ぬちゃ。ぬちゃ。
左手に苗の入ったビニールを抱え、右手でひと束を抜き出し、30センチ四方に区切られたその交点に、第2関節が埋まるくらいの深さまでしっかりと挿していく。
泥は想像していたよりも、はるかに暖かく、心地よい。
この暖かさに包まれて稲は育っていくんだ、と僕は思う。
梅雨の合間に奇跡的に晴れた今日、僕は友人に誘われ、ポンさんとふくりと一緒に田植えを手伝いに来ていた。
青葉台駅からバスで10分、坂を下った盆地にその水田は広がっている。
さぁ、田植えだ!という期待と、僕らに本当にできるんだろうかという不安。
僕は仕事では久しく味わっていないこの葛藤を楽しんでいた。
軽トラに乗って現れた、いかにも優しそうなおじさんは、この田んぼの所有者の大橋さんだ。
厳密にいうと、田んぼの所有者は別にいて、大橋さんがそれを借りているのだが。
大橋さんは定年退職した後、有機農業をすることを思い立ったという。
「僕らは団塊の世代だからさ、地球を随分と汚してきちゃったんだよ。だから、そろそろ罪滅ぼしというかね」大橋さんは照れながら、そう言った。
僕にはそんな大橋さんは素直にかっこよく思えた。
僕にそういった考え方は、まだできない。
投票率の低い選挙、晩婚化、少子化、うんぬん。
きっと僕が少なからず責任を感じなきゃいけない色んなことから、僕はまだ目を背けている。
ぜんぶ社会のせいにして。
僕も社会の一員なのに。
大橋さんはそうしてこの田んぼを借り受け、昔ながらの方法で米を作っている。
「今年で4年目の田んぼなんだけどね、今回のが一番土がいいんだ」大橋さんは田んぼに苗を植える目印となる線を引きながら、顔をほころばせて言った。
田んぼはおよそ縦30メートル、横20メートル。
一年で250キロ程度のお米が採れるという。
日本人1人の米消費量が50キロというから5人が1年間食べていける量のお米が採れる計算だ。
けれど、米を作るには人手が要る。
初めは奥さんや息子さんが手伝っていたそうだが、夫の定年退職後、ゆっくりできると思っていた奥さんや遊びたい盛りの息子さんが不満を口に出すのに時間はかからなかった。
大橋さんの地球への罪滅ぼしは、家族には受け入れられなかった。
「だからね、僕が手伝ってるのは藤原さんの家庭平和の為なんですよ」友人は笑いながら言った。
ぬちゃ。ぬちゃ。
僕は苗を4列に植えていく。
そして、また一歩前に進む。
左。右。
片足を持ち上げるのにもかなりの力が要る。
もう足が張ってきているのが分かる。
日差しは強くはないが、むしむしとした湿気が汗に変わる。
汚れてもいい服として着ていった黒のTシャツはすっかり汗を吸い込んでいて、重い。
けれど、嫌な汗じゃない、と僕は思った。
体から水分を出すことは肉体的にも精神的にもいいと聞く。
汗、涙、うんぬん。
デスクワークの僕は日頃仕事で汗をかくことがない。
知的労働を提供するホワイトカラーが増え、日本の汗の量は減った。
一方で自殺者は増え続け、この国では年間3万人を超える犠牲者が出ているという。
体を動かして、汗をかくこと。
昔はそれが仕事だった。
人間はめざましい経済発展を成し遂げる代わりに、幸せを犠牲にしてきたんじゃないだろうか。
経済発展が幸せにつながると、頑なに信じて。
遠くにみんなが話している声がする。
みんなで話しながらわいわいするのも、もちろん楽しい。
けれど、こういった単純作業を一人で黙々と続けることも、また、自分の思考を刺激するいい機会になることを僕は経験的に知っている。
より早く。
より正確に。
僕は苗を植えていく。
地球への罪滅ぼしの為に。
大橋さんの家庭平和の為に。
もっと自分のことを考える為に。
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SPECIAL THANKS TO 大橋さん、中坂くん(友人)