雨の降らない梅雨。
僕らは通い慣れた渋谷のカフェで隣り合わせに座っていた。明治通りが見渡せる2階席。土曜日のその時間帯、多くの人が原宿方面に向かって歩いている。
「素敵な音だったんだ」
僕はそう言い、フラぺチーノを勢いよく吸い込む。頭がキンと収縮して、一呼吸おいてまた広がって戻る。
「素敵な音」モトジが不思議そうに繰り返す。
「あぁ。といっても、別に楽器の演奏をしていたわけじゃない。彼女とはカフェで出会ったんだ」
その日はクリスマスも終わった年の瀬。
冷たい雨がパラパラと降っていた。
仕事が早く片付いた僕は、軽い夕食を済ませた後、いつものように地元のカフェで読書に耽っていた。
店内は狭いけれど、雰囲気のいい落ち着いたカフェで、味の評判もよい。
けれど一軒家の多いこのあたりでは、夜になれば客はほとんど入らなかった。
なにしろ僕がそのカフェに寄る夜には、きまって僕しかいない。
すぐに僕は店長に常連さんとして顔を覚えられ、何気ない会話もするようになった。
店長に、夜は早く閉めたらどうですか、と聞いてみたが、それじゃ、君が困るだろう、と言っていた。
僕が困る前に誰かが困っていたとは到底思えなかったのだが。
カラン、カラン。
小気味のいい音がして、ドアが開き、一人の女性が入ってきた。
ゆったりとした紺のパンツにベージュのニット、ダウンベストを合わせている。特別、高級なものではなさそうだが、品のよさが感じられた。
「こんばんわ。冷たい雨ね」
「雪になりますかね。それにしても珍しいですね、こんな時間に」
「えぇ、ちょっとね。暖かいカフェラテをお願い」
彼女はマグカップを受け取ると、僕の二つ隣の席に座り、その暖かさを噛みしめるようにカップに口をつけた。
そして、携帯電話をチェックした後、かばんから赤いブックカバーをつけた本を取り出して読み始めた。
僕は普段と違う店の空気に少し戸惑ったものの、彼女の自然な振る舞いに安心し、本の世界へと戻っていった。
しゅるり。
「その音は僕が今までに全く聞いたことのない種類のページをめくる音だったんだ、本当に。はっとしたさ。そして、混乱した。その瞬間、それが何の音か分からなかったし、彼女の音だと気づいてからも、しばらく胸の高鳴りはやまなかった」
モトジは手帳を取り出し、ペラペラとめくる。
「僕にはみんな同じように聞こえる気がするけれどな」
「けれど僕には違って聞こえるんだ。いつからそうだったかは覚えていないけれど、物心ついた頃には既にそうだった。人はそれぞれにページをめくる音を持っているんだ。そうして、それは間違いなく僕が聞いたことのない種類のものだった」
彼女は普段は午前中にママ友と店に来るのだと店長は教えてくれた。
しかし、なぜここ最近、夜にも来るようになったかはわからないという。
「それを聞くのは野暮ってものさ」店長はマグカップを拭きながら微笑んだ。
その日からも、僕が店にいる日、2日に1日は彼女はやってきた。
そうして、変わらず、暖かいラテを飲み、その安らかな音を奏で続けた。
初めはその音に心を奪われ、本どころではなかった僕だったが、その安らかな音に抱かれて本を読むことは至福の時間となっていった。
僕らはそれぞれの音を奏であった。
店内に流れるのは店長がマシンを洗うシューという甲高い音と僕らの音だけだった。
誰も急ぐ必要のない、完全に平和で、完全に温和な世界。
僕と彼女はもちろんお互いを認識していたが、言葉を交わしたことはなかったし、また、言葉を交わす必要はないように思えた。
少しづつその世界は歩みを進め、長い冬を越えて、春を迎えにいった。
彼女の音は本当に素晴らしかったが、春が近づくにつれて一層、その輝きを増しているようだった。
桜咲き誇る4月初め。
僕がいつものように店に寄ると、店長に彼女がこの町から離れていったことを告げられた。
旦那さんの転勤によるものらしい。
そうして店長はカフェラテと一緒に、僕に1枚のメモを手渡した。
「彼女が君に渡してくれってさ。大丈夫、読んじゃいない。僕は野暮なことはしない主義だ」
僕は席につき、ラテを一口飲んだ後、メモを広げた。
形のよい字でこう書いてあった。
『お仕事お疲れさま。
突然で驚いたと思うけれど(なにしろ、私たちは一度としてお話していないものね)、
あなたにどうしても伝えたいことがあって、こうしてメモに残します。
あなたの本をめくる音に救われました、ありがとう』
「彼女は育児ノイローゼになっていたそうだよ。心配した旦那さんは自分が早く帰ってこれた日には、気晴らししてくるように送り出してくれたそうだ。彼女にとって、ここでの時間は自分を取り戻すための時間だったんだ」
さみしくなるねぇ、店長はマグカップを丁寧に拭きながら、そう呟いた。
僕らは確かにつながっていた。
ページをめくる音を通して。
「それで、君はどうしたんだい」モトジはカップに残った氷を頬張りながら言う。
「どうもしないさ。彼女には優しい旦那さんがいて、可愛いこどもがいる。僕らはただお互いの音に耳を傾けていただけさ」
確かにさみしくないといえば、それは嘘だ。
けれど、彼女は僕に素晴らしい時間を与えてくれた。それで十分だと僕は思った。
「何かひとつでいいんだ。その人が好きだなぁと、心休まるなぁと思える何かを与えられる。それだけで、その二人はうまくやっていけるのかもな」
僕らが店を出ると、熱い太陽の日差しが僕らを刺した。
夏はもう、すぐ、そこまで来ている。
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モトジの熱い夏はまだこれから。
待て、次号。
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