本番直前日の会場を見るのは人生初めてだったようで、まもなく会場があの空気感で満たされるかと思うと、否が応でもテンションがあがるものだ。


思い起こせば、私が代々木の杜に初めて足を踏み入れたのは、中学を卒業したばかり、高1の春であった。


ブログのサブタイトルにあるように、私はおニャン子世代であり、またファンであった。


1987年の春、高校受験を無事終え、高校始業までの猶予期間に開催された、おニャン子クラブのコンサートが、この代々木第一体育館であった。


初めて観覧したコンサートでもあり、また初めて自分の意思で東京へ行った機会でもあるため、ある意味自我の記念日である。


それから半年後に同会場で解散コンサートが行われ、おニャン子クラブは2年半の歴史に幕を下ろしたわけである。


ファンにとっては人生の一大事で、私も例外なく、高校の文化祭を完全にバックレて、土曜日の午後、日曜日の千秋楽前と連日観覧した。


千秋楽公演は会場の外で、漏れてくるライブ音とともに、数千人の仲間たちと、その最後の空気を分かちあっていた。


その場を立ち去ることが本当の別れのような気がして、公演終了後も1時間ほど会場構内をうろついて、私と同じような人達を見ては、些少ながらも悲しみを和らげられたものだった。


そして23年の時を経て同じ代々木にて、最愛のAKB48のコンサートが開催される訳だが、間違いなく私の人生の中におけるベンチマークとなるであろう。


理由は言わずもがなではあるが、両アイドルとも秋元氏が手がけたプロジェクトだからである。


人それぞれ受け止め方は異なるものであろうが、ライブの内容はともかく、「アイドル、夏、代々木、秋元氏」というキーワードが全て揃った出来事は、永く待ち望んでいたことである。


すでにAKB48は、SHIBUYA AX、NHKホールなど、まるで詰め将棋のように、近隣でのライブは行われていたが、その度に若き日の自分の残像が浮んできたものだった。


本丸ではいつやるのか?

やっとその時が来た。


この代々木での3公演を全て終えてこそ、おニャン子クラブの記憶がAKB48に上塗りされて、初めて私の中のおニャン子クラブは伝説となるであろう。


あの解散の日からずっと、私には代々木第一体育館の窓から聞こえている最後のオリジナルソング『STAGE DOOR』。


おニャン子クラブにとっては別の未来を唄った『SATGE DOOR』であったが、

AKB48はどんな可能性を秘めた”ステージドア”を開いてくれるのか?


答えはもうすぐ出るが、これまた自分自身の中にあるのであろう。


ではでは。