大学生になって、お金が自由に使えるようになり
今まで見る機会のなかった娯楽に手が届くようになった。
それでここ数年、劇場で本物の舞台芸術を鑑賞する機会が何度かあったのだが、
行くたびにはちゃめちゃに感動している。
高校までは、何かを見て感動した経験がほとんどなく、自分はコンテンツに感情移入しないタイプだと思っていたので、
やっと「感動」が分かるようになったのかな、と思っている。
ちなみに映画は「劇場」で見る娯楽の中で唯一昔から馴染みがあったが、
「君の名は。」を見て以降、映画から受け取るものがかなり変質したなぁ、と感じていた。
それで、昨日。
生まれて初めてミュージカルを見に行き
最初のセリフ、一言目を聞いて早くも泣きそうになってしまった。
自分でもそんな早い段階でグッとくるなんて思っていなくて、びびった。
それで、なんだか今なら「劇場で見る感動」というものを言葉にできそうな気がしたので、まとめてみる。
ちなみに観劇したのは劇団四季×Disneyの「リトルマーメイド」の福岡公演です。
昨日サイトを確認したところ、日によっては当日券もまだあったと思うので、
福岡在住の方はぜひ、ぜひ!!!
本当にすごいです。
なおこの記事には公演内容のネタバレは一切ないので安心して読んでください。
で、本題。
子供の頃は、画面の中に憧れたり、カッコいいと思うことはあっても、
作られた世界をそのまま受け取って、コンテンツを素直に楽しむだけで、
「作品が訴えかけてきた」とか「グッときた」みたいな感覚はなかった。
少ないお小遣いはたいて映画館に通っていた高校の頃ですら、そんなにピンときていなかった。
とりあえずアクション派手でイケメンが出てたから満足〜みたいな感想しかなかった。
映像を作る人になりたくて、その方向の大学に入ってからは、とにかくインプットだ!ということで、高校よりも広く浅く映画を見てきたけど、
それによって映画の裏側の知識が増え、鑑賞という行為に慣れるにつれ
「他作品と比較すると……」とか、
「俳優や監督がここにこだわってて……」とか、
観劇中にオタクの目線で色々考えるようになった。
知識と見聞を深める為に見ていたので、見ながら考えるのはわざとそうしていた部分もある。
が、やっと習得したその脳内考察の癖を、非常に邪魔に感じたことがあった。
それが一昨年、劇場で「君の名は。」を見た時。
「君の名は。」Blu-rayスタンダード・エディション 5,184円 Amazon |
1回目の鑑賞で「これが感動か」とわかって
「初めて感動を覚えた」ということへの感動もあって二重で衝撃だった。
その時は「感動」=「言葉にできない大きな衝動、受けたエネルギー」
だと思っていて、感動したことをわざわざ言葉にするとどんどん劣化していくような気がしていたので、
シアターを出た直後「感動しすぎて、もう二度と見たくない」と思ったのを覚えている。
語弊のないように説明すると、初見の感動を綺麗なままで残しておきたかった、みたいな感覚で。
このまま余計なこと考えずに消えてしまいたいと思った。
とにかく「感動」を知った瞬間だったので、自分の映画人生にとってはかなり大きな出来事だった。
結局、タイムリープ云々が一度じゃ整理できなかったのと、あの大音量のRADの音楽をもう一度聞きたい、と思ったのもあって、
全部で3回、劇場で見たんだけど、
思った通り、2回目以降は前情報があるので、見ながら脳内で考察してしまう。
一度目のような没入感は完全に失われてしまった。
なんかとても悲しかった。
できるだけ純粋な状態で作品を見て感動だけを受け取りたかったから、
見ながら言葉に変換するなんてナンセンスだと思っていたし、
観劇後の2次創作や考察行為は劣化した感動の放出でしかないと思った。
それ以降も、運良く感動する作品に出会えたけど、その度に脳内考察が邪魔に感じた。
今までやってきた考察行為や、成長に伴って得た様々な知識、経験が、完全に自分の首を絞めている感覚だった。
もっと子供の頃みたいに
「すげー!かっこいいー!」
程度の単純な語彙で説明できる感動を受け取りたいのに、
今後どんなに感動する作品に出会っても、コンテンツそのものを純度100%で受け取ることは不可能になってしまって、
「これが大人になるということか......」
という老いへの絶望みたいなのも感じていた。
だけど今日見たミュージカルで受けた感動は、知識があったからこそ受けとれた種類のものだったと思う。
子供の頃に同じ演目を見ていたとしても、驚きこそすれ、最初のセリフで泣きはしなかったろう。
言うなれば「大人の感動」である。
背景にある事情としては、
・最近、役者を応援するようになって、舞台の裏側にいる人々の努力を知った
・学祭で自分自身が大きなコンテンツを作る活動に深く関わったこと
の二つが大きい気がする。他にも21年分の経験が色々関係すると思うけど。
とにかく21歳の私が、完成された舞台には決して現れない、裏にある大勢の人の努力を想像できるようになっていたからこそ、
最初のセリフで「私は今からすごいものを見せられるんだ」と感激してワンパンでぶちのめされ、
実際に初めて見るミュージカルの迫力や技術力や物珍しいことに脳内考察をはかどらせつつも没頭し、
最後まで見終わったときには、こんな素晴らしい演目を作り上げてしまう劇団の人々を心から尊敬し、自分もこんなコンテンツを作りたい、と自然に自分のことに還元することができた。
こんな感動、知識を獲得してこちらの土壌が育っていなければ絶対に受けなかったと思う。
それと知識以外に、今回「大人の感動」の獲得に重要だったと思うポイントは「劇場で生で見た」ということ。
家でPCの小さい画面で同じものを鑑賞しても、画面の周りには自分の部屋の風景があり、
画面の中は全て自分とは違う、遠い世界のものに見えてしまう。
だが、劇場で見ると演目だけに没頭できて、役者の息遣いや作品の覇気を感じ、目の前の役者を自分と重ねやすい。
「大人の感動」は、自分が一度作る側の視点に移動することによって得られるものなので、生で見る、ということが非常に重要だったように感じた。
(なお、映画館の場合も、作品以外に気が散る要素がないので、かなり生に近い効果が得られると思う。でもカメラワークで観客の視点をコントロールできるところが、生の舞台演劇とはまたちょっと違う。)
以上が今回のミュージカル、最初のセリフで泣きかけた話の、説明です。
今回気づいた「大人の感動」のポイントを改めてまとめると
・「この演出一体どうなってんの」「声色の幅がすごい」など、自分が作る側の視点に移動することによって得られる感動である。
・「自分」が介入するので、感動の純度が下がっている感は否めない。
・脳内考察と没頭のはざまで葛藤することになる。
・発動条件はすごい作品を「生で見る」もしくは「生に近い、没頭できる状態で見る」こと。
・自分のことに還元して考えるので「自分も頑張ろう」という気持ちが湧いてくる。
こんなものだろうか。
それと、最後に少しフォローしておくと、散々脳内考察に嫌悪感が〜と言ってきたが、これは多分、演劇を見る上での必要悪なんだろうと思う。
そこに拭えない嫌悪感があるからこそ、純度の高い感動を求めて劇場に行き、また知識が増えて土壌が育つ。
これを繰り返すと、今回のような感動に限らず、いろーーんな種類の感動が得られて
多面的に楽しめるようになるのでは?というのが予想。というか理想。
なので、これからも脳内考察と仲良くやりながら、いろんな演劇を楽しみたいと思いました。まる。