安部元総理を国葬で送るかどうかの論議がかまびすしい。
国葬の基準が不明確だというのが反対意見をけん引するが、国葬の法的基準、法的国葬の定義などが成立するだろうか。
過去の、戦前、明治維新以降の国葬を例に、国葬とされながら不人気だった葬儀、国葬とはならずとも多くの国民の参列による見送りを受けた葬儀などを紹介している。
方法論としての国葬基準の定義づけは出来ても、何にでも適用可能なあやふやな法規になりそうだ。 正しく国葬を定義づけする根拠とはなり得ないように感じる。
それでは、国葬は認められないものか? 多くの意見の中語られる、政治的効果は注目に値する。
多くの各国要人を迎え、日本の顔だった安部元総理の事績を交えての意見の交流は、世界の意志の集約を求める世界情勢の続く中、価値ある時間をもたらしそうに映る。
安部元総理を送るという、時間の共有そのものに意義を見る思いがする。
世界情勢がそれほどにひっ迫しているという事だが、藁にもすがりたい藁になってもらおう、安倍元総理最後の御奉公だ。
国葬の評価は、政治結果として岸田政権への評価として現れる。
民主主義への挑戦に屈しないといううたい文句は、国民評価をかわす隠れ蓑でもあり、結果責任を逃れる道筋の準備であり、世界の好印象を集めれば岸田政治の基盤となる。
ここで一つ正しておきたいことがある。
多くの意見の中決定を見る安部さんの国葬。 多くの意見の中開催されたオリンピック。
どちらも、少数意見を無視した強硬論の批判を受けるが、同列に並べる批判、評価の間違いを指摘しておきたい。
国葬は、日本国家、国民の意志である。
オリンピック開催は、国際(万国)と取り交わした契約の履行であった。
日本のマスコミは同列に論じるが、意思表示と契約履行とは、その違いを明らかにして論じてもらいたい。
橋本聖子オリンピック委員長への謝意のブログ投稿は、コロナ禍の中、契約を履行して国威を発揚してくれたことに対する謝意であった。
単に、オリンピックの成功おめでとうというものではない。
メディア報道の中に、オリンピックを中止した時に受けるであろう世界の日本批判、日本国威の失墜の覚悟を国民に問う声は耳にしていない。 日本社会には本質を知らせる言葉が無い。
松尾洋