これではどちらが暴力者であるかわからない。私こそが暴力者となる可能性を秘めているのではないかとさえ改めて思う。公開処刑のむごいやり方には、残酷な仕打ちを経験してきた私でも少し吐き気を覚えた。
いじめる子
こんな残酷なことができてしまう未成年に驚かれている方も、いらっしゃるかもしれません。もしかすると昨今の生命軽視の事件報道により感覚が麻痺している方も多いのかもしれませんね。
このような悪質極まりないいじめは、今に始まったことではありません。私は同じことをいじめる子にされ、今の彼らと同じ苦悩を味わいました。今までは、このような真実の声は、社会から抹殺され続けてきました。
インターネットの普及により、真実の声をまた、正義の声をあげて、世界中の多くの方に知っていただける機会が日本にもでき始めています。海外在住の方の中にも、日本語が堪能である方もいらっしゃるかと思います。
そんな世界中の悪辣な人権侵害と日々戦う皆様に、日本の隠されてきた「悲劇」「大惨事」を出来るだけ冷静に、できる限り丁寧にお伝えしようと思います。
ありがとうごさいます。大丈夫です。非常に痛みは伴いますが、人権の勝利のために戦う決意は17歳の時からできています。
タゴールは言いました。「虐げられてきた人々の勝利を世界中の人々は待っている」正確な言葉はまた調べ直し、ツイートし直します。
【――インドの詩人タゴールは言いました。「人類の歴史は、『侮辱された人間が勝利する日』を、しんぼう強く待っている」――】
本題に入ります。日本人は非常に和を尊ぶ国民性があり、随分古い時代に来日した宣教師の一人は、「世界中の国々を見てきたがこの国の民族ほど、優れた民族はなかった」と言います。
私の勉強不足ゆえ、詳しい時代背景などはしれませんが、既に当時から、海外の人々の目から見れば大変麗しい人間関係を保った生活をしていたのかもしれません。
しかし、日本人は戦争により、アジア諸国の人々に蛮行を限りを尽くしてきました。数限りない黙殺されてしまった被害者の方達に対し、心から謝罪したい気持ちを持ち続けています。
いじめに苦しみ抜いた私だからこそ、他人事ではすませられない気持ちです。悪辣な人権侵害の被害者である私たちは、人知れず激しい憤りと痛みを抱えて生きています。無理解な人々からの嘲笑に耐え、浅はかな言説に暗澹たる気持ちになることもしばしばです。
私たちの共通の課題は改めて言うまでもありませんが、加害者に対してくすぶる激しい憎しみを弱くしていくことにあります。その自分の心の中に激しくくすぶる憎しみを自ら制覇していくために、最も効果的な手段は何か?
私は日々煩悶を繰り返し、より良い解決winーwinの方途を模索して参りました。人権問題は、語る側も聞く側にも非常に強い痛みを伴う問題ですから、人々はなかなか語り尽くすことを困難に感じています。
「全体の美しい和を維持できるのであれば、多少の犠牲は付き物である」
多くの日本人が生来から無意識に感じている根本的な価値観です。全体のためには命を失っても仕方がなしとする生命軽視の思想が老若男女、貴賎を問わず根深く蔓延っている。一人の命に対するあまりにも理不尽な全体というモンスターからの乖離は、まるで死刑宣告を受けた囚人であるが如く、和の輪を乱す者として復帰することを不可能としてしまう。
そうして、輪の強迫により、多くの人々が全体に屈服し、真実や正義の旗をたたみ、タンスの奥深くに隠してしまう。
過度の人権侵害に加え、村八分の思想が根強く彼を苦しめてしまう。和を乱したとされる人の多くは、生涯全体に媚びへつらいながら生きていく以外の選択肢をことさら当たり前のように奪ってゆくのです。
日本の中学校に、そのまま当てはまるという現実がある。いじめによる自殺者が、日々出ても、さほど関心も示せず平然としていられる理由は、皆がそれを学生時代に目撃してきたからです。「いじめで死ぬなんて大げさ」考えられないかもしれませんが、日本人でそう考えている人々は少なくないのです。
東京大学の教授であり、「障害学」の福島智教授がNHKのバラエティー番組に出演された時の言葉の数々が大変印象深く、考えさせられました。
「障害っていうのは、そういう取り扱いをされることが障害なんです」いじめに当てはめて考えてみましょう。「そうゆう取り扱いをされる」とは、いじめの場合では、どんなことがあるだろうか?
まず、ひとつは、こうして大人の議論に巻き込まれるということ。次に、「君は弱いね」という誤ったメッセージを投げかけられること。また、様々な偏見にまみれた眼で見られること。人とのコミュニケーションのスタートが限られてしまうこと。
これらあげた問題は、良きにつけ悪しきにつけ、私たち大人によって巻き起こされる障害。次に、いじめをする側の悪の証明、いじめをされている人の無実の証明が曖昧なため、教育の現場はいつまでも混乱しており、最適解になかなかたどり着けない。
よって、あらぬアドバイスに困惑したり、自分がなぜいじめられているのかが全くわからなくなる。いじめられる側に問題があるという教師たちの勘違いは長い間素直な少年たちを苦しめ続けている。
次に、いじめる子といじめられている子の直接的な障害について考えてみます。まずは、暴力です。殴る蹴るの暴力は、大抵複数の人間により行使される。
私はしっぺという遊びで手首が紫色に晴れ上がるまで、数十回めいいっぱい叩かれました。理由はジャンケンに負けたからです。そして、ジャンケンに勝ってもやられるのは私でした。アンフェアなことを強要されます。
当時私は、それでもクラスメートと遊べるという純粋な友情への憧憬がありました。悲惨な現実の真っ只中にあっても、他者を思いやりたいという素直な気持ちを流出させていました。
しかし、いじめも暴力も、受け止めきれないほど衰弱している日がほとんどであり、執拗な彼らの攻撃に「今日は勘弁してくれよ」と心の中で呟いたものです。
次に、直接的であり、心や精神をズタズタにされていく過程について考えてみたい。無視や仲間外れ、そして、消しゴムを切ったカスを、後ろの席から投げつけるいじめ。これらのいじめが一番苦痛を伴い、後年までの後遺症としてしっかり負の遺産を受け継いでゆきます。
いまだに私は20年前のいじめの影響により、疑心暗鬼に陥り苦しむことがあります。私は10年以上「私がだめな人間だからいじめられたんだ」と思い込んで生きてきました。
だからこそ余計に自分は本当に迷惑をかけていないだろうかと恐らくは人並み以上に検証を行います。ではなぜ、こうして私は書いているのか? 様々なリスクを想定した上で、どうしていじめについての書き込みをするのか?
それはいまだにいじめに苦しんでいる人々がたくさんいるからです。現役の生徒だけではありません。かつて、いじめを受けた大人たちも出来れば思い出したくない事実として、激しい痛みに人知れず身をよじりながら生きています。「声をあげても無駄」そんな諦めたふりをして苦しい日々を送る人々がいます。私たちはこの激しい疼きを越えなければなりません。いじめの難点として、行為そのものはかわいげのある遊びとしてしか第三者には映らない。
そこがまた、いじめ被害を受けた人が、「あれぐらいのことで、いまだに深く傷ついている私ってなんだろう……」と悩ましい自己否定の海へ沈んでいきます。
いじめをしてしまう子は、嘘をついてしまいます。その嘘は自己保身から生まれるもので、本人の自覚の有る無しに関わらず、この嘘は長い間、日本中に蔓延してしまっている。いじめる子は、誰を騙しているというのか?
まずは被害者である。ありとあらゆる種類のいじめがあるが、そのいじめに共通していると思うのは、いじめる子による自己正当化による嘘なのです。「お前なんかに生きている価値がない」などと言い、自分の内側にあるやりきれない生の感情を練り込むため、その嘘は強烈な真実味を増します。
次に、クラスメート。中心的な彼が煽る言動の勢いに、確たる道徳観を持ち得ない少年少女たちは、彼が作り出した台風に飲み込まれてゆく。戸惑いを覚えていた子たちも、いつの間にか台風の悪しき暴風に快感を覚え始める。続いては教師。いじめる子たちには愛嬌があり、いじめをしていない時の彼らは初々しくかわいらしいものです。
その心の交流を持った子を悪だなんだという大人は何様だと思うようになる。そんな彼らも、思った以上にエスカレートしていく彼らの行為に肝を冷やすのである。そして、自分の言葉の矛盾を解消できずに、つらさの塊のように見えている生徒にどぎまぎするのだ。
次は、親と世間。「なんで我が子をそんな鬼畜扱いされなければならないのか」「いじめはどの時代にもあったでしょ」この狂った考え方は長年日本人ならよく耳にし日常会話で交わされてきた言葉だ。そんな世間までも騙し、次にその毒は、なんと、いじめ被害者の親をも蝕む。
「いじめられる方にも責任がある」。いじめに苦しんでいる子は混乱します。なぜなら身に覚えがないから。そして、もう1人、自分自身を騙します。しかし、自分が悪いというごまかしは、いくらがんばっても消えない。当然である。
口からは、色々といじめられた側の非難を繰り返すが、無意識に迫り来る良心の呵責は、よほどのことがない限りやむことはないだろう。いじめる子は嘘に騙され、その嘘を周りに信じ込ませていく。案外簡単に浸透してしまう嘘は彼らにとって万能感に浸る喜びなのかもしれない。
結果、いじめる側の嘘にすべての人がだまされている。その嘘を被害者が見破った時がいじめを乗り越えたと言えると思う。
これではどちらが暴力者であるかわからない。私こそが暴力者となる可能性を秘めているのではないかとさえ改めて思う。公開処刑のむごいやり方には、残酷な仕打ちを経験してきた私でも少し吐き気を覚えた。