『孤立する日本の死刑』デイビッド・T・ジョンソン | 前山和繁Blog

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このごろ、過去に書いた記事の誤っている箇所が気になり始めてきた、直したい箇所もいくつかあるが、なかなかできないでいる。

英語学習の記事も時折書くことにした。

孤立する日本の死刑/現代人文社

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『孤立する日本の死刑(Japan’s Isolated Death Penalty)』 デイビッド・T・ジョンソン(David T. Johnson)

『孤立する日本の死刑』の「はじめに」の直前に、

For Japanese defense lawyers who are trying to stop state killing and for Ministers of Justice who refuse to kill.

国家による殺人を止めようと尽力している弁護人と殺人を拒んだ法務大臣に本書をささげる。

というメッセージが掲げられている。デイビッド・T・ジョンソンは、この本の読者の対象をはじめから念頭に置いて執筆に臨んだのだろう。私は、著者が誰に読ませたいのか、はじめから定めて書かれている本に興味を持っている。著者が読ませたいに人間に宛てて書いた本を見物人のような立場であっても、読まさせてもらえるのがありがたいのである。

デイビッド・T・ジョンソンは、死刑を論じるさいに死刑には反対の立場を取り、なぜ自分が死刑に反対しているのか明示している。

私は死刑に反対である。ひとつには、(ガンジーと同様に)「命を奪うことができるのは神のみである、なぜなら命を与えるのは神のみだからである」と信じているからである。そしてまた、「無実の人や、死には値しない人たちを死刑にすることなく、ごく稀に、かつ、的確な対象だけを死刑にするような制度を構築することは不可能だ」と考えているからである。(p.15)

死刑を論じる人間が、その立場を明らかにしているというのは非常にありがたい。著者が、どういう立場に立っているのか明示されているがゆえに、読者は、その著者の立場の枠の中で内容が誠実であるかどうか判断することができる。『孤立する日本の死刑』は誠実な内容の本である。

死刑に肯定する人間が、その立場を明示しながら死刑を論じることは、おそらく非常に難しいだろう。

公平な記述が『孤立する日本の死刑』の特徴である。著者が弁護士や法務大臣に読んでもらいたいと意図するのにふさわしい公平な記述になっている。

その公平さというのは死刑を論じるにあたって被害者感情を重視しないという考え方にもあらわれている。

被害者第一主義は、殺人事件相互の間でどのように差異を設けるかという点でも、意味のある根拠とはならない。すべての殺人被害者は、等しく亡くなっているからである。より一般的に言えば、民主主義国家においては、たとえその悲劇がどんなに我々の心に突き刺さったとしても、少数の人びとがすべての人を代弁するような権能を与えられるべきではない。(p.119-120)

『孤立する日本の死刑』には第83及び84代の法務大臣を務めた弁護士でもある千葉景子(当時民主党参議院)に関する記述の分量が多めにとってある。千葉景子は法務大臣の地位に就いていた2010年7月に、2名の男性死刑確定者への死刑執行命令書に署名した。絞首刑が執行された。

私には、デイビッド・T・ジョンソンは千葉景子にも『孤立する日本の死刑』を読ませたいと考えたのではないかと思えた。千葉景子はアムネスティ議員連盟の事務局長でもあるという。

デイビッド・T・ジョンソンは、千葉景子が法務大臣の地位に就いていたときに死刑執行命令書に署名したことを、

千葉氏は死刑執行を公開していると信ずるべきなのだろう。(p.112)

と、記述し、その後に公平な内容の枠の中で千葉景子を最大限に弁護しようとする説明がされてあった。

デイビッド・T・ジョンソンが千葉景子にも読ませようと思って、この本を書いたかどうかなんら証明することはできないが私はそう信じ込んでしまった。

日本において死刑の執行に関しては刑事訴訟法475条に法務大臣の命令が必要であると明示されている。死刑執行の権限は検察官ではなく法務大臣にある。日本においては法務大臣の意志により死刑が執行されるか否か決定されるのである。

デイビッド・T・ジョンソンは千葉景子が死刑執行命令書に署名したことを惜しいと思っているようだった。そんな雰囲気だった。

日本の死刑制度が占領軍当局の都合と関係していたという説明がある。

天皇の「現人神」から単なる「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」への格下げ、国権の最高機関としての国会の位置づけ、司法審査権、等々に及んでいた。しかしながら死刑制度は、占領政策における課題とはされなかったのであり、この点が、日本に対する占領政策と、同じく占領されたドイツとの違いを際立たせるのみならず、日本がなぜ今日もなお死刑を存知しているのかという説明にも役立つ。
アメリカが、戦争犯罪人を東京裁判において死刑にしたかったからだ(1948年に7名の死刑が執行された)、とする根強い説もある。しかし私の知る限り、日本の激動期(しかも多くの国ぐにでは死刑廃止がもたらされたような状況)を、なぜ死刑制度が生き延びたのかという十分な説明はなされていない。(p.39)

日本の死刑制度は日本人自身が定めたというのではなく、占領軍当局が日本の死刑制度への関心をさほどもたなかったのが理由で明瞭な理由もなく開始され、その後なんら変わらないまま現在に至っているということだろうか。

自民党の長期支配が日本の死刑制度を存続させた大きな理由であるという観察がされている。その指摘は妥当である。そして、欧州の国々において死刑が廃止されるきっかけとして左派政党の存在が大きいという観察がされている。しかし、米ソの冷戦により日本が自民党の一党支配体制にならざるをえなかったのである。日本はソ連の脅威から身を守るためにアメリカ合衆国の言いなりになるという選択をしたのである。そういう政治的な環境のなかで日本に実効的な勢力を有する左派政党が育つ余地はなかった。日本社会党は花瓶政党に過ぎず何の実行力も持ち合わせてはいなかった。

日本民主党は1996年か1998年に結党されたが、それまで信頼できる左派政党が存座していなかった日本のなかで、民主党がにわかに信頼できる左派政党になれるはずはなかったのだろう。

日本の近代が明治元年(1868年)からだとするならば、欧州諸国と比較して日本の近代化は遅れていたのであり、議会制民主主義の始まりも欧州諸国と比較して遅れていたのである。そのなかで日本に信頼できる左派政党など出現する余地はなかっただろう。

ミシェル・フーコー編の『ピエール・リヴィエールの犯罪』には、1935年ノルマンディーの田舎町で起きた、青年ピエール・リヴィエールによる尊属殺人事件の、発生と経過について詳細な観察がされている。

『ピエール・リヴィエールの犯罪』を読むと、日本は2013年現在、1935年のフランスと比較しても司法と行政の形が全くなっていないということが理解できるだろう。日本は近代の始まりが遅かったことにより、死刑制度の廃止は簡単に実現しないだろう。

日本は殺さず安価に飼育する管理思想を有する近代国家には、いまだに到達していないのかもしれない。日本に死刑制度が存在しているのは日本が前近代的部分を多く残している国だからではないか。

国家にとっては人口が不可欠の要素である。人口なくして国家は成立しない。人口こそが国家の源泉だと言ってもいいかもしれない。そう考えれば人口を喪失する死刑制度は国家にとっても望ましい刑ではない。わずかなりとも人口を喪失する死刑制度は国家自身にとって損失にほかならない。ただ、この説明はキリスト教徒には受け入れがたいかもしれない。


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