ブログネタ:今年一番大変だったこと
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今年一番大変だったこと…
劇的に仕事環境が変わったことです
昨年の途中までは、研究開発職という技術職の色濃い部署に所属しており、部下はゼロ(笑)
全てが自分基準で、今は身内の製造部署から、品質改善などの依頼があれば、担当者と交渉しながら、期限を守って対応していました。
それが昨年末~今年は、製造の一部署を仕切る一方…
●売上、在庫管理
●報告会スケジュール管理
●不具合改善対策と進捗管理
●週報・月報報告会資料作成などなど…
直接の部下は、60名ほどで日々、慣れない指揮を振るいました
しかも、部署全体600名近い人員のシフトにも影響する投入計画も自分の采配しだい
お蔭で、正論だけでは上位は動かない組織の暗い部分や(><;)
それに、自分が染まれないことが、反乱を起こした部分で明確に分かりました(^▽^;)
来年も変わらないでしょうが、もう少し組織というものを理解したうえで、仕事に取組みたいですね
でないと、マラソン、旅行、史跡巡り、釣り、お笑いLIVEなど私用が忙しいので(笑)
ムダな争いは避けながら、たまに上手くケンカしたいと思います
(そんなん出来るんかな)
で、その影響で中途半端になっていた城跡巡りですが、最近また積極策に出ています
本日も愛車をリコール修理に出した、ついでに代車で遠出
以前、紹介したのですが、阿波が生んだ梟雄のお城へ再訪してきました
地元の方は、知らないのか
滅多と城跡目当てで来る奴が居ないのか
もの凄く怪しまれながら、周辺を散策してきました
この年末年始どこまで回れるかな
で、本日は、途中になっていた海部城記事②です
海部城①はこちら
陣屋跡の傍にある非常階段を10mほど登ると、地道になります。
その地道を登って行くと…
石積み
赤囲み部分に、土塁と思われる盛り土があり、その上下には小さい曲輪が築かれています。
これが主郭と思われる場所までに、4箇所ありましたΣ(゚д゚;)
海部城侮り難し
そして、主郭部分(黄色囲み)にも石積み(赤線部分)と、矢印方向にさらに犬走と思われる場所も
ここで、主郭付近から眺望があれば、なお良かったのですが…
冬でもこの状態です(^▽^;)
当時は眺望も利いたのでしょうが…
【海部城に纏わる歴史】
海部一族は、元々は吉野城 を本城としていました。
しかし、四国制覇を目指す長宗我部元親の勢力が拡大してくると、これに警戒するため、河口付近を見下ろす位置に鞆城(海部城)を築城し、これを本城とします。
その矢先である1575年に、三好 VS 長宗我部の凄惨な戦の引き金となる出来事が、海部郡那佐湾において勃発しました。
『島弥九郎の変』と呼ばれる事変です。
元親の末の弟で、弥九郎という名の武将がいました。
弥九郎は病弱で、病気療養のために当時から有名であった有馬温泉に湯治に出掛ける途中で、嵐に遭遇し、阿波と土佐の境界線である那佐湾に一時的に避難しました。
これを地元漁師が、海部城に知らせたため、当時の城主であった海部友光は手勢100名を率いて、襲撃しました。
結果、弥九郎と供であった家臣30名は討ち死にします。
この知らせに、元親は激怒し、西部(白地・大西城方面)からは、主として調略を用いていきますが、南部(海部方面)は徹底的に力攻めで制圧を始めます。
弥九郎が討ち取られた、およそ半年後に自らが5,000名の軍勢を率いて、宍喰(ししくい)城・鈴ヶ峯(すずがみね)砦へ総攻撃を開始し、どちらも僅か数時間で潰され、海部一族(三好勢)は戦々恐々となります。
しかし、当時の三好家は、中央政権を握っている織田軍の配下となっていたので、織田軍の援軍などもあり、元親も一気に寄せることは、織田軍総裁である信長と事を構えることになるため、躊躇いながら時期を待っていました。
その折、城主である海部友光が讃岐で勃発した反乱の鎮圧に出陣します。
これを機に手勢が整わない海部城は、城兵が皆殺しにされる壊滅状態となり、落城します。
※諸説ありますが、讃岐での三好家への反乱は、元親の策であり、海部城への仕打ちは弟への思いが現れたのだと思われます。
姫若子(ひめわこ)卒業後は、本当に怖いΣ(゚д゚;)
その後、阿波は長宗我部元親が制圧しますが、秀吉の四国征伐に敗れて、阿波から撤退します。
時代は戦国乱世から、江戸時代に変遷し、蜂須賀家政が入国後、海部城は阿波九城として整備し、蜂須賀家の重臣である益田(豊後)長行が城代となります。
益田長行は、家老という立場もあり、参勤交代時に江戸にも上ったため、徳川幕府の幕閣とも親交が深まり、幕閣への贈り物に熱を上げます。
(世に言う賄賂って奴ですね…)
どこまで考えていたのかは分かりませんが、主君である蜂須賀家と同格の大名に取り立てて貰いたい・・・
そういう野心はあったのかも
海部城は、すぐ目の前が太平洋であるため、畿内への物流が盛んで、蜂須賀家としても家老である益田長行を信じて一任していたため、幕閣への贈り物をするには適していました。
しかし、悪事は長続きしないのが世の常(のはず)…
謀に加担した仲間の裏切りにより、益田長行は、現在の徳島市津田の処刑場で斬首となります。
家老であったので、切腹とも言われますが、藩主の怒りはかなりだと思いますので、身分に関わらず、極刑の可能性が・・・
1638年の一国一城令もあり、この事件を機に海部には代官所が置かれます。
これが陣屋跡となります。
その後、海部陣屋は、日和佐へ移されるまでの約160年に渡り、畿内との物流面で栄えます。
中でも、海部刀は全国的に有名となり、全国各地の大名・権力者などが求めた一級品となりました。
現在でも、阿州海部住氏吉は名刀匠として、その名が高く評されています。
これらの深い文化が大好きで、自分は毎年、海部川風流マラソンを走っているわけです
こじつけかな(笑)
今度は、海部刀の文化をご紹介するための取材も検討しています
久しぶりに城跡記事をきちんと書けた感じです(笑)
城跡記事って、地元の大切な文化なので、きちんと伝えたいし、記事上げに時間を要するので、ボチボチやっていきます
次は、牟岐・日和佐・山野上・大西(池田)・犬墓(松永)など控えていますので、年始休みまでにどこまで書けるかな(^▽^;)
ちなみに間で、お笑いライブなども入れますので、なかなかに大変なので、気長にお待ちいただければと思います(^▽^;)