ACT 3 出発

 ハヤトは、コスモクリーナーの積み込みを終え、地球へ向けて発進することになった。
 着いた時と同じように、ティアリュオンはその日も晴れ上がり、海は穏やかに凪いで、輝いていた。
 遂に地球へ帰れる。地球へ。地球へ。
 艦内は、故郷を思う人々の活気で、はちきれんばかりだった。
 艦長室には、アルフェッカが別れの挨拶に訪れていた。沖田は、優しい瞳でアルフェッカを見返った。
「アルフェッカさん。本当に私たちと一緒に地球へいらっしゃらんか。」
「お気持ちは嬉しいのですが、やはり私はティアリュオンを離れることはできません。」
 アルフェッカは、穏やかに微笑みながら言った。
「そうですか……。では、いつまでもお元気で。」
 沖田は、手を差し出した。
 彼はもう、この聡明な女性の決心を変えさせようとは思わなかった。それよりも、と、沖田は傍らの隼人にチラリと視線を投げた。沖田も、アルフェッカと隼人が互いに愛し合っていることに気付いていたのである。
(この果報者が……! 男であったら、これほどの女性に愛されてこそ!)
 沖田は思う。
 どうせ、一度は死んだも同然なのだ。こんな素晴らしい女性を愛し、また、愛されながら、何を迷う必要がある。今、決心しなければ、一生後悔するぞ――。
 しかし、沖田は、そんな自分の意見を口にはしなかった。
 隼人の人生は、隼人のものである。隼人が自分で決めたのなら、それはそれで良い。後悔する、しない、は、文字通り後になってみなければわからないのだ。
 猛と隼人は、アルフェッカより一足先に、タラップへ通じる階段を下りて行った。
「兄さん。」
「うん?」
「いいのかい? アルフェッカさんを置いて帰って。」
「……。」
 隼人は、猛の問に答えぬまま、階段を下りて行く。
 地球を捨ててこの星に残る決心は、隼人にはどうしてもできなかった。しかし、このままアルフェッカと別れることを、割り切って納得したわけではない。納得できるわけがない。そうした宙ぶらりんの気持ちのまま、当然のような周囲の流れに従って、隼人は、ハヤトで地球へ戻ろうとしている。
 それで良いのか?
 猛に問われるまでもなく、隼人は、自分自身にそう問い続けていた。
 それでいいわけではない。だが、どうすればいいのか?
 答など、どこにもない。
 彼は、不機嫌にそう思い、そう思うしかない自分を嫌悪していた。
 二人が甲板に着くと、続いてアルフェッカが下りて来た。長い金の髪を風に吹かせ、儚げに微笑みながら、アルフェッカは猛に向かって言った。
「猛。これからは、あなた方が新しい地球を作って行くんですね。今度こそ、人々が理解し合い、分かち合う、戦いのない世界を作ってください。航海の安全を祈っています。」
「……アルフェッカさんもお元気で。本当にありがとうございました。」
 猛と握手をすると、アルフェッカは向き直り、隼人を見上げた。
「隼人……。」
 見上げる瞳が紫に揺れる。
 一緒に行こう、と言えない男と、行かないで、と言えない女。
 その二人の間で、二つの心が切なく揺れているのが、猛にはよくわかった。
 見つめ合う二人の間を風が吹き抜ける。その風の中に、一つの思惟が舞った。
(お姉様……。)
 それは、アルフェッカにそう語り掛けて、優しく笑った。
(セシリア!?)
(ふふ……。)
 それも一瞬で、その思惟は、また遥かな宇宙へ駆け去って行った。
「さようなら。サリオ……。」
 かすれた声で、隼人は別れを告げた。
 行ってしまう。私を置いて。
 アルフェッカの目には、みるみる涙が込み上げて来た。
(お姉様……。愛する人と共に生きて、私は幸せでした。本当に。そして、後悔もしていません。後悔せぬように、幸せになるように。かつて、お姉様がおっしゃった言葉ですわ……。)
 アルフェッカの記憶の中で、セシリアが微笑した。
(言っておしまいなさい。悔いを残しませんよう……。私の愛する大切なお姉様……。)
 隣の星の青年と恋をして去って行った中の妹は、アルフェッカにそう言いに、宇宙から一時舞い戻ったのだ。
 アルフェッカは、二度三度首を振ると、思い切ったように呟いた。
「愛してるわ……。隼人……。」
 だが、それが限界だった。アルフェッカは、両手で顔を覆うと、タラップを風のように駆け下りて行った。
「サリオ……!」
「兄さん!」
 立ち尽くす隼人に向かって、猛が叫ぶ。
「兄さんとアルフェッカさんには、今しかないんだよ!」
 隼人は、振り向いて猛を見つめた。
「兄さんとは、きっとまた会える。」
 せっかく再会できた兄とまた別れることになる、その寂しさを目にたたえて、猛が笑っていた。
 背が伸びた。瞳に輝く意志の光が、隼人を射る。その瞬間に、隼人は心を決めた。考え抜いた末に、一瞬のうちに決心をつける。隼人の特性である。
 彼は、逞しく成長した弟の肩を軽く叩いた。地球のことは、弟たちに任せておけば大丈夫だ。これからは彼らの時代だ。
「地球のことは頼む。」
 隼人は一言そう言い残すと、アルフェッカを追って、タラップを駆け下りて行った。
「兄さーん。元気でねー!」
 祝福を込めて、猛は、その後ろ姿に向かって手を振った。
「お前も頑張れよ! 猛!」
 隼人は、一度だけ振り返ると、やがて、どこまでも続く草原の中に見えなくなった。
 麗は、出港準備に忙しい第二艦橋から、その様子を眺めていた。
(やっぱり、あの人のところへ行ってしまったのね……。)
 麗は泣いていた。
 だが、こうなることが、麗にはわかっていた。彼女は知っていたのだ。
 自分が予感していたのは、この時であることを、そして、アルフェッカには絶対に勝てないことを……。
 だから、いつかは諦められるような気が、麗にはする。しかし、今、この涙を止められるものではない。諦めるためには、泣かねばならない――。
 そして、麗の後ろ姿しか見えない独にも、麗が泣いているのがわかる。
 麗が泣き、隼人が自分の行く道を決める。悔しいものだ……。
(元気でな、隼人。いつかきっとまた会おう!)
 独は、麗の背中越しに、愛に生きる決心をした親友の姿を見送った。

 第二艦橋の自分の席に座って、猛は晴々としていた。
 奇跡的に巡り会えた兄と、今再び別れる。だが、猛には、これは別れではなく、全ての始まりのように思える。隼人は新しい人生へと旅立ち、ハヤトは新しい地球へ向かって出発するのだ。
「ハヤト、地球へ向けて発進!」
 溢れんばかりの希望を乗せて、ハヤトは、再び空へ飛び立った。

 アルフェッカは、海を見下ろす丘に立ち、ハヤトを見送っていた。夕日と競うように並ぶハヤトのエンジンの輝きが、少しずつ遠ざかって小さくなってゆく。ハヤトは、再び二百二十二万光年の時空を飛んで、地球へ戻るのだ。
「隼人……。」
 アルフェッカは呟いた。
 隼人と過ごした日々が、懐かしく思い出される。短くも、幸せな日々だった。
 いつから隼人を愛するようになったのか? なぜ、人の心に愛が生まれるのか?
 その不思議が、胸に迫った。
 愛が生まれる理由を探すのは難しい。それが、同情でも、孤独故の人恋しさでもないことだけは断言できたが、強いて理由を探す必要もあるまい。
 だが、愛の終わりには理由がある――。
 とうとう、行かないで、とは言えなかった。言えば、隼人はこの星に残ったかもしれない。しかし、その一言は一生隼人を縛るだろう。そんなことはできなかった。
 だが、今、アルフェッカの心に悔いはない。ティアリュオンで生きると決めた自分の心に、偽りはなかったから。ただ一つの愛を胸に抱いて、この星で生きてゆけばよい。生命の終わるその日まで。
 さようなら、ハヤト。勇敢な地球人たち。
 さようなら、隼人。愛した人……。
 アルフェッカは、一人静かに別れを告げた。
「?!」
 次の瞬間、彼女は、信じられないものを聞いたように、身を硬直させた。ハヤトが飛び立った今、聞こえるのは波の音と海を渡る風の音、永遠にそれだけのはずだった。未練が空耳を呼んだのだ、とアルフェッカは思った。
「……サリオ!」
 しかし、二度目に自分を呼ぶ男の声を聞いた時、アルフェッカの紫の瞳は、自分に向けて丘を駆け上がって来る人影を捉えていた。
 サリオ。サリオキス。
 グランチェスター王家の者のミドルネームには特別な意味があり、その名で呼ぶことのできる者は限られる。アルフェッカをサリオと呼んだのは、家族の他は、心を許したごく親しい者だけである。
 それが男性となると、亡き父王の他はただ一人――。
「隼人!」
 隼人は、ハヤトで行ってしまったのではなかったのか……?
 アルフェッカは、ぼんやりとそう思った。だが、夢ではない。海に落ちかけた夕日の中から、隼人は走って来る。アルフェッカの元へ。
「礼砲発射!」
「全員起立! ティアリュオンへ向けて敬礼!」
 ハヤトの撃つ礼砲が、抱き合う二人の頭上に白い弧を描いて、紫の闇へ消えて行った。
 夕日に向かってハヤトが飛ぶ。ティアリュオンの二人は、お互いの体に手を回して、身じろぎもせずにそれを見送る。その二人の周囲で、もう咲かないはずの花の蕾が、無数に揺れていた。
 舞がラ・ムーの星で解放したコスモエネルギーは、デイモス星にだけでなく、この星にも生命の息吹を吹き込んで行ったのだ。ティアリュオン星の未来もまた、先へ繋がったのである。
 そして、地球は、隼人というかけがえのない人を、この星に残してくれた。ルーナンシアの女王レムリアが予見したように、アルフェッカは報われたのだ。
 見送る隼人の胸には、もう地球への未練はない。あるのは、ただ明日からの二人の未来だけである。
 ハヤトも、地球の未来へ向けて上昇を続ける。再び地球が輝く日も近い。滅びゆく愛の星も、若い二人によって生まれ変わらんことを、猛は祈る。

 さらば、ティオアリュオン。青く輝く愛の星よ――。

 急げハヤト。地球の人々は君の帰りを待っている。
 地球滅亡と言われる日まで、あと百五十二日。