11ー4ツイッター過去のつぶやき〈グランドクロス〉 | 晴れわたる青空の下で

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人類の歴史は、「侮辱された人間が勝利する日」を、しんぼう強く待っている。インドの詩人タゴール

番外編

群れ=コミュニティ形成ですか。私が今まで文字化しようとして出来なかったことに通じます。話はずれますが、正直にいうと私は群れに憧れる気持ちがあります。

いじめを容認していようが、いじめはいけないと言おうが、私は惹かれる。盛り場でわいわいやっている空気が大好きです。

群れ=コミュニティ形成といじめについては改めて謙虚に考えます。脱線ご容赦ください。

これは、あくまで推測ですが、いじめされてる子は、本当はいじめ問題を考えたくないと思っている子が少なからずいるのではないかと思います。

私自身は当時、そうだったと思います。なんとか元気にわいわいやってる空気感に溶け込み、一緒にその雰囲気を楽しみたい、そう思っていたのではないかと思い返します。この空気感作りが下手な人が増えてしまい、変な空気感におたおたする中心者がいて楽しめなくなってしまった。

切り込み方というよりは、切り込まれ方がまずい。「そうじゃないでしょう……」そんな重たい嘆息を繰り返しているのではないかと考えます。

今書いていることは、番外編です。スピンオフみたいなものでしょう。そんなスピンオフに、何かヒントがあるのではないか? そう思い文字化しました。

いじめについての議論が成熟してきていると実感できると、ようやく、本当に検証してみたかった部分にたどり着けます。「いじめが悪いのはもうわかった。じゃあ、これからどうしていけばいいと思う?」そこからようやく番外編に書いたような事を互いに話し合えるようになると思います。

しかし、この番外編は、私が自分勝手に考えたかったことですから、いじめ被害者全員に受け入れられるものではありません。私は底が浅いということを素直に認められそうだ。

それでも私は、自己卑下をせずに生きていかなければならない。謙虚に学び、憎しみの炎を毎日消して生きていこう。砂漠に水などと諦めず、テレビを消して向き合おう。

これではどちらが暴力者であるかわからない。私こそが暴力者となる可能性を秘めているのではないかとさえ改めて思う。公開処刑のむごいやり方には、残酷な仕打ちを経験してきた私でも少し吐き気を覚えた。

処刑のやり方を見てると体につける痛みは、それを考えだした人間の心の激痛をなぞっているように思えた。

だからこそ、いじめの芽は、早いうちにつみとらなければならない。刑のような心の痛みの線を人々に作らせてはならない。

今激痛に苦しむ私たちは、やはり誇りを取り戻す必要があるのではないかと私は思う。それがなければ、心の痛みの体中を這う曲線は、疼きを増してしまう。私が、もしあの言葉に出合っていなければ、この痛みに耐えることなどできただろうか。

そう考えると、少しの痛みを緩和するカウンセラーたちも必要だが彼らだけにはまかせてはおけまい。いじめの初期レベルを越えた子どもたちには問題を先送りさせるだけということになりかねない。

このような今回私が教わり考えた事を学ぶ機会もいる。


いじめは見えにくいという性質もある。だからこそ、悪意のごまかしがまかり通りやすい。それをいじめ被害者が見破れれば幾分かの誇りを取り戻し、人間らしい生活に少しずつ戻していくこともできるだろう。

人間らしい生活とは、人と関わることだ。共に笑い、共に泣き、共に語らうことだと思う。

長時間を割いていただきありがとうございます。一進一退があり、やきもきさせることもあるかと思いますが、毛筋ほどだけでも今回教えていただいた事を無駄にしないようにあらゆる精進を重ねて参ります。

季節の変わり目、お体ご自愛ください。
ツイッターに参加して考えさせられたことを養分として、更なる大樹となろうということだ。自分を大樹などとは傲慢ないいまわしだが。私は気をつけないといけない。やすきに流されないように。自分のごまかしに自分自身がだまされないように。

暗がりから牛を引き出すような鈍さで書いてみます。一月前、一人で動物園に行った。30度を越す酷暑の中をぼんやりとして歩いておりました。猿山に辿り着いたのは昼下りの1時20分。私はサル達を眺めていました。

 私は幼いときから、動物と人間の違いは、周りの人がいうほど差はないんじゃなかろうかと思うことが多くありました。

 最近では、志村動物園のチンパンジーのパン君。お財布を首にぶら下げてコンビニのような店に立ち寄り、大好きな味のジュースを陳列棚から選び出す。ざるそばの入った容器を買って、店員の前に置く。値段を告げられ財布から千円札を一枚出す。

 そのお店に備え付けてあるテーブルに、ざるそばとペットボトルを置いて、お食事。器用にペットボトルのフタを開け、ジュースを飲み干してしまうと、いよいよざるそばだ。包装を破り、割り箸を割る。そばつゆをかけて、そばを箸ですする。わさびを一口で食べて顔を歪める。

 ざるそばを食べ終わるとゴミを袋に入れゴミ箱へ。ペットボトルとざるそばが入っていた容器を分別して捨てる。窓の外を見ると、相棒である小さな白いブルドックが切なそうにパン君を見てる。

 パン君は、どこか申し訳ないようなそれでいて開き直ったような顔をして、店を出てから友人を暖かく抱きしめる。もちろん、テレビの演出もあるだろうから、本当にパン君が軽い罪悪感を感じていたのかはわからない。

 パン君の行動の一部を切り取ったにすぎないかもしれない。パン君はチンパンジーの中でも例外かというと私はついつい疑ってしまう。すべてとは言わないにしろ同じような環境で育てられ、何匹かの成功例(?)が増えたとしたら。どんな進化の可能性があるだろうか、なんて空想してしまう。

 志村動物園のあの温かいコミュニティに属することにより(?)、パン君は、友人を包容するという思いやりだか、ごめんねという気持ちをごく当たり前であるかのように示しているのかもしれない。

 私は何をつぶやいているのだろう……。サル山をのぞくと、私に「あいつが意地悪をしているのをわかってください」と主張しているかのように、ここぞとばかりに、大きめの猿を非難しケンカをふっかけている。

 私の主観でしかありませんから、実際のところは何もわかりません。サル山のお猿さんたちの生活する姿を見ていると、子供の頃に見た郷里の人々の姿にだぶって見えた。あきらめたようにケンカを見ているサルを見て親戚のおじさんを思いだしてしまった。

 サル山を見て、誤解を恐れずに言うなら、「渡鬼」のテレビドラマを見ているかのような胸を軽く締めつけられる思いがした。

 世界観か……。ルワンダの惨劇を知ることの大切さや、すべての人間が備えている暴力性や、より良い世の中に貢献しようとする善の可能性、そして、それらの奥底にある楽観というのか……、どんなに苦しい環境に身を置こうが楽しめてしまう自分というのか。

 謙虚に学ぶことは、私がツイッターに参加した理由の一つです。自説の危うさを他者はどう見て、どんな感想を持つのか。勉強になるなあ。このやりとりがいじめに苦しむ皆さんが新たな視点を持つことになればいいな。

 「暴力、争い、関係性」いじめにより、苦しんでいる人がいる。今日も殴られ悪口を言われ、無視されている。今日も学校に行けずに、酷い疎外感に苦しんでいる中学生がいる。彼らに植え付けられた悪しき感情を解き放つ助けとなるために、試みてみる。

関係性、コミュニティ形成か。何か書けそうだな。テレビといじめに苦しんでいる人の関係性。いじめから離れてみようか。反応的という言葉をつかってみようかな。

人が過敏に反応してしまう時。ビクトール・フランクルの体験。想像力により環境を徐々に変えていった体験。あとは、集団がキーワードかな。

集団、学校のクラスや部活に似た集団。会社とか、このツイッターとか。スピード。気持ちがある状態へと赴くスピード。私は速い。焦燥感があるから速い。いじめから離れる。家族も組織。人が集まる所。

デパートや駅、市民体育館のスポーツ教室。市民プール。喫茶店での公共の福祉。マグナカルタ。法律。韓半島。子どもが産まれたばかりでかわいくてしかたがない父親から見るいじめの問題。

教師の願い、祈り。虐待の恐怖と忍耐。かつての日本兵の蛮行。我が子の出兵を見送る母。ホームレスとなる帰還した女性兵。やかんのお湯がひっくり返った時の様々な反応。車社会。海水浴。友達と行く嵐のコンサート。一人で行くクラシックのコンサート。

黒豚TokyoX。ストレスの無い環境で育てた鶏の美味しさ。突然の夕立に雨宿り、人数は5人。テレビで紹介される行列の出来る店。とりあえずはメモはここまで。

海開きのニュースを見る時の私が感じるあの開放感はなんだろう。そして、親に連れられて海の家の前で佇むあの気まずさはなんだろう。夏祭りの花火大会に、親に連れられて行く時のあのわくわくした気持ちはなんだろう。

突然の夕立で雨宿りした時に居合わせた時の湧き起こる優しさはなんだろう。喫茶店に入った時の気まずさと、よそ行きの態度をとるのはなぜだろう。

良い教師の生徒たちへの祈りとはどんなものだろう。今はいじめる子に成り下がった子の親が、その子が産まれてきた時の静かな決意と喜びや不安。魚を焼いている匂いを嗅いだ時の心地よさ。帰り道家から漂うカレーの匂い。

こう考えていると、単純に学校での拘束時間を短くすればいいように思えてくる。それか、課外授業の工夫をするとか。

茂木さんが連続ツイートで書いてたみたいに、悪い空気の場所を離れて深呼吸をしにいく必要があるのではないか。昼休みが苦痛だという生徒もいる。

私もそうだった。新鮮な空気を吸い込むのは授業中なのか。でも、息詰まる時もあるし、集中を解きたい時もあるよね。「争い」いじめを受けている真っ只中の人の中には争うという感情はほぼ無い。

戦争により甚大な被害を受けた直後、呆然と14歳の我が息子の亡骸を見つめる父親のように。「なんでこんな目に……」いじめ被害者の遺影を見ている父親の心境。

「争い」無知と無知の無知との争い。夫婦喧嘩、兄弟喧嘩、親子の喧嘩。身内との諍いと数年間限定のコミュニティの学校またはクラス。

「暴力」親から子へ。子から親へ。男性から女性へ。女性から男性へ。いじめる側からいじめを受ける側へ。いじめを受けた側からいじめをした側へ。

智者から愚者へ。愚者から智者へ。自国から他国へ。他国から自国へ。暴力の連鎖。謝罪の出来ない人たち。「暴力」権力者から民衆へ。民衆から権力者へ。浴びせる側から浴びせられる側へ。無視した側から無視された側へ。孤独に追い込んだ側から孤独へ。自分に向ける自分への暴力。全体から個へ。個から全体へ。

なぜ、人は成熟していくのだろう。そして、いつからか成長が止まったかのように見える人もいる。この違いはなんだろう。

人との関わりが断絶した時間を多く過ごしてきた人がそうなるのだろうか。群から突然離れて孤独を感じると、人は優しくなれると通俗的によく言われる。

その優しい気持ちが噴き出してくる人は幸せだろう。群れから拒否され続けた人はどうだろう。孤独ゆえに親和への憧れは強烈で、戻る戻らないでもなく、戻る地点がない。

だから非常に困難で無理解も多い。その苦悩に意味を見出すことができれば幾分か幸福だが、意味を見出す知恵がなければその人が感じているのは絶望だけだろう。だからこそ、この苦悩には、絶対に意味があると信じることが大事だと思います。

よし。今日は「離」のために、いじめについては書かずに過ごしてみよう。別のことを考えるなかで、いじめ解決への何かが見えてくるかもしれない。これは決まり事ではなく、今日書く方向性を示しただけにすぎないから返信からは謙虚に学びその上で別のテーマについて考えてみます。

「互恵」を関係性の基調にするしかない。■茂木さん今日の連ツイ■関係性という言葉の使い方を私は学ぼう。互恵とは、互いに特別な便宜や恩恵を与えあうこと。便宜とは都合が良いこと。便宜を図る。基調とは思想の根底となるもの。