今さらではあるが、節分の、あの「恵方巻問題」。
知りたいのは、大量の恵方巻が捨てられているというが、本当に大量なのか、買われていった恵方巻に比べてどの程度のパーセンテージなのか。その何十倍、何百倍が人間の胃袋に収まっているのか。
そこのところの客観的データのないところで、過剰な反応をするのはやや皮相的といえないか。これが私の意見だ。
たしかに見ていて、とってももったいない。…私は、なにが嫌いって、食べ物を捨てることほど嫌いなことはない。
自慢じゃないが、私は食べ物を残したことが一度もない。まして捨てたことなんてない。
…いや、1度あったな。初めて受けた論文試験。あまりの不出来さに茫然自失。食欲どころか気持ち悪くなり、母親が作ってくれた弁当をそっと捨てたっけな! あのときだけだ。
…こうしてすぐ自分の思い出話をする老人が私は大好きだ!
話を戻す。
じっさいには毎日、大量の食べ物が捨てられている。そう、毎日だ。
嘆かわしい限りなのだが、何にせよ、作れば作るほど、ある割合の廃品が生じるのは世の常である。食べ物ばかりでない。衣料品しかり、日用品しかり。新聞、雑誌、チラシなども読まれる部分より捨てられる部分が圧倒的だ。大量消費社会の宿命だ、ともいえる。恵方巻きだけの世界ではないのだ。
われわれは、恵方巻きが捨てられるセンセーショナルな画像だけに感情的に反応するのでなく、常に日頃の消費生活を反省し、見直さねばならない。
…ところで、そもそも豆という貴重な食材を撒き散らすあの節分の豆まき。あれはどうなのか。節分っていうのは、そもそも食べ物を粗末に扱う風習ではないのか。
やっぱり変なことを言うでしょ、このブログは。
でも、食べ物を粗末にする、その節分の現代的展開として恵方巻きの廃棄があり、それが社会問題となる…。
象徴的っていうか…。でも、なんかいい気なもんだな!
「A君。君は、撒いた豆を拾って食べてますか?」
…撒いた種がいつまでたっても芽を出さない、報われぬ老弁護士にそんなこと言われたかないですか、A君!
おやすみなさい。
小室さんと、そのお母さんの元婚約者との金銭トラブル。
お金を借りたのか、もらったのか。いずれにせよお母さんと元婚約者の問題なのに、小室さんばかりがクローズアップされている。まあ、世間ってのはこんなものなんだろう。
だが、私はちょっと、小室さんのお母さんの胸中を思わずにいられない。
どんな方なのか、私はもちろん知らない。婚約者との破局?の理由もわからないし、すごく可哀想な女性なのか、あるいは逆に、婚約者を手玉にとったしたたかな人なのか、まったく判断がつかない。ただ、いずれにせよ、お金を借りるにせよ、もらうにせよ、他人に借りを作ることにはかわりがなく、それはそれで、お母さんにとってはつらい歩みだったにちがいない…と、僕は勝手に想像する。人にお金を借りたことない人にはわからないだろうし、わかる必要ないのだが、人に頭を下げるつらさ。…それがあたりまえになっちゃったら人間おしまいと思うけど。
いずれにせよ、女手ひとつで息子を立派に育て上げ、いい大学まで出して、また、きっと無理して留学までさせたお母さん。人には言えない苦労も多かったのではないか。
その小室さんが、なんと皇族の息女をめとろうという話にまでなった。お母さんはさぞや晴れがましく、誇らしく、いや、なんてったって、どんなにかうれしく思ったことだろうか!
人に頭を下げた苦労も、元婚約者と決別した苦い過去?も、すべて報われた…と、お母さんは夢のような気持ちになったにちがいない。…それがこんなことになってしまった。
私は、ある意味とばっちりを受けている小室さんよりも、小室さんのお母さんが、なんだかかわいそうでならない。やっぱり少数派だな、オレは!
ところで、かれこれ10年以上も昔になろうか、私は、まったく似たようなシチュエーションで、ある女性の弁護をしたことを思い出さずにいられない。
原告の男性は「貸した」といい、私の依頼者である被告女性は「もらった」と反論した。借用証書とかはまったくなし。しかし、私たちはその裁判で負けてしまった。今でも夢に出てくる、私がまったく納得できない判決のひとつであった!…というか、弁護士何年もやってんのに、納得できる判決にはほとんどお目にかかれないダメ弁護士なのだ、このオレは!
小室さんも弁護士を目指していると聞く。しかし、私みたいな出来損ないにならぬよう、いまどんなに周囲が騒がしくても、本分である勉学に集中してもらいたいものだ。
そして、小室さんのお母さん。まだ何も終わったわけじゃない。♪希望を捨てるな、生きてるかぎり。どこからだって出直せる……北島三郎の「終着駅は始発駅」の一節をあなたに贈ります!
郊外のある老人ホームに出かけた。入所者のシャンソン同好会。その毎年恒例の新春コンサートをのぞいた。
広々としたエントランス、リゾートホテルなみのロビー。私なんかはとうてい入れない高級老人ホームだ、ここは。
さて、定刻どおりにコンサートが始まった。ピアノ、ベース、シンセサイザー、さらには照明まで、いっぱしのスタッフがおつきあい。聴衆も、入所者のみならず、そのご家族ら、ゆうに100名くらいは集まったろうか。なかなか本格的だ。
出演者はなぜか全員女性であったが、10名以上の高齢者が、日頃の練習の成果を、元気に、見事に、披露された。
新春にふさわしく、みな、プロ顔負けの色とりどりの華やかな衣装。
「シャンソン」といっても、演目はさまざま。私にも馴染みの日本の懐メロもあり、うれしかった。思ったのは、いい歌はだれが歌ってもいい、ということだった。
ある方が、かつてビリー・バンバンが歌った「イチゴ白書をもう一度」を歌った。何年、いや、何十年ぶりだろう、この歌を聞くのは!
何十年たっても、甘酸っぱくも何となく切ないその歌詞は、齢80歳前後とお見受けするその方が歌ったからだろうか、やけに心にしみた。と同時に、私は、こんな歌をつくった松任谷由美さんはやっぱり天才だなぁ、と改めて思った。昨年末紅白歌合戦で見たときは「年をとったなぁ」と思ったけれど。
さて、紅白ならぬこの新春コンサートのトリは、リーダー格(?)の方の「愛の讃歌」であった。言うまでもなく、シャンソンの名曲中の名曲。今はなき岩谷時子さんの訳になる「あなたの燃える手であたしを抱きしめて…」という熱烈な愛の歌。やはり齢80歳前後、いや、もしかしたら90歳前後と思われるその方(正直なところ、私には80歳の人と90歳の人の見分けがあまりつかない。)が朗々と歌い上げるその姿。
今は仲間同士シャンソンに興じたり、この高級老人ホームで平穏な余生を送っているにちがいない彼女。しかし、イチゴ白書を…じゃないが、彼女にも多感な青春時代があり、いくつもの恋愛経験があった(今もある?)かもしれない。最愛の人と歩んだ長い年月があり、その最愛の人との別れもきっとあったことだろう(ご主人ご健在だったらすみません!)。…いや、昭和の大和撫子だ、そもそも自由な恋愛さえ許されなかった彼女かもしれないのだ。
そんな彼女がけれんみなく歌う。「ただ命の限りあたしは愛したい」と…。歌はど素人の私だか、じっさい聞いててかなり音程はずれているように思った。しかし、私は彼女の歌唱の、なにか大きな説得力のようなものに心をゆさぶられ、不覚にも目頭が熱くなった。
来年もまたこのコンサートを聞きに来たい。来年もまた元気な歌を聞かせていただきたい。…そんな風に思いながら、私は、コンサート後にホームが用意してくれていた立食パーティーはパスして、施設を後にした。
それにしても、いまわれわれが当たり前に使っているこの「老人ホーム」という言葉。よく考えてみるとちょっと不思議な言葉だ。なにか普通の「ホーム」には老人がいちゃいけないかのような、いかにも「ここは特殊なホームなんですよ」というヒビキがないではないからだ。