ACT9 エピローグ

「……さん、猛さん。」
 舞の呼ぶ声に、猛は、ハッとして目を覚ました。
「どうしたの? 随分うなされていたようだけれど……。悪い夢でも見たの?」
 舞が明るい声でそう言った。
 猛は目を見開き、弾かれたようにベッドの上に身を起こした。
 暑くもなく、寒くもない、午後の明るさに満ちた部屋。そこは、紛れもなく、メガロポリス居住区にある、自分の部屋だった。
 猛は、我が目を疑った。何度も瞬きし、両手で目をごしごし擦ってもみたが、間違いない。
 写真立ての中の幸せそうな二人の写真、一輪挿しに揺れるレアの花。
 何もかもが、かつて目覚めた時と寸分変わらずに、彼の目の前にある。
(そんなバカな……! 今までのことが、あれが、全部夢だったというのか?)
 猛は、パニックに陥りながら首を振った。
 そんなはずはない!
 あれほどの痛みが、あれほどの苦しみが、あれほどの悲しみと怒りが、ただの夢であるはずなど……。
 頭の中で、血がガンガンと音を立てて巡るのを感じながら、猛は、もう一度、自分の周囲を見渡した。
 やはり、何もかもが、英雄の丘へ出掛ける前と、全く同じであった。何一つ違うところはない。

 ――いや、一つだけあった。

「凄い汗。」
 そう言って、舞が着替えを出すために後ろを向き、その髪がふわりと広がった時、猛は、遂にそれに気が付いたのである。
「舞! その髪は……。」
 全てが同じその情景の中に、一つだけ違うところがあった。
 背中まであった舞の髪が、肩より少し長いくらいに、二十センチ以上短くなっているのである。
 それはまさしく、舞が、飛翔と共に紫色彗星に乗り込んだ時に、イゾルデによって切られたものであった。
「猛さん……。」
 着替えを手渡そうとして微笑む舞の瞳が、微かに潤んでいた。
「そうよ……。夢なんかじゃない。私たち、戻って来たのよ、この時間へ。」
 舞は、ゆっくりと猛の元へ歩み寄った。
「あなたが呼んだのよ。宇宙の暁を……。私たち、ここからまた歩いてゆけるのよ。もう紫色彗星が宇宙を脅かすことはないの。」
 アンドロメダ星雲に近い遥かな星シュナザードで、金の娘イルーラ・ソム・リスレルは、呪わしい運命から解き放たれ、己の金の力を正しく発現させるのだ。
 何百万年もの時の果て、アンドロメダ星雲の近くで超新星が出現したのを、誰かが発見するだろう。地球にとっては、それだけの事件で終わることになる。無論、その時に、まだ人類が地球に存在していれば、の話だが。
 宇宙にとって、紫色彗星は、己の身の内に発生した癌のごとき存在だった。早急に葬り去らねば、いつか宇宙自体が崩壊する。彗星を打ち破ることができるのは、金の娘による金の力のみ、しかし、彼女は、過去の歴史の誤りによって、絶対に本来の力を発揮することができない状態に陥っていた。
 金の力を正しく発現させるためには、彼女を正常な状態に戻すしかなく、そのためには、時を戻して、歴史の狂いを修正するしかない。
「暁を呼ぶ」とは、時間を戻して歴史の狂いを修正することであり、「暁のディオネ」は、銀の娘レア・フィシリアの守護者であると同時に、歴史の狂いを修正するために用意されていたシステムの一部でもあったのだ。
 そして、ディオネの悲しみと怒りは、宇宙に暁を呼んだ。
「猛さん……。」
 壮絶な戦いの数々の記憶が蘇り、舞の瞳から涙が溢れ出る。
 舞が、猛の意に反してハヤトに乗り込み、自ら戦いに身を投じたことで、猛はどれほど心配したことだろう。常にハラハラと舞を見守り続けた猛の心は、一時も休まることがなかったに違いない。
 舞の命を奪いに来た敵将との一騎打ちでは、激しい戦いの末に、斃れることなく、生きて舞を守り通した。生き抜くことが、猛の愛の証だったのだ。
 それなのに、舞は、ラ・ムーの星を使って、せっかく守られたその命を失ってしまった。それがどれほど深く猛を傷つけ、悲しませたことか。
(……ごめんなさい。)
 舞は悔やみ、心で詫びる。
 舞を失った後も、猛は、どんなに苦しい状況でも決して諦めず、文字通り歯を食い縛り、自身も満身創痍ながら、敢然と敵に立ち向かった。
 しかし、大切な仲間たちは次々に斃れて行き、さらには、目の前で母なる地球が破壊されてしまう。
 死にゆく人々の恐怖と恨みの断末魔と共に、粉々に砕け散ってゆく故郷の星。凄まじいその光景を目の当たりにした挙句、宇宙にたった一人残された。
 その絶望たるや、想像するだけで胸が張り裂けそうなのに、それでもなお、猛は、宇宙に暁を呼んだのだ。その強さを、どれほど誇りに思うだろう。
(ありがとう……。)
 猛のその深い深い苦しみと嘆きの果てに、全てのものが再生され、今、二人ともこうしてここに存在している。それは、まさしく奇跡としか言いようがない。
「本当に……。」
 舞は両手を伸べた。
 どれほど申し訳なく思い、感謝しているか。どれほど誇りに思っているか。
 しかし、もう一度生きて行くことを許された今、真っ先に伝えたい言葉は、それではない。
「愛してる……。愛してるわ。」
 舞は猛を抱き締めて、その耳元で何度も囁いた。
 溢れて止まぬこの思いは、永遠である。
「舞……。」
 猛は手を伸ばして、舞の髪に触れた。いつもサラサラと優しい手触りのその髪は、確かに短くなっている。
 彼の愛するただ一人の人は、一度は失われたはずだった。我が身に残る、あの地獄のような悲しみと嘆きは、忘れようがない。
 だが、今、自分の頬にぴったりと重ねられたその柔らかい頬も、自分を抱き締める細い腕も、自分の腕の中にあるその体も、熱を放って存在している。
 生きているのだ。自分も。舞も。
 この目の眩むような喜びに、猛の方は言葉にならず、ただただ強く舞を抱き締めるしかなかった。
 とても信じられないその幸せと、蘇る微かな痛みに浸りながら、二人はしばらくそのまま動こうとしなかった。

 英雄の丘での集まりは、その日、変わりなく行われた。
 もちろん、幾つかの違いはあった。
 体調が悪いという理由で独が来ていなかったし、宴の途中で、レムリアの幻影が現れることも、第六区輸送船団の事故の報が入って来ることもなかった。それどころか、諒が持ち込んだポータブル通信機で、船団上の唯子を呼び出し、飛翔と並べて冷やかしてみる、などということすら行われた。
 誰の顔も翳りなく笑っていた。が、彼らは知っている。
 自分たちが、紫色彗星帝国を相手に、死闘を繰り広げたことを。
 失われた金の力を求めて、宇宙を彷徨ったことを。
 そして、彼らの中心たる猛と舞の働きで、再び宇宙に奇跡が起こり、今、この時間に、自分たちがこうしていることを。
 誰一人、口に出して確認しようとする者はいない。しかし、その事実は人々の胸に密かに沈み、いつしか伝説となって、語り継がれて行くであろう。
「さて、私はそろそろ行かなくちゃ。」
 途中で、麗が立った。
 麗は、猛と舞の元へやって来ると、しみじみ二人を見つめ、何か言いたげに口を開きかけたが、結局何も言わずに、短くなった舞の髪の毛先を撫でて、帰って行った。
 やがて、夜が深々と更け、月も傾いた頃、宴はお開きとなり、集まった者たちは、三日後の飛翔の結婚式での再会を楽しみに、思い思いに散って行った。
 猛と舞は、手を繋いで、青い月が照らす道をゆっくり歩いて帰った。黙って歩いているだけだったが、繋いだ手がほのぼのと温かく、二人の心は満ち足りていた。そして、いつもの別れ道に来ても、どちらもその手を離そうとしなかった。
 この夜の二人は、離れ難かった。

 その頃、独だけは、ただ一人、自分の部屋に閉じこもって、ゴロゴロしていた。
 左肩の辺りが妙に重いだけでなく、頭がぼうっとして、どうにもならない。体を起こすだけで眩暈が起きるように感じ、仕事に出ることもできずに生まれて初めての休暇を取り、一年一度の久し振りの仲間たちにすら、会う気にならないほどだった。
 何か思い出さねばならないことがある。
 その思いが独を支配していたが、それが何なのか一向に思い出せず、独は苛々と、だが、成す術もなく、ぼんやりと一日を過ごした。
 こんなことなら、無理をしてでも英雄の丘へ行けば良かった。皆に会えば、少しは気も晴れたろうに。
 夜になって、ようやく少しだけ気分が回復した独は、そう後悔した。そして、何杯目かのコーヒーを入れに立った夜更けに、誰かが、彼の部屋のチャイムを鳴らしたのである。
 こんな時間に誰が? と、訝しがりながらモニターを点けて、独は息を呑んだ。
「麗……!」
 そこには、麗が立っていた。これまで、麗が独の部屋を訪ねて来たことは、一度もない。その麗が、こんな時間に訪ねて来る。その意味を計り兼ねながら、独はドアを開けた。
「入ってもいいかしら?」
 麗は、伏目がちにそう言った。それは、いつもの自信に満ちた眼差しではない。
「あ、ああ。」
 独は、無意味に何度も頷いて、麗を招き入れた。
 玄関に入って来た麗は、いつもと違う印象だった。
 麗でもこんな服を持っていたのか、と思わせる、柔らかなシルエットの淡黄色のワンピース。それは、普段のシャープなスーツ姿とは全く違う、優しく、穏やかな印象を、彼に与えた。その違いには、何か意味が込められているはずだ。独はそう思ったが、それが何なのかは、見当もつかなかった。
 それ以上に彼を戸惑わせたのは、麗が、細い腕で、大きなスーツケースを抱えていたことである。まるで、これから旅にでも出るような、そんないでたちだった。
 それにしてもこんな時間に? なぜ、自分の所に……?
 そうした疑問と戸惑いに、ただでさえぐちゃぐちゃの頭をさらにかき回されながら、独は、
「座って。今、コーヒーを入れるから。」
と言った。取り敢えずそうでもしなければ、この混乱した思いの収拾のつけようがない、と思ったのである。だが、麗は、座りもせず、動こうともしなかった。
 独は、麗を振り向いた。
 いつも強靭な光を秘めたその瞳が、自信なげに激しく揺れている。これほど揺れる麗は、見たことがない。
 なぜ、こうも揺らめくのだ? そう思った時、麗は言った。
「約束したわよね。無事に地球へ戻ったら、あなたの部屋へ越してゆくって。」
 独の手からカップが落ちて、床で砕け散った。
 この瞬間に、彼は、思い出すべきことを全て思い出したのである。
 長く苦しかった戦いと、その最中に終わった二人の長い戦いのことを。
 いつも側にいた麗のことを。
「だから、私は来たの。そうよ、夢じゃないわ。」
 その明らかな動揺に、麗はホッと安心したように微笑み、独に向けて、真っ直ぐに歩を進めた。
 麗が歩いて来る。独に全てを委ね、独の全てを受け入れるために。
 ずっとずっと、この時を待ち続けていた。一番欲しかったものを手に入れた、あの信じられないほどの喜びは、夢ではなかったのだ――。
「……いいのか?」
 だが、狂喜しながらも、独は、手を伸ばせば抱き締められる距離にまで近づいた麗に、そう聞かずにはいられなかった。隼人ならこんなことは聞くまい、と思い、そんなことを考えてみる自分に嫌悪を感じつつ、それでも聞かずにはいられなかった。
 麗は、足を止め、わずかに首を傾げて、独を見上げた。
「絶対に離さんぞ、俺は……。」
 やっとのことでそれだけ言う独に、麗は、微笑んだ。
 独が、こうして念押しめいたことを言いたくなる気持ちが、よくわかったからである。そして、これほどの人に長年こんな思いをさせて来てしまった、そのことが心底申し訳なく、愛おしく思われた。
「私もよ。言ったでしょう。これからは、私があなたを追ってゆく、って。」
 辛い思いをさせた年月の分、二人に残されたこれからの時間を、愛することに費やそう。もう二度と、この人に辛い思いをさせはしない――。
「好きよ、独。愛してるわ。」
 そう歌うように囁いて胸に飛び込んで来る麗を、まだ信じられないような思いで抱き締めながら、独は、蘇った記憶を反芻した。これは、確かに二度目のことである。
 一つに溶けた影が、独の部屋に長く尾を引いた。
 この夜から、麗は、独の部屋の住人になったのである。

 その日も、朝から快晴だった。
 青い空、眩しい太陽、遠くに湧き上がる入道雲。しかし、吹き渡る風には、カラッとした爽やかさがある。気の早い秋の匂いを密かに隠した、明るい夏の日であった。
 猛と舞は、英雄の丘のレアの花畑にいた。
「綺麗だったわね、唯子。きっと、二人とも幸せになるわ。」
 飛翔と唯子の結婚式は、無事、盛大に執り行われた。舞は、清楚なウエディングドレス姿の唯子を思い返しながら、そよ吹く風の中で、今を盛りと咲き誇るレアの花を摘んでいる。それを見守る猛の脳裏に、幸せそうに微笑んでいた若い新郎新婦の顔が、穏やかに蘇っていた。

 集まりのあった次の日の明け方、猛が目を覚ますと、パジャマ代わりに猛のシャツを着た舞は、窓辺に腰掛けて、細い声で歌を歌っていた。それは、ハヤトのプラネタリウムで初めて出会った時に舞が歌っていた、『銀河のきらめき』であった。
 暁の淡い光を浴びて舞が歌うその美しいメロディを、遠く天国から響いて来るもののように聞きながら、猛は再び眠りに落ちていた。
 そして、丸二日眠り続けて、今朝舞に起こされた時、数々の戦いの記憶が、疲労と共に既に遠いものになっていることに、猛は気が付いた。それは、全く新しい道を歩いて行かなければならない者にとって、必要なことなのであろう。
 遠くはなったが、忘れたわけではない。
「いつかきっと子供が生まれるわ。その子たちは、このレアを紫色に変えられるのよ。」
 舞がそう言って振り向き、水晶のような紫のレアの花の束を日に掲げた。
 そうかもしれない、と、猛は思った。
 生まれ来る子供たちは、新しい世を生きてゆくに相応しい、新たな人々になるだろう。

 式の始まる前、猛が新郎の控え室を訪ねると、防衛軍の礼装に身を包んだ飛翔は、窓から穏やかに差す光の中で、両手を組んで、何事か祈っていた。
 猛には、その背中が何を祈っているのか、よくわかるような気がした。
「おめでとう、飛翔。よかったな、本当に……。」
 猛は、万感を込めて、そう言った。
 一度は唯子を失って地獄の苦しみを味わい、後には、自分の代わりに命懸けで舞を守った飛翔。その飛翔が、今日、こうして唯子との結婚式を迎える、その奇跡に、それだけ言うのがやっとだった。
「猛……。ありがとう。」
 振り向いた飛翔は、やはりそれだけ言うと、後は無言のまま、猛の元へ歩み寄って来た。
 二人は、どちらからともなく手を伸ばし、固く肩を抱き合った。
 何も言葉はいらなかった。
 この僥倖と、それまでに互いが舐めた辛酸を、互いが最も正確に理解し、共有していることを、二人は知っていたのである。

「猛さん!」
 舞が、振り返って微笑んだ。
 切り揃えられた毛先が逆光にキラキラと光り、摘んだレアの花びらが飛んで、赤く変わる。それが、どんなに尊く幸福な瞬間であるか、猛は思わずにはいられなかった。
(幸せに……!)
 レムリアの、アルフェッカの、兄の、仲間たちの、様々な人々の祝福の言葉が、遠く宇宙を経て、青い空から猛の上に降り注ぐ。
 そして、唯子と共に歩む飛翔の厳かな表情が、鮮やかに思い出された。
 もし、自分が結婚するとしたら、無論、相手は舞以外には考えられないのだが、猛は、これまでそのことを深く考えたことがなかった。
 たとえ遠い宇宙に離れ離れでいても、二人はいつも一緒にいる。
 彼にとって、それは、観念的な意味でなく、最も自然で当然なことだったので、これまで頓着したことがなかったのだ。
 が、人として、人の世で生きて行く以上、飛翔と唯子の取った道もまた、通るべきものの一つなのかもしれない。飛翔の表情は、それを教えてくれていたような気がする。
 人は、精神だけの存在ではない――。
「舞。」
 猛は舞を呼んだ。そして、自然に猛の口から言葉がついて出た。舞は、少し驚いたような顔をしたが、すぐにしっかりと頷いた。

 時に西暦二一九一年七月。地球の空は青い。