「一流は一流がわかる」というが、そのこころは?



 話をしていて、本音が伝わってこない人がいる。



 ただ、言葉は巧みで中身ももっともであるが、何か



 作り物みたいで伝わってこない。


 

 いろんな講演会や研修会を聞いたが、つまらないものの



 多くは、「単なる物事の説明、解説」に終わっている。



 反対に心が動かされるもの、感情に訴えてくるものは



 実体験や本音を正直にさらけ出し、それが共感を呼ぶ。



 いろんなことを人は真似レベルから入るが、自己表現



 にも「松・竹・梅」のレベルがあって、そこを一流の人は


 

 しっかり見ているに違いない。



 さらに、自己表現と行動の一致はなお、鋭く観察されている。



 本物の片りんは、そんなところに現れ、見ている人、見抜ける



 人はしっかり見ている。



 



 

 芥川賞を受賞した羽田圭介氏のスクラップ・アンド・ビルドは根深いリハビリの矛盾をも包括して、世に問うている作品でもある。


 「28歳の主人公は職場を自己都合で退職し、資格を取るために勉強していた。そんな中でも、いろんな会社の採用試験にチャレンジしていたがことごとく不採用になった。

  自宅には母親と87歳になる祖父が同居していた。祖父は要介護ではあったが年の割には健康で家族ももてあましていた。

 このまま祖父の世話をすることも苦痛だし、かといって施設入所と言っても空きがない。主人公はいろんな介護を編み出し、祖父の世話をしっかりしていると見せかけ、祖父の社会復帰の機会を奪い、弱らせて「自然死」させることをへだてる。

 しかし、介護している内に現在の「生かされている」医療に疑問を持ち、次第に気持ちの変化が現れる。」



  今後の介護、医療報酬の同時改訂でメスが入る可能性が高い「リハビリ不要」の部分。「訪問リハを行っているから、ディサービスに来ているから現在の要介護度で収まっている、もし来ていなかったら・・・・」。


  でもそれって、ただ、マッサージやストレッチ、運動をさせていて主人公がやっているような依存性を作り、自立を奪いだんだん弱らせている可能性はないだろうか。


 支援する側が主役になっているようなリハビリは必要ない。あくまでも主役は要介護者の本人であり、「何がしたい?」、「どうなりたい?」を少しだけ聴いて、

本人と一緒になってあきらめの境地に入り、依存的でクレームもあるはずもない中で、延々と自立にはほど遠いリハを提供する。


 これは、リハ専門職の怠慢であり、なおかつ専門馬鹿であるが故に社会的なこと(社会保障費の限界など)をほとんど無視している現実がある。その付けが、同時改訂というお仕置きによって気づき、目を覚まさせるきっかけになるだけではないだろうか?







 


 「○○に絶大なる効果がある手技」 「あのひどい症状が消えたとっておきの手技」・・・・・・。



  


 世の中にはいろんな手技が氾濫し、治療者がいればその数だけやり方がある?なんて錯覚するくらいたくさんありますよね。



 また、臓器別に考えても臓器の数だけその方法論が構築されています。


  皮膚  筋膜  筋  骨  内臓  神経 ・・・・・・・。



 はてはて、どれをどれだけ勉強すれば良いのだろうか? 医学が二元論に傾倒してから久しいが、当然臓器別な思考が進み、それに対応した方法が出てきている。



 まてよ、これらの方向性を生体はどのように感じているだろうか?



 生体がしゃべることが出来たら、きっと「そんな方法、刺激はやっているあなた達の勝手なくくりでしょ! 私からしたら、どんな方法でも良いから「適刺激」であれば何でも良いのよ」というに違いない。



 そうそう、○○体系、○○法なるものを作るのは治療者が伝達するため、教育するために必要な、自分たちの都合で作った産物である。しかも、臓器別だったり、部位別だったり・・・・・。



 「生体はもっと全体的なシステムで動いている」とは頭で分かっているが、ついつい手っ取り早い方法論にはまってしまい、その技を施すことで確かに適応のある人には劇的な効果が現れる。



  何かよく分からない抽象的なものを信じる前に、まずは「生体ってそういう物だよね」という事を理解し、どんな方法でも良いから「自分が生体にどんな影響を与えているか」真剣に考えてみることが重要であろう。



  だって、生体はどんな方法であろうが、適刺激を待ち望んでいるのだから!















 リーダとなり、何人かのスタッフの指導に当たると必ず疑問がわいてくる。


 「自分の指導法で、いいだろうか? このままスタッフが付いて来てくれるだろうか?」 


 それでも、自分で、自分なりの方法で悩みながらやっていかなければならない。 



 例えば、自分が働いている医療現場でも、


  学術的、技術に優秀な人は「スペシャリスト」、「テクニシャン」として称賛されるが、リーダー 、マネジャー的な役割が苦手な人も少なくない。



  逆に、業績はそこそこであっても、人間力を発揮し、信頼が厚く、人をうまく使って(適材適所)組織として体をなしているリーダーもいる。



  学術って、統計で代表されるように有効性や妥当性を厳密に検証する作業であり、大げさに言葉を換えれば「許さない」といえるかもしれない。


  確かに、論文を書いている時に、「まあ、君は頑張ってるからその程度でいいんじゃない」なんてことになったら・・・・・。



 人間力とは、これも大げさに言葉に換えれば「許す」力ともいえるかもしれない。


  多少の間違い、失敗も現状は把握しつつ、改善を期待し見守っている姿勢。




 どちらも、当然、マネジメントには必要である。その割合、傾向性をみて「あの人は厳しい上司」、「あの人は優しい上司」なんてレッテルを貼る。




必ず、どちらかの傾向性にはまってしまう。特に若いうちは、学術優位だと「自分に厳しく、他人にも厳しく」を地で行ってしまう。



 この「許さない」、「許す」をバランスよく持っている人は意外に少なく、逆に言えばそれだけ両立は難しいセンスを必要とするものだともいえる。



  これは、子供に父親と母親の両方が役割分担して必要なこととダブります。



 これから、実習生の指導者、職場のリーダー、そして管理者になる人は、技術職、専門職だからこそ必要な「許す」「許さない」の両立を少し意識してみてください。


 





  










  








 



  どんな人でも必ず悩みはありますよね。


  仕事のこと、プライベートのこと、将来のことなどなど・・・・・。


  たぶん、どんなレベルに達しても中身や程度の差こそあるが、悩みはつきないはずです。 


  私が日常対応している患者さんも悩みは多いはず!

患者さんの「患」の字は「心に串がささっている」と書きます。身体が動かないことから生じる心の痛み、悩み、この字を見ても相当リアルですね。



  でも、多くの悩みの中でなんと言ってもトップは「人間関係」ではないでしょうか?



  若いスタッフが職場を辞めて転々とするなんて話も聞きますが、多くの場合は人間関係に端を発しています。


  例えば理学療法士は、急性期、回復期、生活期のどの時期で働いても、仕事の内容はそうそう変わりません。


  つまり、患者さんと対面し、患者さんの心の問題も含めて支援していくことは

どこで働こうが同じです。


 だから、やめる理由は仕事が嫌いな訳ではなく、その他の理由です。



 そこにあるのが「関係性の壁」です。若い内はこの関係性の壁に気づかず、自分のストライクゾーンの狭さを認識せず、環境のせいにして解決しようとする事です。


 「仲間作りの失敗」とも言えますが、その未熟さこそ解決すべき課題なのです。しかし、この関係性に関する学習をほとんどしていないところに、教育、経験の不十分さがあります。


 

 「こんなこと普通に学べる」とも思いますが、それが出来づらい世の中になってきていることも事実です。縦社会の崩壊、フラット社会への移行、人から学ばなくても知識が得られる時代・・・・・。



  医療知識、技術の習得と同等、いやそれ以上に関係性構築の学び不可欠な時代になってきています。


  学ぶ機会がないからこそ、自ら学びに行かなければいけないのでしょう!!


 皆さんは、関係性の構築に関して何か学んでいますか?