さて、当記事は

地元民としてつらつらと文句を垂れるためのものだが、

時間が経ってみれば、

『光あれ』の敦賀

リアル敦賀とは違う時空にあるパラレルワールドの敦賀

と解釈すれば苛立ちもちょっとは収まる……と気がついた。

 

しかし、創り出されたパラレルワールドが、

「事実で真実である」という風にいつのまにか定着し、

イメージ上のリアルワールドとして

成立してしまうおそれがないとは言えない。

そこで、客観的事実と個人的な体験(見た聞いたetc)の

合わせ技によるQ&A形式のここが変だよ、『光あれ』>をやってみたい。

 

物語では、主人公が中学3年のときに

チェルノブイリ爆発事故があったということなので、

主人公は1971年生まれ。

したがって、連作短編のラスト初出の2011年では

39歳~40歳であることを前提にする。

 

 

 敦賀に二階建てのマクドナルドはあったはてなマーク

 ない。1986年当時も現在も無い。

 

 敦賀の人は待ち合わせに敦賀駅を指定するはてなマーク

 指定しない。

そもそも駅に用事がある人以外、駅に行かない。

 

 敦賀では原子力関連施設の建設や稼働、運転継続に対する抗議行動が盛んだったのはてなマーク

 まったく盛んではありませんでした。

むしろ歓迎しています。

確かに、敦賀市議会が原子力発電所の誘致を決議して

発電所建設予定地が決定した1962年(昭和37年)は

敦賀半島の漁業従事者を核とする反対運動があったようですが、あっという間に地元民のほとんどが手を引き、

労働組合の関係で原水協(日本社会党系)の動員がかかった

だけの人たちや県外の人たちが中心になりました。

小説の中で抗議集会の場面が出てくる1986年(昭和61年)につきあい以外でそこに参加していた(=つまり本気の)敦賀民は、当時の人口6万3,800人中、多くて6人くらいだったんじゃないでしょうか。

そのうち敦賀半島の漁業従事者の方はおそらくたった1人か2人です。

 

 でも、小説の中には、中学校のサッカー部の顧問の先生が『原子力発電所に反対する集会に動員をかけたくて、生徒たちに  片っ端から声をかけている』とあったけどはてなマーク

 そこが、この小説の最大のデタラメ部分です。

作者は敦賀どころか、福井県というものを全くわかっていません。小説ではその先生が日本共産党員ということになってますが、福井県では教員採用試験段階で日本共産党員やそのシンパであることがわかると落とします。

なぜわかるか、どうやってわかるかはアンタッチャブルです。察しろ

しかも親に動員かけたくて生徒に声かけたら親や議員から

即座に教育委員会に抗議が入ります。

わいらの仕事なくす気か、

日本原電や動燃、関西電力さんのおかげで

どんだけ道路整備されていろんなもん建って、

わいらの生活が良くなったと思てんねん、

店や民宿、設備メンテの会社や土木やら不動産関係の会社をやれるようなって、

娘息子を上の学校に行かせてやれるようになったのは

おめえらのおかげとちゃうで、

おめえらの給料もどこから出てるかわかって言うとんか、

子どもを偏向させんなや、と。

そしてその教師は家族ともども私服の監視下に置かれます。

 参考までに、

福井県の各公立小・中学校の労働組合の長は、

その学校の校長です。

……「だからはてなマーク」って言うな、察しろ

 

 

『光あれ』の主人公は、

1話めのまだ話の滑り出しにすぎないところで

同僚になった新人のおっさんの鼻骨を折るほど叩きのめす。

まずそこからしてありえんのである。

敦賀は首都圏辺縁部や新宿・池袋のような街ではないのである。

北は海、東と西と南は山に囲まれ、

誰がどこでつながってるかわからない狭い社会。

その中の、同じ職場という更に狭い社会。

袋小路に加えて、「人の口に戸は立てられない」。

海陸の輸送業やセメント関係、原子力関連や土建関係で

県外から流れてきた人(転勤者というより「流れ」の労務者)ならいざしらず、

爺さん婆さんの代から、あるいはそれ以前から

この土地に根ざしていた家庭の成員がムカつく年上の同僚に手や足を上げるなんてことはまずない。

「あいつブッ殺してぇ」と思いながらも

抑え込まざるをえない鬱屈した気分感情が、

たまたま地頭が良く生まれ、性分が生真面目な青少年を支配し、やがて徒労と諦めから、

彼ら彼女らは自分が苦しまないための

「シンプル思考主義」に変わっていく。

たとえ町を出て自由な大都会で暮らしたい欲求を抱いても、

人同士の距離感が緊密すぎるところで生まれ育ったために、

頼れる親族のいない場所で生活するのが怖い、

だから――この町はいいところ――と自己暗示をかける。

わざわざ敦賀を舞台にするなら、

そういうジレンマと自己欺瞞にこそ

「地方都市で生きることの現実」と

「やるせなさ」があると私は思うのだが、

大都会暮らしが長い人にはそれがわからないのである。

 

また、茨城県東海村のJOC臨界事故があった1999年、

小説の主人公は27~28歳のはずだが言及がない。

好意的に解釈すれば、原稿段階で書いてあったとしても

そこは東京に近すぎて掲載できなかったことが考えられる。

では、2004年の美浜原発死傷事故はどうだろうか。

あのとき、敦賀病院にも

負傷した作業員の方々がヘリコプターで緊急搬送されたが、

小説内には1行の回想すらない。

2004年は、主人公は31歳~32歳になっていて、

敦賀原子力発電所に勤務していたはずだが、

そのニュースは職場で話題にならなかったのだろうか?

職場内に緊張も走らなかったのだろうか?

誰それが癌になり、それが放射能の影響だとか違うとか

そんな会話は小説内に頻繁に出てくるのに

敦賀市中をも騒然とさせた死傷者11名のあの事故が

なかったようになってるのが解せない。

 

 

付記

2011年以前の親や親戚たちは

‘出たら帰ってこなくなるんじゃないか’とおそれて

子や孫を手練手管で引きとめた。

しかし都会の求人の大半が

派遣会社の求人ばかりになった現在、

一旦進学などで都会に出ても、

都会の大学を出たというステータスや

縁故のヒキで正社員就職しやすい福井

若者が自主的に I ターンするのが顕著になっている。